閑話 エノクの一時帰国
イーノック・アモントンは、数年ぶりに帝国の地を踏んだ。
学院卒業まで王国で多くを学び、王国の教育を浸透させてからの帰国となる予定であったから、手続きには随分と手間取った。それも、現在の彼の境遇を思えば無理もない。
彼以外の皇族は全て処刑された。臣籍降下した親族も、先の戦争への加担度合いによっては死罪となった。生き残った者も、全て監視付きで蟄居状態となっている。皇族の血統を残したいという国民の意向に沿う形で生存こそ許されたものの、既に帝国に王制は残っていない。クーロン帝国との呼称も、議会政治が浸透すれば改める事になる。
議会制といっても、当面は王国から派遣された議員が三分の一を占める。残りの三分の一も、王国の息がかかった貴族、文官が名を連ねる。アモントン公爵もその一人だった。
卒業後、彼には王国の令嬢があてがわれ、王国の意向を伝える中継役となる。
これでも、王国からすると随分温情ある措置と言えた。
服従する貴族以外は全て首を落とし、王国が政治の全てを掌握しても良かったのだ。イーノックという傀儡に相応しい駒もいた。帝国側の意見など聞き入れず、王国の都合のいいように国を作り変える事も可能だった。
その場合、イーノックは発言も自由も許されず、一室に幽閉されて過ごしただろう。皇帝の参加が必要な儀式にだけ顔を出せばいい。政治に参加する事もないから、学院に通う必要もなくなる。適当な機会に“病死”させられていたかもしれない。
ワーフェル山のダンジョン化で王国に多大な被害を出しておきながら、戦争で惨敗した国が何か言える筈もない。
それにイーノックとしても、従来政治の解体は必要な過程だったと思っている。武力ばかりを優先し、王国を征服すれば全てが丸く収まると盲信していた体制は変革しなくてはならない。これからの帝国に必要なのは、絶対の支配者より多角的な意見を持ち寄る代表者達だろう。
王国の許可なしに政治が進行しない状況には不満も多いが、これまでの帝国の信用を思えば仕方ない。政治体制を切り替えただけで、旧態依然とした軍国主義を続ける訳にはいかないのだ。
奪うのではなく、自国の文化的水準を発展させていかなくては先がない。
今回、ダイポール皇国への技術供与の話を聞いて、イーノックは羨ましいくらいだった。未だ王国への敵愾心が色濃い帝国に、スカーレット・ノースマークが生み出す新技術の数々が供されるのはいつの話になるだろうと不安になってしまう。敗戦国は世知辛い。
「う~ん……! 移動だけで疲れたな」
車から降りたイーノックは、全身を解す。長い時間車に揺られて、身体のあちこちが凝り固まっていた。
「移動だけで一週間以上も費やすなど、もう王国では考えられませんからね。その生活に慣れたイーノック様が不満に思われてしまうのも仕方がありません」
「うん。新技術を生み出す機会は得難いものだけれど、それに慣れるのは早いものだと痛感しているよ」
国境まで迎えに来てくれていた腹心に愚痴を言う。彼はイーノックの皇子時代からの側近で、王国へ亡命した後も唯一残ってくれた。今は帰国できないイーノックの代理として、帝国に貢献してくれている。
「私も、王国に滞在していた期間がそれなりにあったので理解はできます。できるなら、飛行列車はなるべく早い段階で取り入れたいですね。それだけで、帝国の各地が近くなります」
「広い国土を掌握する為にも有用な技術だとは思うけれど、機動力の獲得は軍事力にも直結するからね。許可が下りるとは思えないよ」
「……悩ましいところですね」
ならば自国での開発を期待したいところではあったが、そう都合よく天才が生まれるとも思えない。
「それでも、皇国で代替技術が完成しそうだとの情報は入っている。このまま帝国だけが後退する訳にもいかないだろう。開発着手の許可だけは打診しておくよ」
「助かります。成功するかどうかはともかく、研究者の育成は喫緊の課題ですので」
「うん。こちらを任せている分、折衝は僕の役目だろう。なに、細かく報告を入れるなら、独自技術の発展を阻害される事はないだろう」
当然、帝国の発展を警戒する貴族は多い。特に軍事転用可能な技術の研究については、非難される可能性も想像できた。
しかし、技術面の方針についてはノースマーク子爵の意向が強く働く。帝国が新しい技術を生み出す事で彼女の発想を刺激できるなら、難色は示されても最終的には許可が下りるだろうと信用できた。
「本当に、彼女にはお世話になってばかりだね」
「……? イーノック様、何かおっしゃいましたか?」
「いや、自分の不甲斐なさを噛み締めていただけだよ」
彼のつぶやきを拾えなかった腹心の追及は煙に巻く。感謝の気持ちに偽りはないが、かつての関係を知る彼に心変わりを知られたいとは思わなかった。
ところで、イーノックの今回の目的は帝都ではない。その遥か北西、ニョードガイ辺境伯領に彼はいた。国境の先は皇国のサウザンベア領となる。
この内陸の領地を訪れるため、普段の海路は使えず、リデュース領まで飛行列車に乗った後は車での移動となった。空間拡張もできていない車内は、とても快適とは言えなかったのである。
