閑話 天帝と赤い妖蝶
いつ入室してきたのか。
この場の誰も気づかなかった。
けれど光を落としたのは紛れもなく天帝アスィーラその人であり、その威容は間違いなく彼等の間近にあった。突然の出座は何度経験しても慣れるものではなかったけれど、天帝の行動を制限できる筈もない。五人は顔を伏したまま、次の展開を待った。
政治を司る五凌帥ですら、許可なく彼女を直視する事は認められていない。
五凌帥、いくら最高幹部と呼ばれようと、天帝と彼等の間には超えようのない隔絶がある。
「転機が、来ている――」
「は……、はっ!」
長い沈黙の後、不意に発せられた言葉を決して聞き漏らさないよう耳を傾けた。聞き返すなどして、天上人の気分を害する事があってはならない。
「心せよ。嵐が、来る――」
「北大陸で何か? ま、まさか、ブラヒム様が……⁉」
「だが問題は、ない。余は、一族が切望する瞬間を、知った――」
「それは……、す、素晴らしい……」
今回のヒエミ大陸侵攻も、彼女の発案である。
説得力のある侵攻理由こそ五人が考えたが、未だ悪い報告は届いていない。たとえそうだったとしても、勝利で終わると誰もが確信している。
「我等エルフが、負ける事など、ない――」
「勿論……、勿論ですとも」
「もうすぐ蝶が、舞う――」
「――!」
顔を上げない、ではない。とても顔など上げられなかった。
それだけの重圧が、五凌帥を襲う。何度経験しようと、何百年仕えていようと、圧倒的な存在感に抗える気がしない。
謎の圧迫感に心臓を掴まれ、滝のような汗が流れ落ちる。恐怖――ではない。畏れ多さ、敬愛の感情が心の中を支配する。あえて表現するなら、圧倒――かもしれない。
おそらく、天帝はその座に就いた瞬間から人間ではない何かに代わってしまったのだろう。魂の階位を上げたのか、精霊か何かと同一化したのか、天帝と言う上位存在に転じたのか……そうでもなければ説明できない。
しかし、詳細を彼等が知る日は来ない。
真実を誰かが知る必要もない。
ひたすら平伏して次の言葉を待っていると、ふとした拍子に重圧が消えた。そのままの体勢で気配を探ると、傑出した存在感が消えていた。
どうやって出入りしているかは知らない。敬服する時間が終わった事だけが確かだった。
「――!」
しかし、超常の時間は終わらない。
最高幹部の五人が顔を上げた先、天帝の存在を感じていたあたりに籠が置いてあった。鳥籠のようなそれの中には、赤い宝石が一つだけ。
「嘘、嘘、嘘、嘘……、嘘だっ!」
「まさか……、ま、さかっ…………!」
クタイファとヤクトの二人が叫ぶ。今度は間違いなく、恐怖からのものだった。
だからと、状況は変わらない。
「嫌だ、嫌だ、嫌だ……、やめておくれ」
「許してください、許してください、許してください……!」
「………………(フルフル、フルフル、フルフル)」
通達はなかった。
説明など必要ない。五凌帥は勿論、ユーシアメイルの誰もが知っている。
天帝だけが持つ最悪の処刑装置。
泣き叫ぶ五凌帥の心情など欠片も汲む事はなく、宝石は血のように赤く鈍い光を発し始める。その動作が更に心胆を刺激し、部屋中に混乱と悲鳴が満ちる。
光の中から現れるのは死を告げる使者。
鳥籠のような荒い網目はそれを閉じ込める役目を果たさず、一匹の蝶が飛び立った。
「来るな、来るな、来るな、来るな……!」
「お願い、来ないで、来ないで、来ないでったら……!」
いくら懇願しようと、蝶が羽ばたきを止める事はない。
ナーディラを、ヤクトを、マジードを、ハーシムを素通りして――蝶はクタイファの肩へ触れた。
「ど、どうして……⁉ 嫌だ! 嫌だ! 嫌だ! 嫌だ! 嫌だ! 嫌っ……、ぎゃああああああああああああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ…………」
形相が絶望に染まったのは僅かな間だけで、悲鳴もそのタイミングで途切れた。
骨という骨が溶け、皮も肉も内臓もドロドロになって一体化し、クタイファ土君卿だったものは見る見るうちに赤い塊となった。こうなってしまっては声を出す器官も損壊してしまっており、どんな表情をしているのかも分からない。辛うじて、目と鼻が随分と離れた位置にあるのだけが確認できた。
人間の尊厳など残っていない。
ほんの一瞬で、彼はあらゆるものを奪われた。
しかし、これでも死は訪れない。
死ねた方が幸せだった。
動く事も食べる事も出来ないから、このまま放っておけば衰弱していずれ死ぬ。
逆に助けようと思ったところで、そんな方法は残っていない。こうなってしまっては、切っても水に浸けても燃やしても、衰え以外で死がもたらされる事はない。
死を待つだけの肉塊だった。
