それぞれの戦い/カリナ
地上の地響きに合わせてパラパラと土壁が落ちるのを、静かに丸くなって見つめている。
妊婦の母親に負荷をかけまいと、女の子が腕に爪を立てて不安を押し殺している。
その子の隣に座り直すと、軽く目が合った。
「大丈夫?」
「……うん……」
少女が細く頷く。
ステラの光リムが一定間隔で配置されているおかげで、こんなに暗く心細いトンネルの中でも、その不安を見て取ることができる。
ステラからは革の水筒に入った聖水も配られている。万が一魔物がきたらこれをぶっかけろと言っていた。これをかけるために、撫でられるような距離まで魔物に近づいて?…………ばかじゃないの?
あいつは本当にそういうところがある。
「ねえ、聖女さまって見たことある?」
特に話題はなかったのだけど、なにか話しかけた方がいいのかなと思って、震える女の子に声をかけてみる。
「メイちゃんのこと……?」
「あー…………そうそう、メイさん。フフ。パン屋さん行ったことある?」
「うん。おつかいで行くの」
「そうなんだ。どのパンが好き?」
「輪っかのやつ」
「いいね。私も大好き。美味しいよね」
「うん」
「………………」
「………………」
子どもと会話を続けるのって難しい。
*****
十二歳のとき、ジルに紹介されてステラの家の雑用を手伝うようになった。あの鐘がくそうるさい家ね。平民様がスラム民への浅い同情から環境の悪さを誇張して話しているのかと思っていたけれど、本当にうるさかった。
ユナさんから文字を教わり、自分でも書けるようになった。
掛け算ができるようになったし、ナイフも使えるようになった。
油汚れの上手な落とし方を知っているし、良いトレと悪いトレを味で判別できる。
シーツをしわが残らないように洗うことができる。
リムスの干し方を知っている。
薬草の取れる場所もいくつか案内できる。
でも、それだけだ。
ジルみたいになんでも完璧にできないし、アルみたいに動物になつかれないし、キャルみたいな愛嬌はないし、クエルみたいに口も上手くない。私のあとにステラやエルミナ様に拾われた平民やスラム出身者はたくさんいるけれど、みんな私よりもなにかしらに秀でていて、才能があった。
なんというか、私は最初期に雑ピックされた人間だから、まだステラの人を見る目が培われていなかったのではないかという気がする。今だったら私は絶対に選ばれない。
ステラは自分が平民代表ですみたいな顔をしているけれど、私に言わせたら、あの人は身分の代わりに才能を持っている。才能で上を目指している。才能のある人間ばかりを周りに侍らせている。いうなれば才能主義。これが彼女が忌み嫌う貴族主義といったいどこが違うのか、私にはよく分からない。
結局のところ、〝持っている者〟と〝持たざる者〟の断絶なのだ。ステラは前者で私は後者。そこには貴族と平民ほどの深い溝がある。
加えていうと、自分は不幸こと全部知ってますみたいな顔をしているのも気に入らない。
そりゃもちろん、あの鐘がくそうるさい家から、公爵令嬢の隣を勝ち取っているのはすごいと思う。だけどそれは彼女が〝持っている者〟だからできることであって、「よーし、ステラみたいに私もがんばるぞ」とはならないのだ。
ステラには私をスラムから引き上げてくれたという大恩があるし、しっかりと返していくつもりだけれど、それはそうとして、私はステラという人間が嫌いだった。
*****
「難儀なやつだねえ」
愚痴飲みに付き合ってくれたジルが、薄いエールを飲み干してから答える。
スラムで身を寄せ合って一緒に飢えをしのいでいた彼とはもはや別人だ。彼と飲みに行くとき、私は自分が誇らしい気持ちか、惨めな気持ちかのどちらかになる。
「恩があることと、好き嫌いは別の話でしょう」
彼に合わせて、私も一杯目を飲み干して、おかわりを注文する。
「どこか嫌なんだ?」
「他人の不幸を自分のせいだと思っているところ」
「……よく見てるな」
「ステラってさ、人間を助けなければならないと思っているよね。誰も助けてなんて頼んでないのに」
