修行
人里離れた山の中で一人、鬱蒼と茂る草木に囲まれた視界の中で襲い来る野生動物と、闇に潜む幾人もの刺客たち。
丸一昼夜の間動き回った肉体的な疲労と慣れない環境での精神的な疲労に加えて、睡眠も食事も満足に取れていないという極限状態にありながら、俺はかつてない集中力を発揮していた。
今では朧げながら殺気とでもいうのだろうか、何かが来るような感覚も察知できるようになり、音もなく飛来する小石を避けて身を隠すように動き回る。
何故こんな極限サバイバルみたいな状況にあるかと言えば、一言で表すなら……修行だ。
──先日、俺は襲撃を受けた。
慣れた近所への買い物ということもあり、何の気負いもなく歩いていたところで、外国籍の女二人組がすれ違い様に突然俺へと手を伸ばしたのだ。
初めは痴女の類かと思ったが、触れる間もなく瞬く間にセツナに取り押さえられ所持品を検めてみれば、ナイフやスタンガン、更には拘束具といった危険物がいくつも出てきて、俺は初めて護衛が付けられていることの意味を思い知った。
帰ってからセツナに聞いてみれば、こういった輩を取り押さえるのは実は今回が初めてのことではなく既に何人か捕らえているという話で、俺が何も気が付かずにのほほんと日常を送っていた裏で、彼女たち護衛の献身があったのだという事に気付かされた。
襲撃者の目的は様々だが中には国際的な企みもあったそうで、拉致ならまだしも短絡的に俺を暗殺せんと近づいた者もあったそうだ。怖すぎる。
国家で最も価値ある唯一のSランク男性を失えばその影響力は計り知れないだろうと。
もちろん我が国も、なにより二条家が舐められたままでは終われないと襲撃者を説得しては身元を吐かせ、二度と同じ真似を起こさないようにしっかり裏で報復を行なっているという話だったが、俺は一つ考えを改めさせられた。
──襲われた時に何も出来なかった。
油断と言えばそれまでだが、事が終わるまで何も動けずにただセツナに任せていた自分が嫌だった。
おそらくこの世界では異質な価値観であろうことは想像に難くないが、男として女に守られるて立ちすくむ自分が情けなかった。
今の恵まれた体躯はただの飾りなのかと、この筋肉は見せかけだけなのかと、そう思いたくなかった。
だから渋るセツナに頼んで、本格的な鍛錬を付けてもらうことにしたのだ。
突発的な事態に対処するための瞬発力や胆力というものは一朝一夕で身につくものではない。
だが、セツナが幼き頃に経験したこの方法なら或いはということで、二条の保有する山にぶち込まれたのだ。
門下生だか構成員だか分からないが、二条に属する者たち10名ほども協力してくれて、俺の修行に付き合ってくれている。
もちろん相応に手加減されているのは分かるし、色々と配慮してくれているのは感じるが、それでもやはり過酷な環境下にあって人は成長するもので、丸一日をここで過ごした俺は確かな実感を得ていた。
「お疲れ様です、春樹様。今回の鍛錬はここまでとしましょう」
背後から掛けられた声に振り向くといつの間にやらセツナが立っていた。たった今自分の成長を実感していたところだったのに全く気が付かなかった……
内心で軽く項垂れながら今回のベースキャンプとしている山小屋へ歩を向ける。
他の協力者たちは山小屋は使わずにそのまま下山するらしい。少なくとも俺と同じ時間は山中を動き回ってたはずなのにパワフルだね。
そんなことを考えながら歩いていると、いつもは口数が少ないセツナが珍しく口を開く。
「さすがは春樹様です…限られた時間の中で素晴らしい成長振りでした。特に危険を察知して身を躱す動きなどは、とても素人とは思えないレベルに達しています」
手放しでの賞賛が面映い心地だったが、たった今セツナに気がつけなかった事もあり素直に喜べないと伝える。
「私の気配を察知できるようになってしまったら、それこそ存在意義が疑われてしまいますよ」
苦笑で応えるセツナは、確かに他の集団とはレベルが違うのだろう。だけどいつかは一度でもセツナを驚かせられたらいいなと、そう思った。
山小屋に入って腰を下ろすと、緊張の糸がようやく切れたのか疲労がどっと押し寄せてくる。
正直もう立ち上がりたくもないのだが、本気で今日中に下山して帰るつもりなのだろうか。
セツナの方を見やればあらかじめ釜戸に火を起こしていたのか、もう料理を始めている。
俺も手伝いたい気持ちはあったのだが体が鉛のように重く億劫で仕方なかったため今回は甘えることにした。すまん。
しばらく待って用意されたのは燻製肉と山菜やキノコの炊き込みご飯とお吸い物。食べてみれば塩気が濃いめに効いていて、疲れた体に染み渡る。
「セツナも本当に料理上達したよねぇ。めちゃくちゃ美味いよ」
「恐縮です…春樹様の教えが良かったからかと」
謙遜してるなぁとも思うが、そう言ってくれたことが、武術の面では守られた挙句に教えを乞う立場の俺としては、一つでも俺から教えてあげられることがあって良かったなとも思う。
そんな食事中にパラパラと雨音がし始める。
そういえば天気予報はどうだっただろうかと考えるが、はっきりとは思い出せない。雨では無かった気もするが、山の天気は変わりやすいと聞くし考えても詮無いことだろう。
「なぁセツナ、今日はここに泊まっていっちゃダメかな?」
正直ただでさえ疲れているというのに、雨の中で下山なんかしたくない。
「泊まること自体は問題ありませんが…」
妙に歯切れが悪い様子に尋ねてみれば、ここには寝具は一つしか用意されておらず、ただでさえいつも寝室には立ち寄らせない俺と二人で狭い山小屋に泊まっていいのかという事だった。
確かに俺は睡眠環境には並々ならぬ拘りがあるが…そうも言ってられない状況だし、何よりこれだけクタクタで睡眠不足ならば多少環境が悪くても寝れるんじゃないだろうか…たぶん。
そんなことを話すと、セツナも躊躇いながらではあるが首を縦に振ってくれた。
しかし寝具が一つってのはどうにもならないよな…
セツナならば不寝番を買って出そうな気もするがそんなことはさせたくない。そもそも彼女は睡眠中であろうと些細な気配を敏感に察知できるため不寝番自体に意味がない。
まあいくら考えたところで、どうなるわけでもないし、なるようになるか。
いつも通り楽観的に考えて、残った食事を片付けた。




