神が去った世界
「飽きた」
それが、全ての始まりだった。その一言を残し、神パド・メレはズィーラーを去ったのである。パド・メレの神器たる聖杯にはプラーナが満たされていたが、パド・メレが去った以上は今後聖杯にプラーナが補充されることはない。それはズィーラーという世界が遠からず崩壊することを意味していた。
混沌の海にあって、世界というバイオスフィアにはプラーナによる殻が必要だった。だがこの殻は外側から徐々に混沌の海へ溶けていく。つまり何もしなければプラーナの層は徐々に薄くなり、最終的にはなくなってしまうのだ。
つまりズィーラーという世界が存続していくためには、プラーナの供給が欠かせない。だがズィーラー人は誰一人として、自力でプラーナの供給はできない。それを溜めておくための技術は色々と開発されたが、神ならざる身ではプラーナの供給は行えない。それは神の御業であり、ズィーラーにそれをしていたのは神パド・メレだった。
その神パド・メレがズィーラーを去ったとき、エーデルベルトはまだ子供だった。そして神に見捨てられたというその事実に絶望した。絶対だと思っていたものが脆くも崩壊したのである。まだ少年だった彼が自失呆然となったのも当然だろう。
そもそも絶望し生きることに投げやりになったのは彼だけではない。この頃、ズィーラーの民のほぼ全てが彼と同じだった。だがその中にあって絶望に屈せず、民に道を示した男がいた。当時のズィーラー皇帝、つまりエーデルベルトの父ユーデルベルトである。
「我が民よ。我が愛する臣民達よ。今日より朕がそなた達の父であり神である。朕はそなた達に道を示そう。共にその道を歩むのだ」
ユーデルベルトはそう訴え、ズィーラーの民は縋るように彼を支持した。ユーデルベルトが示した道、それはズィーラーを他の世界と融合させ乗っ取るというもの。言うまでもなくそれは侵略であり、成否にかかわらず大きな犠牲と多大な禍根が予想される。だがそれでもユーデルベルトの指揮の下、ズィーラーはその道を邁進した。
「我が子よ。父がなぜ、侵略などという強硬手段を選んだか、分かるか?」
「全てはズィーラーの民のためでございます、父上」
「そうだな、民のためだ。……いかなる世界に身を寄せようとも、神に見捨てられし我らは蔑まれよう。対等には見てもらえぬということだ。そして何かある度に悪者にされる。人は分かりやすく諸悪の根源をもとめるものだからな。
それにな、他の世界に身を寄せるだけでは、我らはこの第三の目に宿る力を失うことになる。神パド・メレを失い、己の力さえも失うというのだ。恐怖であろうな。民は耐えられぬよ。つまりだ、我らにはやはり我らのための世界が必要なのだ」
父がそう言って浮かべた皮肉げな笑みを、エーデルベルトは良く覚えている。父の胸の内にあった本音がどのようなものなのか、エーデルベルトには分からない。ともかくその侵略作戦のために、ズィーラーは動き始めた。
ユーデルベルトは身を粉にして働いた。寿命を削って力を使い、その果てに一つの世界を見いだした。それがル・アーヴル。女神アレークティティスが創りし、聖樹に抱かれた豊穣の世界。
なぜその世界が選ばれたのか。その理由は聖樹の精髄だった。聖樹の精髄とはアーヴルの神器であり、要するに聖樹の種だ。そしてアーヴルに満ちるプラーナの根源でもある。これを奪取して聖杯に収めれば、聖杯のプラーナは尽きることなく、そしてズィーラーもまた永遠であろうと思われた。
だがアーヴルを見つけたその矢先、ユーデルベルトは倒れた。力を使いすぎたのだ。病床に臥し、余命幾ばくもないと診断された彼の顔は、しかしこれまでになく穏やかだった。ただ見舞いに来た息子に対してだけは、彼はすまなそうな顔をした。
「すまんな、エーデルベルト。結局、最後の決断はお前にやらせることになる。辛い決断だ。いや、あえてこの道を進めとは言わぬ。お前がどんな道を選ぼうとも、父はそれを肯定しよう」
「ありがとうございます、父上。私は、そして民も、父上の示された道を往きます」
「そうか。では、民を頼む」
そう言い残し、皇帝ユーデルベルトは崩御した。エーデルベルトは父の跡を継いで即位し、アーヴルへの侵略計画を進めた。そして二十余年の後、全ての準備が整った。聖杯に残されたプラーナは三分の一を切っており、タイミングとしてはギリギリ。エーデルベルトは直ちに作戦の発動を宣言した。
「空の聖杯作戦、開始せよ」
作戦の第一段階は「二つの世界の部分的な融合」。これによりズィーラーは主力部隊を一挙にアーヴルへ送り込み、電撃戦によって中枢を制圧。聖樹の精髄を確保する、という筋書きだった。
しかし作戦は出だしから躓くことになる。アーヴル側の拒否反応が強く、「二つの世界の部分的な融合」がなかなか進まなかったのだ。後に分かったことだが、これには聖樹の神子と呼ばれる存在が関わっていた。そしてこれにより、アーヴル側に体勢を整えるだけの時間的猶予が生まれた。
ズィーラーとアーヴルの戦いは、文字通り世界の存亡を賭けた総力戦となった。双方に大きな被害を出しながら、戦況は一進一退を繰り返す。だが趨勢の天秤は徐々にズィーラーの側へ傾いていった。
「ジークハルト将軍! お止めください、それ以上は!」
「すまない、マルガレーテ! 私は逝くよ!」
「ジーク!」
驍将と名高いジークハルト将軍とその直属部隊による英雄的奮戦のすえ、ズィーラー軍はついにアーヴル軍の防衛線を突破。以降、各地で勝利を重ね、三ヶ月後にはその優位を動かぬものにした。
ただしそれでも、アーヴル側の抵抗は激しかった。特にズィーラー軍を苦しめたのはゲリラ戦。土地勘のない異世界でズィーラーは泥水を啜ることになった。だがしかしズィーラー軍の士気は高い。たとえ牛歩の如き速度であろうとも、彼らは着実に前進を続けた。
追い詰められたアーヴル側は、しかしズィーラーへ降伏することを拒否。神器たる聖樹の精髄を侵略者へ渡すことなど、彼らにとっては考えられない。また仮に降伏したとして、待っているのは奴隷としての未来。断じて許容できるはずもなかった。
しかし現実問題として、もはや戦力差は絶望的であり逆転は見込めない。聖樹の精髄を奪われるのも時間の問題だろう。そこで考え出されたのが、究極の焦土作戦とでもいうべき、「箱船作戦」だった。
「アーヴルの民をコールドスリープさせて総旗艦グラン・アーヴルに収容。その後、ゲートを開いて本隊はアーヴルの外側へ脱出する。最後にアーヴルを崩壊させ、ズィーラーを根絶する」
それが箱船作戦の概要である。全てが上手くいったわけではない。ズィーラーは根絶されず、瀕死ながらも生き延びた。そして世界を捨てて逃げ延びたアーヴルの民を待っていたのも、長く辛い旅路だった。
大局的に見るならば、ズィーラーもアーヴルも、戦争によって何一つ得ていない。双方共にただ大きすぎる損失を被っただけである。これほど愚かしい話もないだろう。そしてその両者がほぼ同時期に同じ楽土を見つけたことは、もしかしたら運命の必然なのかもしれない。その楽土は地球と呼ばれていた。
ユーデルベルト「私は神になれなかった男なのだ」