雨宮芽衣─運命の人
「お疲れ様ー、乾杯」
「お疲れ様です」
グラスをコツンと打ち鳴らしてよく冷えたビールを流し込む。
私が春樹さんの会社に勤めて、あっという間に半年近くが経った。
最初のうちはついつい残業してしまって呆れられていたけれど、今では程々に抑えられている。
というのも、例え定時で上がったとしてもすぐに帰らなければならないというわけじゃなくて、そのぶん春樹さんの居住空間で少しだけゆっくりさせてもらうことができるので、自然と残業が減っていったのだ。
でもそれで彼との距離を劇的に縮められるかと言えばそう都合良くもいかず、既に素敵な婚約者も大勢いる中では私のようなモブにスポットライトが当たるわけもなかった。
だからこそ今回のように二人きりになれる食事の機会は貴重だ。
もう数えて5回目にもなるが、定期的に春樹さんは私を食事に誘ってくれている。
たしか初めは私がお給料が入ったら美味しいものを食べに行こうって話だったと思うんだけど、なんだかんだで結局毎回春樹さんに奢られてしまっているので、もはやただのご褒美にしかなっていない。
「あの……春樹さんはどうしていつも私に優しくしてくれるんですか?」
「ん? どしたの? 今日はネガティブな感じ?」
今日はというか……元々私は自分に自信があるタイプでもないし、ネガティブというよりかは単純に不思議だったのだ。
心身を病んでいた私を、配信を通して救ってくれて、そればかりか春樹さんの会社に拾い上げてもらってからは労働環境も生活レベルも改善されて、それだけでも崇拝したいくらいだというのに、こうして個人的に時間を取って何故か私をもてなしてくれる。
春樹さんには何のメリットもないだろうにと不思議に思っても仕方ないだろう。
「ただの一社員に過ぎない私に、残業のことを気遣ってくれたり、こうして食事に誘ってくれたり、なんだか甘やかし過ぎじゃないですか?」
「そうかな? 割と普通だと思うんだけど……。あっ、もっと厳しくされたいってこと? 確かに入社した時に聞いた性癖だと──」
「わぁあ、やめてください!」
話を遮って、恥ずかしさを誤魔化すようにグラスを煽る。
まったく……想い人に性癖を知られているなんて、いったいどういう冗談なのか。
でも、知ってて採用してるってことは春樹さん的にはアリな性癖ってことなんだろうか。もしそうならば春樹さんはSってことになるけど……
──はっ、もしかして私に優しくしているのは実は絶望に叩き落とすための前振り……ってコト!?
自身のひらめきにゾクゾクと電流が走るような身震いを覚える。
だけどこれは私の妄想でしかない。こんなに優しい春樹さんがそんなことをするだろうか。
一度それが気になりだすと確かめたいという誘惑に駆られてしまう。お酒の席だし、どうか許してほしい。
景気付けに更にもう一杯、グイっと煽ってから切り出してみる。
「あの……春樹さんって、えーと、違ってたら申し訳ないんですけど……ちょっとSだったりしませんか?」
「え? そういう風に見えるってこと? うーん、どうだろうね……あんまり考えたことはないけど、痛そうなのとか可哀想なのは無理だし……違うんじゃないかな?」
違った……やっぱりそうだよね。春樹さんと実際に過ごしているとこんなにも優しいし、そんなはずないよね。
落胆と安堵がないまぜになったような気持ちで納得していると春樹さんが言葉を続けた。
「あー、でもハードなのは無理でもソフトなのはちょっと興味あるかも。拘束とか目隠しとか」
あまりに明け透けな発言に思わず吹き出した。
──え? それ本気で言ってるの? いくらなんでも私に都合が良過ぎない?
「えー、芽衣さんからこの話振ってきたのに吹き出すのはひどいよー」
「あっ、あ、ごめんなさい、ちょっとびっくりしちゃって」
春樹さんの顔を見るとほんのりと赤い。彼はいつもお酒が入ると特にガードが緩くなるというか、結構際どい発言をしたりする。
でもそれは逆に、気遣いとかではなく本心であるということの証明でもある……はず。
「あの、きょ、興味があるなら、ちょっと試してみませんか?」
「…………え?」
──や、やってしまったぁぁぁああああ、さすがに浮かれ過ぎでしょ私っ! いくらなんでもそれはドン引きされるよぉ……
つい性癖が噛み合った興奮で誘いをかけてしまうなんて我ながらキモすぎる。さすがに春樹さんも困ってしまって言葉に詰まっているように見える。
「い、いや、今のは冗談で──」
「えっ、冗談だったの?」
くっ……なんでそこで残念そうな顔になるの…!
正解が、正解がわからない…!
「冗談……ではないんですけどー……」
「ふーん」
恥ずかしくて火を吹きそうな顔をあげて春樹さんを見るとニヤニヤしながらこちらを見ている。
──あ、これ、からかわれてるやつだ…!
どこか嗜虐的な笑みを浮かべる春樹さんに身が粟立つが、同時にどうしようもない嬉しさを覚えてしまう。
やっぱりこの人は、Sの素質がある……
「芽衣さんが、試してみたいんでしょ?」
挑発的に告げる春樹さんの目に射すくめられると、偽りの言葉なんて告げられるわけもなく。
「はい……」
──あぁ、私はいま春樹さんの手のひらの上にいる。
こんなことで喜びを感じてしまうなんて、やはり自分はどうしようもなく被虐趣味なんだと実感するが、そんな私に合わせてくれている春樹さんがますます愛おしい。
私を救ってくれた人。
私をいつも気にかけてくれる人。
私を、きっと満たしてくれる人。
運命の人だなんて、チープな言葉かもしれないけれど、それくらい彼のことしか考えられない。
食事を終えて店を出ると、私の手を取って歩きだす春樹さん。
無言で向かう方向は彼の部屋でも、私の帰り道でも無くて、期待と不安で胸が高鳴って行く。
きっと今夜は忘れられない夜になる……そんな予感がしていた。




