宮本美玖─練習
ドラマの撮影も順調に進み、来週はいよいよ最終話の撮影がある。既に放送分も折り返しを過ぎていて反響は上々…どころか社会現象レベルだ。
私の所属するグループも主題歌を担当したこともあって爆発的に人気が出ている。
それだけの期待を背負って、絶対に失敗は許されないとプレッシャーを感じるのも無理はないだろう。
だというのに……
「ねえ、春樹。本当に最終話のアレ…できるの?」
「俺は問題ないけど……美玖は不安?」
この人の心臓は鉄で出来ているんじゃないだろうか。
最終話のラストにあるキスシーン。監督は画角で誤魔化すこともできるという話だったけれど、春樹は原作を尊重するなら誤魔化しはダメだと一蹴した。
確かに原作でのキスシーンは見開きでガッツリからの、その後も計4ページは攻守入れ替わりながらキスし続ける程の熱量で描かれている。
あれをやるなんて想像しただけで顔が熱くなる。
私は今までキスなんてしたことがない…つまりこれがファーストキスということになる。
ドラマでは男役の女優とヒロイン役の女優さんのキスシーンは少なからずあるけれど、今まで私がそんな役を務めたことはない。
「私は、不安……ってわけじゃないけど! 春樹の方こそ、き、キスシーンなんて経験ないでしょ! 練習に、付き合ってあげてもいいけど」
本当は私の方が不安だけど、仕事の上では先輩としてありたくて春樹の前だとつい強がってしまう。
「俺はキスならそれなりに経験あるけど…」
「…え?」
言われてみれば、この人って婚約者がいるんだっけ……しかもたぶん数人。
春樹が私の知らない誰かとキスしていることを考えたら、胸がギュッと締め付けられるような思いがして、自分が惨めに思えてきた。
「あ、あー…でも撮影としてのキスシーンは未経験だから、練習に付き合ってもらえたら嬉しい…かも」
気を遣われている……
というか私だって撮影としてのキスシーンすら未経験なんだけど。
「ちょっと待ってね……あーっと、おっ、これだ」
春樹が鞄からコミックスを取り出して今回のキスシーンを開く。
台本だけじゃなくて原作もちゃんと持ち歩いてるんだ…というか随分読み込んでいるようで、折り目でくたくたになっている。
本業でもないのに、こうやって本気で取り組んでいる姿勢は素直に好感が持てるし、監督に対して原作を尊重したいと言ったのも納得だ。
しかし改めて原作を見ると、これを再現したとして本当に放送して大丈夫なんだろうか。
視聴者の感情は間違いなく揺さぶるだろうけど、情緒とか大丈夫そう? 私殺されたりしない?
これまでのイチャイチャシーンなんかでは基本的に好意的な反響しか私の元まで届いていないし、エゴサした感じでも悪く言っているのは極少数だけど……
「美玖、どうかした? 練習しないの?」
「うーん…これ放送して大丈夫なのかな、って」
さっきの懸念を話してみると、春樹は納得しつつも笑い飛ばした。
「そんなの、どれだけ良いものを作っても批判したり攻撃してくる人は必ず居るんだから気にするだけ損だよ」
聞いてみれば春樹もエゴサした時に自身のアンチスレなるものを見つけたことがあるらしい。
内容としては春樹が配信者として活動し始めてから視聴者が減った男性配信者なんかが春樹のことを女に媚びてるなどと叩いていたのだとか。
「俺もね、悪く言われたら傷つくし、悪意を向けられるのは怖いよ。でもどうやったって無くならないんだ、こういうのは。だからもう見ないことにした」
私もそういう風に割り切れるだろうか。
なんて考えていたら、立ち上がった春樹が私に近づいてくる。
「もし、美玖がまだ不安だって言うなら…俺が守るよ」
壁を背負う私の逃げ道を塞ぐように手を着きながら告げる春樹に胸が高鳴った……けど、もしかしてこれって、今キスシーンに向かおうとしてる?
役名じゃなくて本名で呼ばれてるしセリフもちょっと違うけど、これ私の役の麗華お嬢様が自分の弱さを、劣等感を、暗い感情をぶつけた直後のシーンだよね?
まさか流れるように練習に入るなんてと驚いたが、私も演技のスイッチを入れて対応する。
「あ、あなたに何が出来るって言うの! あなたは…私の執事でしかないじゃない…!」
「…確かに俺には大した力なんてない。金もない。権力もない。でもたった一人の女の子を守るのにそんな大層な力なんていらないだろ」
執事とは思えない乱暴な言葉遣いだが、二人きりの時には砕けて話すことができる、これまでに築き上げてきた距離感だ。
更にグッとこちらに顔を寄せてくる春樹に、戸惑う私は少しだけ覇気を失う。
「守るってなによ……もっとはっきり言いなさい」
「俺が、ずっと傍にいる。一生麗華の執事として、寄り添って生きる」
その言葉は確かに嬉しいけれど……あくまでも執事としてというのが不満だ。
「意気地なし…」
私の責めるような言葉に、少しだけムッとした春樹が近づいてくる。
本当は、ここで私は驚きと戸惑いの表情を作らないといけないのだけど、今から本当にキスをするのだということを意識してしまうと、その唇の感触を鮮明に感じたくて視界を閉ざしてしまう。
「ん…」
唇が触れ合う。これが私の初めてのキスの感触。
原作でキスシーンがあれだけ長く描かれていた理由が今ならわかる。こんなのやめられるわけがない。
柔らかい。良い匂いがする。気持ちいい。頭の中がバカになっていく。もっとしたい。ずっとしていたい。
初めは私が壁に押し付けられるようだった体勢も今では入れ替わり、私から縋り付くようにキスを求めていた。
「春樹…♡」
もう役のことなんて頭に残っていない。
ただ快楽だけを求めて貪るようにキスをする。
どれだけの間そうしていただろう。
息継ぎも上手くできなくて、乱れた呼吸のまま顔を離すと少しだけ頬を赤く染めた春樹が呆れた顔でこちらを見ていた。
「…美玖、ちょっとがっつきすぎ」
「うっ……ごめんなさい……」
「ま、まあでも、練習しておいてよかったね。本番でやらかしてたら流石にヤバいよ今のは」
私の醜態を苦笑で流してくれる春樹は、やっぱりキスくらいでは動じないんだなと思うと少しだけ胸がチクりと痛んだ。
「まだ上手く出来ないから…、もっと練習に付き合ってよ」
だから少しだけわがままを言った。
「うーん……まぁ、そうだね、練習だもんね。わかったよ。……でも俺も我慢には限界があるからなあ」
受け入れてくれることは嬉しいけど、今最後に小声で我慢って言ったよね?
私とのキスが我慢が必要ってこと? それほど嫌がってるようには見えなかったけど…
じゃあ、私みたいにもっとしたいのを我慢してるとか? なんて、自分に都合が良すぎる考えだろうか。
わからない…けど確かめる勇気はない…今はまだ。