「カリナは思わない?」
「どっち?」
「人間を助けなければ、の方」
「そりゃあ……困っている人がいたら助けたいと思うとは……思う。でもさ、ステラのはなんか違わない? 生き急いでいるというか、もっと自分を大事にしろよって思う。自己犠牲? 高邁な精神? 貴族的な義務? そんなもので助けられても困るわけ。助けられた方の気持ちに全然寄り添ってない」
「溺れてる人間の前で契約書を作って、双方の署名を入れて、代金の半分を前払いでもらってから川に飛び込む?」
「だめ。〝正しさ〟の戦いを私に仕掛けないで。負けるから。ステラの方が正しいなんてことは分かってる。今日は議論じゃなくて愚痴の日なんだから」
「なら黙って聞くぜ」
「ありがと。私はあの人の価値観がよく理解できないから怖いんだと思う」
「前にステラも言ってたな。魔物を怖いと感じるのは、対話ができなくてよく分からないからだって」
「ハハ、それだわ。ステラの正しさが分からないから怖いの。ステラの中にある基準で自分がいつの間にか『正しくない』に入ってしまうことが怖い。あの人って割と人間が嫌いだと思うし……。あー、そっか、私は施し手の独善性が怖いんだな。……あ、今、総体の幸福量の話をしようとしたでしょ。だめでーす、今は愚痴タイムなのでクリティカルな反論は嘔吐と見なしまーす。ほぅら、そこの壺に吐いてこーい」
「お前のそういうところはステラの影響が大きいと思うぞ」
「あとユナさんね」
「実際、もうずいぶん昔の話だけどさ、もし正しさがズレてきたと思うならいつでも殺しに来てくれって言ってたぜ。うちの聖女様」
「そんなの口だけでしょ。絶対死ぬ気ないでしょ」
「まあな。少なくともオレは、ステラを殺そうとするやつがいたら死ぬ気で阻止する」
「あーあ、カッコいい騎士様を従えちゃってさ。石でも投げてやろうかな」
*****
私は、ステラに石を投げた平民の少女を知っている。
あるいはそれは、私だった。
路地裏で泣いている少女を見つけて声をかけると、どうやら母親が病気らしい。食べ物をほとんど受け付けないのだという。
連れられて少女の家に行ってみると、衰弱した母親が静かに横になっていた。頬はこけ、顔は黒ずみ、目の周りが窪んでいた。咳と発熱があった。起きている間はトレで痛みを誤魔化しているけれど、夜中は痛くて眠れないらしい。
私には薬草の知識があったがどれも役に立たなかった。彼女がもう先長くないことはその姿から悟れた。医者にも来てもらったけれど、静かに首を横に振るだけだった。
私はジルを通してステラに相談した。
彼女はおそらくは学園の授業を抜け出してすぐに来てくれた。
子どもは聖女様が来てくれたと大喜びをした。
『聖女物語』の中には、病に侵された者が祈りで元気になる掌編がある。
だから本当に悪いのは、石を投げたのは、少女を元気づけるために「聖女が来てくれるよ」と伝えた私なのだ。
ステラは母親の様子を見ながら毎日少しずつ会話し、傍らで祈った。
連日やってきては同じことを繰り返し、持参するトレの量だけが増えていった。
唯一救いがあったとすれば、それはむせ返るほどのトレ煙が充満した部屋で、苦痛少なく死ねたことだろう。
火葬のあとで、少女がステラを呼び止めた。
「助けてくれないのなら、どうして期待させるようなことをしたの?」
それは本来、私にかけられるべき言葉だ。私に投げられるべき石礫だ。
ステラはなにも悪くない。私が母親の死を受け入れて泣いていた少女に声をかけ、希望を抱かせ、より深い絶望に落とした。
だけどステラはただ俯いて「ごめんなさい」と謝った。
その光景に、カッと頭が熱くなるのが自分でもわかった。
精一杯やったと言えばいいのに。自分は悪くないと言えばいいのに。私が連れてきたからだと言えばいいのに。
理不尽な断罪なんて、撥ねつければいいのに。
私はステラが嫌いだ。
他人の悲嘆や不幸をまるで自分のことのように背負い、強奪する。
まるでそうしなければ、私たちが生きていけないとでもいうかのように。
