リンイリド・ウィティ
「私は両親を知りません。覚えていないだけでなく、どういった人物かと言った情報もないのです」
出産の危険が周知されて産婦人科医を頼るのが一般的なこの世界で、素性不明な子供が生まれる例はあまりない。かつてのシドみたいに国中が混乱していたならともかく、生まれてくる子供の血縁関係はある程度知られている。
そうは言っても何事にも例外は発生するもので、望まぬ妊娠や極度の困窮、面倒なところの御落胤とかなるとその限りじゃない。特に最後の可能性の場合は念入りに痕跡を消してあるだろうね。
つまり、彼女には一切の後ろ盾がない。平民からの成り上がりと言っても、ウォズとは明らかに事情が違う。血統を重んじるほとんどの貴族からしてみれば、どこの馬の骨とも知れない彼女は余計に疎ましく映ってしまう。
孤児達が政治を牛耳った国もあったけど、あれとはまた前提が違う。彼等は絆を束ねて立ち向かったし、皇国とは規模が比べ物にならない。大国で個人が立身出世するには、また違った苦労があったんじゃないかな。
「一体、何が切っ掛けでヘルムス皇子との縁ができたのです?」
「そう難しい話ではありません。私が八歳の時、私が暮らす孤児院へ殿下が慰問に来られたのです」
似合わない……なんて思ってはいけない。脳筋であっても皇子なので、慈善活動へ参加する姿を国民へ見せる必要がある。本人の意思とは関係なく、周囲に引っ張り出されただろうしね。
「ヘルムス様が成人した頃は、当時の皇太子殿下が愛に目覚めて臣籍降下した時期と重なっていまして、皇族の意義を強調する必要もあったのです」
「実兄の後始末となると、ヘルムス皇子でも断りにくかったのでしょうね」
「駆けっこに自信のない子供達を背負って年長組を追いかけたり、腕自慢の男の子達全員を打ちのめしたり、ご本人もことのほか楽しまれている様子でした」
そこは容易く想像できた。大人しく孤児院の経営状態について話を聞いていたって言われる方が違和感を覚える。皇子の生活とは全く違う場所だから、興味も芽生えたんじゃないかな。
「当時の私は、子供達に勉強を教える役目を任されていました」
「その頃から、孤児院の先生方に頼られるほどに優秀だったのですね」
「そこまで大げさな話ではありません。読み書き計算程度ですから、年長者なら誰でもこなせることです。ただ、気が付くとヘルムス皇子が子供達と一緒に聞き入っていました」
遊ぶのに疲れて休憩ついでに見学していた……なんて可能性は脳筋皇子に限ってあり得ない。もしも皇子の体力が尽きたとするなら、騎士の訓練より過酷な遊戯がその孤児院で繰り広げられていたことになる。
そんな皇子が聞き入っていたと言うなら、それだけ関心を惹く授業内容だったんだろうね。
「貴殿、凄いな! ……それが、私へ向けての第一声でした」
勉学を苦手とする皇子が彼女との出会いをきっかけに興味を抱いた。とても微笑ましいお話だと思う。……皇子とリンイリドさんの年齢差に触れなければ。
「リンイリドさんが八歳、ヘルムス皇子が成人したばかり……十六歳と言いましたか?」
「ええ、一応最低限の履修は終えたものの、まるで身に付いていないご自覚はあったようです」
王国と違って、皇国の王侯貴族に勉学を修める義務は発生しない。その代わり、教養がないなら職業選択の自由は狭まっていく。考えるのが苦手ってくらいならともかく、基礎知識も身に付けていない人間に騎士団も門戸を開かない。皇族としての義務も果たせないとなれば、そこに居場所もなくなってしまう。
「実際、当時のヘルムス皇子はかなり厳しい状況に立っていたと聞きます」
読み書き計算も怪しかったならそうだろうね。
「そして皇子は言いました。もっと吾輩に勉強を教えてほしい。貴殿から学べるのならきっと吾輩も理解を深められる気がする、と」
「まだ八歳だったリンイリドさんに? 皇族が?」
「はい、全く迷いはありませんでした。きっと、それならうまくいくと確信があったのでしょう」
流石、直感だけ頼って突進する性質を持つだけはある。当時からその方面に研ぎ澄まされていたみたいだね。