辺境伯家の執事に案内されたのも、きらびやかな屋敷ではなく広大な軍事訓練場であった。今回は辺境伯と交友を深めに来た訳ではない。
既にそこへ整列していた国境防衛軍を頼もしく思う。
「ようこそおいでくださいました、イーノック殿下。このような武骨な場所までご足労いただき、感謝申し上げます」
「もう僕は、“殿下”ではありません。爵位の差程度の上下関係しかないのです。僕の方が若輩なのですから、言葉遣いも改めてもらって構いませんよ」
「おお、それは失礼を。確かに、殿下などと敬仰を続けて、我が国に再び反乱の兆しありなどと疑われてもいけませんからな。貴方の覚悟が既に決まっているなら、倣わせていただきましょう、でん……口に馴染まない程度は許してほしいものですが」
「……王国の監視役が、狭量でない事を祈っておきましょう」
王国の諜報部隊がどれほど蔓延っているか、イーノックも把握できていない。受け入れに反対できる訳もなく、見えない監視役については諦めるより他なかった。
けれど、今回の帰国は軍事行動が目的なので、監視役が張り付いていない筈もない。
オディール・ニョードガイ辺境伯は領地守備軍を従える他、国境防衛軍を指揮する将軍も兼ねる。彼の後方には今回の行軍へ参加する部隊がずらりと並ぶ。
「手紙でもお伝えしましたが、今回のサウザンベアへの進軍を受け入れてくださり、ありがとうございます。オディール殿は微妙な立場だったのでは?」
「確かに、ここ数年のサウザンベアとの関係は悪いものではありませんでしたからな」
サウザンベアとニョードガイ、本来なら警戒し合う辺境伯領同士ではあるものの、数年前からは共通の敵がいた。北東から次々押し寄せる難敵を前に、両辺境伯は共闘していたのである。
どちらの国も、中央周辺は辺境への関心が薄い。特に帝国は急な皇帝交代で混乱していたのもあって、国の支援はまるで行われなかった。巨峰ハンマストンを含む連山が皇都との行き来を阻むサウザンベアも似た状況で、頼りにならない中央よりお互いを信用し合う関係が構築された。
流石に兵士の貸与はできないものの、時に武器や魔石を供与し、戦況によっては冒険者を派遣し合った。そういった状況では、当然人の行き来も生まれる。完全な警戒は解けないものの、不思議な信頼は生まれていた。
しかし、イーノックが今回提案したサウザンベアへの進軍について、ニョードガイ辺境伯は異を唱えなかったのである。
「そんなに不思議でしたかな?」
「……正直なところを言えば。僕としては、入念な説得が必要だろうと考えていたのです」
ところが、打診の書面を送った時点で同意の回答が返ってきたのである。派兵の規模、装備の水準、行軍道程など、詳細な計画書が添えられて。実際、イーノックが到着する前から進軍の準備は終わっている。
「公爵殿の意向というだけなら、その通りだったでしょうな。今も難色を示していたかもしれません」
「なら、一体どんな心変わりを?」
「心変わりも何も、魔物が押し寄せた原因を排除し、残った魔物を狩る勇者達まで派遣してくださったスカーレット様の望みであるなら、迷う必要すらありません。我ら辺境の民は、危機に差し伸べられた恩を決して忘れないのです!」
互いに支え合った共感はある。しかし、その元凶たる墳炎龍討伐の偉業とは比べられない。しかも、皇国への技術供与に向かっているスカーレットに感謝するどころか、彼女と敵対する勢力に与するサウザンベアには怒りすらあった。
というか、本人の知らないところでスカーレット信仰が根付いていたのである。領地の至る所で、彼女を映した記録板が売られている。どこの商会が提供したものかは、語るまでもない。
「なるほど、そういった事情なら分かりやすい。信用させていただきます」
実のところ、拍子抜けし過ぎて罠の可能性を疑っていた。サウザンベア進軍に同意するより、王国の傀儡となりつつあるイーノックを排除する機会を狙う可能性の方が高いと思っていたくらいだった。
けれど、これが理由であるなら受け入れられる。
「でん……公爵殿、こちらからもいいですかな?」
「ええ、何でしょう?」
「聞けば、スカーレット様から直接請われたのではないと言うお話。我々としては、あの方の意向に沿えるならば否はありません。けれど、それならば私の同意を得られた時点で役目を終えたのでは? どうして、わざわざ進軍指揮官に名乗り出を?」
それはもっともな疑問だった。元とは言え皇族。唯一皇帝の血を残したイーノックが矢面に立つ必要はなかった。立場的にも、指示だけ出して後方にいればいい。
罠の危険性さえあったなら、尚更辺境まで出向くべきではなかった。
けれどその問いかけに対して、イーノックは誇らしそうに返す。
「悪友に借りを返す、いい機会だったのでね」
書籍2巻発売まで、いよいよあと1週間です。
書き下ろしSSの内容について、Xで紹介していますので参考までにどうぞ。
https://x.com/K1you170465/status/1907377519248261620
https://x.com/K1you170465/status/1907780505145323925
これ以外にも、本編書き足しも充実しています。