自分が不幸を背負わなければ、他人は幸せになれないと考えている。
馬鹿にするのもいい加減にして。
あんたがいなくたって、私たちは勝手に幸せにだって不幸にだってなれるんだ。
仮に聖女の行いが『聖女物語』のように後世に遺るとして、彼女自身が編者になるとするならば、きっとこの少女のエピソードは取り入れないだろう。
明るくて、前向きで、楽しかったことばかりを取り上げて、「なんかふわっと楽しくこの国を救っちゃいました」みたいな顔をするだろう。「私は楽しいことばかりだったから、みなさんは気にしないで幸福になってくださいね」という顔をするだろう。
苦難や苦悩の側面は心の奥底にしまって、わざわざ他人に語るようなことはしない。あれはそういうタイプの人間だ。
だから私は責苦を奪われた人間の感傷的な復讐として、口伝でもなんでもいいから、絶対にこの話を遺してやる。あんたの聖女としての美しい物語にミルクを垂らしてやる。人間が、あんたなしでも幸福になれるところを見せてやる。
*****
「カリナ姐、こっちは奥の方まで避難したから次移動して」
光リムが弱くなってきたころに、アイビーが呼びに来てくれた。
揺れる地下道を母娘を連れて移動する。娘の方を私が抱いているから、アイビーはお腹の膨らんだ母親が転ばぬように、慎重にその手を引いていく。
アイビーは二年前に親を亡くして、今は孤児院で暮らしている。随分と背が伸びたものだ。当時はちょうどこの娘くらいの背丈だった。
アイビーの母親が亡くなったとき、部屋には煙が充満していた。
だから彼女は当時のことをあまり覚えていないにも関わらず、トレのにおいを嗅ぐとなぜだか涙が出てくるのだという。
不幸のない人間なんて存在しない。
十や二十、あるいはそれ以上の不幸に押し潰されそうになりながらも、人間は生きていかなければならない。
こうして誰かに助けられ、誰かを助けながら生きていく。
それが普通なんだ。
不幸を抱えていることは、決して「不幸」ではない。
地上の振動が伝わってくる。
貯蓄の切れかかったリムの光が弱くなる。
腕の中で震える女の子を、優しく強く抱きしめる。
――ねえ、ステラ。私たちは生きるために頑張っているよ。
だからさ、こっちのことは気にしなくていいよ。
あんまり色々背負いすぎるなよな。
彼女にはおそらく「他者を助けなければ」という一種の脅迫的な観念がある。
それは『聖女物語』の聖女像の影響かもしれないし、確実に私のせいでもあるだろう。
「期待させるからには助けなければ」ならず、『聖女』という肩書は他者を「期待させて」しまう。だから「聖女は他者を助けなければならない」という猛毒を抱えてしまった。
だから、私の、私に唯一できる贖いは、ステラに、「あんたの助けなんて期待してないんだよ、ばーか」と言い続けることである。地位も才能もない立場から、〝持たざる者〟の立場として言い続けていくことである。
下町のことは私が、私たちみんなが頑張る。
こっちがこんなになっているんだから、きっとそっちはもっと大変なんだろう。
あんたがスラムに来るようになってから、魔獣に襲われなくなったし、人攫いに会わなくなった。
温かい食事が食べられるようになったし、屋根の下で寝られるようになった。
この前の建国祭のときなんか、浴びるほどに酒を飲んだし、美味しいもんもたらふく食べた。あのスラムが去るのが名残惜しいくらい楽しい場所になったなんて、数年前の私に言っても決して信じないだろう。
ここいらの人間は多かれ少なかれ、既にあんたに救われているんだ。貴族の生まれでなかろうが、選ばれていなかろうが、才能がなかろうが、鐘の音が馬鹿みたいにうるさかろうが、人間はそれなりには生きているんだ。
感謝してる。本当に感謝している。
だからさ、あんたはあんた自身のために、誰かの不幸を背負うためではなく、あんたが幸せになるために闘ってきてよ。
それで飄々と帰ってきて、不幸なんて知りませんよみたいな顔で生きて、また私にあんたを嫌わせてよ。あんたの物語が完成する前に死んだりしたなら、私が殺してやるからな。