「勿論、私は断りました。読み書きくらいの一般知識ならともかく、高度な勉学を教授できるような教養は私にはありませんと」
「それでも皇子は諦めなかったのですね?」
「ええ。貴殿に学ぶ機会が必要なら吾輩が用意する。願うままを与えよう。吾輩には貴殿が必要だ、……と」
今と変わらず、言葉を飾るって事を知らない人だと思う。思考と口が直結してるんだろうね。
そして、その宣言は叶った。
ヘルムス皇子が強く望んだのもあるけれど、フェリックス皇王にとっても願ってもない話だった。
当時、皇太子となる筈だった長子がドロップアウトしたことで皇族への信頼が揺らいでいた。そこへ来て、第五皇子は皇族失格の烙印が濃厚なところまで迫っていた。これ以上の信用失墜から免れられるなら、手段は選んでいられなかっただろうと思う。
それまでにも沢山の教師を用意していたに違いない。けれど成果は上がらなかった。勉強の場からとにかく逃げ出し、鍛錬ばかりに時間を注ぎ込む皇子に対して諦観を抱いていたかもしれない。適性のない皇族であり続けさせるより、軍人や冒険者としての才覚を試した方が本人の為と割り切っていたとも考えられる。
その皇子本人が教師役に希望を挙げてきた。しかも、脳筋皇子の直感は割と的中する。
「ヘルムス皇子を排除しなくて済むなら、リンイリドさんが八歳児である事実も霞んだのでしょうか?」
「そうかもしれません。僅か数日後、当時では考えられないほどに立派な車が私を迎えに来て、私を指導するための教師が八人も待っていましたから」
「皇子の傍に置くなら、改めて素性は徹底的に調べられた筈ですよね。それでも全く過去は出てこなかったと言う事でしょうか?」
「そう聞いています。私も成人後、皇族の方々が隠している可能性を疑いましたが、その気配は察せられませんでした」
それなら、何処かの御落胤って可能性は消えた。貴族がどれだけ慎重に隠蔽したところで、国が本気で行った調査で痕跡すら掴ませないなんて可能性はあり得ない。
それはつまり、彼女に身寄りがないと判明した事でもある。
「苦労したのではないですか?」
「そうですね……。教師八人の全員と良好な関係を築けた訳ではありません。彼等の半分はヘルムス皇子の元家庭教師でしたから、嫉妬もありました。周囲の視線も厳しいもので、心無い言葉を投げつけられるのは日常だったと言っていいでしょう。けれどそれ以上に、自由に学べる環境は掛け替えのないものでした」
義務教育なんて存在しない国で、学ぶ機会が平等に与えられる筈もない、王国だって強制するのは貴族限定で、ほとんどは親の判断に委ねている。家業があるなら乳飲み子以外は当たり前に労働力として数える場合もあるし、子供の稼ぎを当てにして家計が成り立っている例もある。冒険者ギルドが子供の登録も受け付けているのは、その必要性があるからに他ならない。
特に孤児ともなれば、最低限の技能を身に付けた後はすぐにでも働きに出る。教師役を引き受けていたリンイリドさんはその背を押す立場でもあった。
「適性があったのですね」
「ええ。元家庭教師が嫌がらせ目的で押し付けてきた難題を喜んで消化するくらいには」
「嫌がらせの筈が血肉とされてしまったなら、甲斐のない事だったでしょうね」
「当時の三年は夢のような時間だったと思います。ヘルムス殿下に願えば、城にあるほとんどの書物が閲覧可能でした。冒険者活動へ関心を寄せる殿下の為に魔物についても知っておかねばと思っていると、ペテルス皇子が山のような資料を用意してくださったこともありましたね」
それは同好の士を探していただけって気もする。
と言うか、三年って言った?
それは皇子の再教育に費やした時間で、皇族が成人までに修める内容をまだ八歳だったリンイリドさんが完璧に習得するのに必要とした時間でもある。しかも、ヘルムス皇子に習得させるべきと思った追加知識や、本人が興味を抱いた分野について手当たり次第身に付けていったと言う。
誰? この怪物を軽んじられた身の程知らずは⁉
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