モヤモヤさん 2
それが起こったのは、私の誕生日から2週間くらい経った頃だった。
それまでの間に、私室、食堂、談話室、テラス、ガゼボ、それらに向かう廊下を含めた私の生活圏の掃除は、ほぼほぼ終わっていた。
その日、玄関ホールを掃除した私は、カントリー〇ードを口遊みながら戻ってきた。
まだまだ体力の無い私が掃除をした後は、お昼寝の時間と決まっている。
いつものように全身を拭いてもらって、寝間着になった私はベッドに入った。
元気に動いている間は気が付かなかったけど、横になった途端、溜まった疲労が私の意識をあっと言う間に刈り取ってしまう。周りに控えるフラン達メイドの見守りもまるで気にならない。
おやすみなさい。
ぐっすり眠っていつもの爽快な目覚め―――は、この日、訪れなかった。
「ヒッ……!」
目を開けた瞬間に惨状を知ってしまい、形にならない悲鳴が漏れた。
黒い。
視界に黒しか映らない。
私を含めて1メートル程の範囲が黒く、黒く染まっている。
見た事がない量のモヤモヤさんが、見た事のない密度で、そこいら中にべったり付着していた。
「ひぐっ……!!」
号泣した。
元アラサーの恥とか外聞とか、一切介入する余裕は無かった。
起きたらおむつがぐっしょりだった時でも、こんなに泣いた事はない。
おねむの私を見守りながらウトウトしていたらしいフランが吃驚して飛び起きて、一緒に泣き出してしまうくらいの爆泣きだった。
考えてみてほしい。
目が覚めてヘドロみたいな中に沈んでいたらって……そりゃ泣くでしょ。今世一番の大泣きだった。
当然大騒ぎになった。
メイド長がモヤモヤさんの中から私を抱え上げて助けてくれて、飛んできたお母さんが私を受け取って抱きしめてくれて、仕事中のお父さんもやって来たけど何もできずにオロオロして、何とかあやそうとしたメイドさんの一人がぬいぐるみを掲げて話しかけてくれて、他のメイドさんが私の箒を握らせてくれて……。
漸く私は少し落ち着いた。
「どうしたの? 怖い事があったの?」
優しく問いかけてくれるお母さんは涙目で、少し震えていた。
普段あまり泣かない私が泣き喚いたものだから、母も怖かったのかもしれない。
親も経験を重ねて親らしくなるのだと、前世の記憶で知っている。でもって私は長子、こんな突発的な事態への心構えはまだまだ不足してたんじゃないかなって、後になって思えた。
とは言え、この時点の私にはまだまだ余裕が無かった。
何か分からないものにべったり埋まっていたんだよ。気持ち悪いし、訳分かんないし、正直まだ怖い。
「ぐす……、くろ、いぱい! べど、もぁもぁ、いぱい、やぁ!!」
私はぐずりながら、けれど必死でベッドを指す。
払えば消えるいつものモヤモヤさんとは訳が違う。
汚水をぶち撒けたみたいに厚みを持って広がって、全身にへばり付いたこのモヤモヤ、害のないものじゃないと言って貰わなければとても安心できなかった。
部屋にいた全員が私の示すベッドを見て、しかし、困った顔で、不可解そうな視線が、再び私に集中した。
あ。
疑問にはずっと思っていた。
あんなに汚れているのに、どうして?
きちんと掃除も洗濯もしてるのに、残った黒い汚れを誰も気にしていないのは何故だろうと。
やっと分かった。
見えて、ないんだ。
気にしなかったんじゃない。知らなかった。
もしかして、とは何度も考えて。
でも流石に有り得ないと、その度切り捨ててきた。その可能性をここに至って否定できなくなった。
視線の先では、メイドさん達が枕をひっくり返し、お布団を持ち上げて、私が泣いた“原因”を探してくれている。泣きながら訴えた私を信じようと懸命に動いてくれている。
お姉ちゃんとしての使命感なのか、ベッドに顔を擦り付けるように探すフランの仕事着なんて真っ黒だった。
それが却って証明になった。
何より目立つ異常、真っ黒なモヤモヤ溜まりに、黒く染まったフランに、誰一人として目を向けない。
私だけがあれを見ている。
きっと、存在自体を誰も知らない。
私だけに見えるあれは一体何なのか。
誰も見えないし気にしないとは言え、放っておいて良いものか。
人に害をもたらすものではないのか。
何故私だけに見えるのか。
他にも見える人はいるのか。
誰も答えをくれない。
でも私だけが見えるあれを、無視して生活はできない。私は向き合う他ない。
つまり、今後はモヤモヤさんについて誰も頼れず、私だけで調べて一人で解明しなければならない問題って事になる。
周囲に相談するかどうかも、私の責任で選ばないといけない。
もっとも、今の私ではうまく説明もできないから、それはまだ先の話だね。
今できるとしたら、あのモヤモヤが何なのか、私なりに調べて情報を増やしておくくらいかな。
一方で、安全な距離の取り方も学ばなきゃだね。
これまでの私は、両親やメイドさん達が止めないなら大丈夫だろうと判断を頼り切りにしてきたんだけれど、まさか、可視不可視に違いがあるなんて思わなかった。
これまでみたいに、軽い気持ちでモヤモヤさんを扱う訳にはいかないらしい。
心が強制冷却されて、嫌悪感も恐怖もどこかへ行ってしまった。
モヤモヤさんが見えていない以上、“原因”は決して見つからない。けれど説明もできないので、申し訳なく思いながら、作業を続けるメイドさん達を見つめていた。
私の為にと張り切っているようみたいで、フランが特に熱心に探してくれている。
そしたら早速、モヤモヤさんについて新発見があった。
フランの髪、腰の辺りまである2つのおさげがフルフル揺れて、モヤモヤ溜まりを払ってゆく。黒いヘドロが目に見えて減っている。
汚れているのは服だけで、フランのお肌も髪も綺麗なままだった。消えた先が彼女の中なのは間違いない。
見えるのは私だけでも、扱うことは私以外もできるかもしれない!
これは大切な発見だ。
そう思った瞬間、私は既に叫んでいた。
「ふぁーんねーちゃ、おさげ、ほーき!」
ビシッと指差すと、フランの目が真ん丸に開いて、すぐに涙で一杯になった。
フランお姉ちゃんのおさげって私の箒みたいで凄い、と言いたかったのだけれども。
フランお姉ちゃんのおさげが箒みたいって、悪口にしか聞こえなかったよね。
ごめん、間違えた。
モヤモヤさんの事が説明できない以上、言い間違えなくても結果は同じだったかもだけど。
泣かせたい訳じゃなかったの! ホントにごめんなさい。
いつから脳と口の神経が直結されたの!? どうした私!
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