桜木葵─特別な呼び名
部活が終わって、家に帰るともう19時前。
今日もスマホにはお母さんから帰りが遅くなると連絡があった。いつもならコンビニで何か買って帰るところだけど今日は真っ直ぐ帰ってきた。
でもなかなか踏ん切りがつかない。
ハル様は来てもいいって言ってくれてたけど、本当は迷惑なんじゃないかって考えると、どうしても二の足を踏んでしまう。
念のためシャワーで汗を流して、ちょっとおしゃれしてみたけど、あたしみたいなそこらへんにいるただの中学生が、あのハル様の家を訪ねるなんて恐れ多い気がする。
玄関まで来てもどうにもぐるぐる考えてしまう。
─やっぱりこのまま下のコンビニに何か買いに行こうかな…
と、考えたところでチャイムがなった。
ドアモニターまで引き返すのも面倒だったので、何も考えずに目の前のドアを開けると、そこにはハル様がいた。
「葵ちゃん、こんばんは。…もしかして出かけるところだった?」
「…え? ハル様!? どうしてここに?」
「どうしてって…涼子さんから俺の方にも連絡が来てたから迎えに来ようと思ったんだけど…」
お母さん…ありがとうッッッ!!!
でもこの間ハル様の家に挨拶に言った時を思い出すと、娘を売り込みつつもあわよくば自分もとか考えてそうだったので素直に感謝しづらい…!
「あ、あたしも! ちょうど今ハル様の家にお邪魔しようかなーと思ってて…」
「おー、じゃあちょうどよかったね。おいで」
差し出してくれた手を取ると、そのままギュッと握って、さっきまで動けずにいたあたしを簡単に連れ出してくれる。
優しい…好き…。
でも、手を繋ぐという初めての甘い経験はたった数歩で終わってしまう。
なにせお隣りさんなのだから仕方がない。
どうしても手を解きたくなくて、玄関で緩みそうになったハル様の手をこっちから強く握り返した。
ハル様は少し驚いたように見えたけど、困ったように微笑むと、手を繋いだまま器用に靴を脱いでそのままリビングに行くと、ソファに並んで腰かけた。
ずっとこの時間が続けば良いのに…
「あのさ、葵ちゃん」
「はい! ハル様!」
「その…ハル様っていうのやめない? なんか距離を感じるっていうか…ほら、こないだ家族みたいにって話したじゃん? だから、お兄ちゃんとかさ、そんな感じで呼ぶのはどうかな?」
「ハル…春樹お兄ちゃん…」
あたしはお隣りさんだと知る前に、まず配信者としてのハル様を知っていたから、まだどこか現実感が湧いていなかったけど、特別な呼び方をしてみると、本当にずっと距離が近くなった気がして、心が喜びと幸せで埋め尽くされていく。
「春樹お兄ちゃん!」
「ゔ…うん、良い感じだね! これからはそう呼んでもらえるかな? じゃあそろそろご飯の準備しなきゃいけないから…」
春樹お兄ちゃんは何故か一瞬苦しむように呻いたように見えたけど、笑顔で受け入れてくれた。
嬉しい嬉しい嬉しい嬉しい嬉しい。
ご飯の準備をすると言って、繋いだ手を持ち上げて見せる春樹お兄ちゃん。
手は…離したくない…でも邪魔もしたくない…
「…じゃあ、あたしも準備手伝わせてください!」
手を離さなきゃ準備ができないなら仕方ない。
でも一緒に準備するならまだ近くにいることができる。
「おー、まあ今日はもう殆ど出来上がってるんだけどね、じゃあみんなで準備しよっか! セツナ」
「此処に」
「ぴゃあっ!」
…めちゃくちゃびっくりした。そういえば護衛のセツナさんだっけ。すっかり忘れてたあたしが悪いんだけど心臓に悪い現れ方は勘弁してほしい。
お兄ちゃんはイタズラが成功したみたいにけらけら笑ってた。
なんとなく二人きりの時間に水を差されたような気がして、むすっとしてしまったけど、一緒に準備して三人でご飯を食べた後にはもうそんなこと忘れてしまった。
今日の料理は春樹お兄ちゃんだけでなく、セツナさんも一緒に作ったみたいで、美味しいですと伝えたら嬉しそうに笑って頭を撫でてくれた。
一日で、お兄ちゃんとお姉ちゃんがいっぺんにできちゃった。