どれだけ意識が残っているかも、知りようがなかった。
何度もこの惨劇を目にした四人は、最期の瞬間まで呻き声を上げ続ける個体を見た事がある。目からは決まって何か液体が流れていた。それが血の混じった涙なのか、糞尿なのかは判別できないけれど。
蝶はゆっくりと籠の中へ戻り、いつの間にかその姿を消していた。とりあえず、処刑されるのはクタイファ一人で済んだらしい。
これは魔法ではない。だから、逃れる方法は存在しない。
蝶は対象をどこまでも追い、確実に肉塊へと変える。
それはただの結果。ただの現象。
蝶の標的となった時点でこうなるという確定事項。
最高幹部の一人がどうしていきなり悲惨な死を迎える羽目になったのか。
どんな罪でこの処刑方法が選ばれたのか。
残った四人に知らされる事はなかった。知る必要がないのだろう。
義憤にかられたところで、彼の罪は未来にあるかもしれないのだから、調べようもなかった。下手に関心をもって、知るべきではない事実に触れてしまったら……自分もこうなるかもしれないという恐怖が思考を止めさせた。
彼には処刑されなければならない理由があった。
知るべきなのはこれだけでいい。
それに、天帝はもうすぐと言った。今回の処刑のみを指しているのではないのだろう。
そして、嵐が来るとも。
併せて考えれば、戦略兵器として赤い蝶を使用する事態が来るのかもしれない。そういった使い方は記録上にもないが、あの宝石は蝶を無数に呼び出せる。空と大地が赤く染まる事態も考えられた。
想像するだけで吐き気を催し、ヤクト炎錬卿は口元を押さえた。他の三人も青い顔をしている。
そこまでの惨劇など考えたくもない。
だが、天帝が未来に見たならそれは必要な選択であり、この国のためにも絶対である。
この国全てが、天帝アスィーラの慈悲と畏怖で縛られている。
誇りもある。忠誠もある。恩義もある。エルフに、ドワーフに生まれた事を幸運に思い、幸福を噛みしめている。けれど同時に、どうしようもなく恐ろしい存在に命を握られているのも事実だった。
神様なのか、精霊なのか、もっと別の超常的な存在なのか。
そういった偉大な何かに仕えているという矜持もあった。
一方的に支配されているのではない。
神秘的な存在に忠誠を見出している。だからこそ、自分達は特別なのだと思えた。
そんな彼等がするべきなのは、後始末だけ。
とりあえずはクタイファの肉塊を墓場に安置し、バウワーフ土君家の中から後継者を選び、経験を積ませる。一人死んだからと、ユーシアメイルの政治を滞らせるような事があってはならない。唐突な当主の処刑を、バウワーフの一族が不満に思うような事態にしてもいけない。
五凌帥の役目は、アルブウェルグ連合国を正しく管理する事。
誰が欠けようと、どんな目に遭おうと、何を思おうと、役割を放棄する権利は与えられていない。当然、天帝様の思惑を類推できるような立場にもない。
五凌帥は最高幹部。
天帝アスィーラ様の手足となって国を管理する道具。
ナーディラも、ヤクトも、マジードも、ハーシムも、のろのろと動き出し、そのまま自分達の役割を全うするのだった……。
「フフフ、フフフ、フフフフフフ……、ハハ、アーッハッハッハッハッハッハッ…………!」
中枢塔の最上階。
入り口も窓もない隔絶された部屋で、高らかに天帝が笑う。
およそ千年前、即位と同時に知った未来がもうすぐ叶う。
失敗はない。
そのための備えを積み重ねてきた。たった今、土君卿を処刑したのもその一手である。
彼を生かしておけば近い未来、勝手に軍を動かして撃退された上、恐怖に負けてこの国の機密を漏らす。
予期した未来を揺さぶるほんの僅かな隙。
だから排除した。これでもう、不安要素は存在しない。
それに、歴代最強と名高い天子ブラヒムがいる。
絶対死を与える蝶がある。
ユーシアメイルが落ちる日は決して来ない。
天帝アスィーラは未来を確信していた。
「もうすぐ――、もうすぐで――」
北大陸への侵攻も、獣人共の反乱も、望む未来を叶えるための一要素でしかない。そのためにアスィーラは千年を生きた。
エルフの悲願。
歴代の天帝が抱いた宿望。
この瞬間に、未来視を持つアスィーラが君主の座にあるのは天啓に他ならない。
激突するエルフと獣人の大軍勢。
戦況を一変させる無し人の魔法使い。
エルフの超兵器群をも薙ぎ払う巨体。
ユーシアメイルの番人を討つ獅子と象徴たる長塔を斬る少女。
空一面を赤く染める妖蝶。
そして――
未来視でも届かないその瞬間を現実とするために、あらゆる手段を講じてきた。
「もうすぐ、この地に精霊が降りる――!」
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