皇国へ行く前に…
皇国へ行くまではまだ時間がある。ヘルムス皇子は今頃、オクスタイゼン西方の魔境を突破している筈だから、皇国の受け入れ準備は整っていない。
それでも私は忙しい。
なにしろ、教科書を作らないといけない。予備知識のない相手にも分かりやすく、参考資料や注釈を加えながら教授内容をまとめる。研究成果を報告した書面や論文を読み解いて独自に研究を始めた魔塔とは違う。新しい技術に関心を持たせるところから始めるのだと言っていた。
魔導織みたいに既存技術とは全く異なる発想を求められる部分もあるから、私としても異存はない。その代わり、教材作りは大変だった。分割付与、魔漿液、魔素収集技術、虚属性、魔法陣の新規活用、魔導織、大規模魔法と多岐に亘る。
叩き台は魔塔で用意してくれるんだけど、実際に教えるのは私になるので監修の必要がある。おまけに王国でも勉強会を催す予定になっているものだから、そちらの担当者と意見を擦り合わせる必要もあった。
ちなみに、先日どさくさに紛れて帝国でも学びの機会が欲しいと願い出たエノクには、王国に滞在している間にしっかり勉強するように言ってある。私や魔塔の人員が時間を割かなくても、エノクが講師役を務められるくらいに基礎を習得したなら誰も困らない。
呪詛技術の管理についてはこっちが吐かせ……色々聞かせてもらった訳だから、完成した教科書を買わせる優しさくらいは見せてもいいかもね。
「壮行会をやりましょう!」
そんな中、オーレリアから突然の提案が飛び出した。
しかも、割と意味不明だよね。
「私、ほとんど毎日帰ってくるつもりなんだけど?」
「それでも皇国へ行くことには違いありませんよね。表向きは皇都へ行ったままになる予定なのですから、不自然には映りませんよ」
転移鏡については公表できないから、私は数か月、王国を空けることになっている。その間、私が不在の隙を狙って不審な動きを見せる貴族を炙り出す思惑もあった。
でも、オーレリアの提案は私の不在を強調しようって話じゃないよね。突飛な事を言い出した様子にいくらか精彩が欠けて見えるから、実習って名目で毎日お茶会へ連れまわされる状況から逃げ出したいってところかな。私の領地に来られている時点で休息の許可は出てるんだろうけど。
収穫祭以降、陞爵が決まったせいで貴族との面会予定が途切れずに死んだ目をしたキャシーも来ていた。面会が終わるまで帰らないものだから、待遇するだけでも大変だったらしい。
リフレッシュの必要性は理解できる。
「私、忙しいんだけど?」
「……残念です。温泉で英気を養って、皇国でも苦労するであろうレティを励まそうと思ったのですけれど」
「どこへ行こうか? おすすめはパリメーゼ近郊の炭酸水素塩泉だけど、時期を考えると紅葉が奇麗な北寄りもいいかな? それで疲労回復に効果を期待できるとなると、キャシーん家の近くにあるチロルかな。あ、でも、ドウチ郷も捨てがたい……」
「知ってはいましたけど、手首が壊れるんじゃないかってくらい、掌を返しましたね」
「そもそも…、そもそもレティ様のお屋敷には温泉を引き込んでいるのではありませんでしたか?」
「なにを言ってるの、マーシャ? 温泉って、その日の環境と場所、泉質の組み合わせで常に新しい出会いがあるんだよ?」
「あ、はい。ごめんなさい」
その点、私は毎日新しい出会いを楽しめている。でも、一期一会の探求に果ては存在しない。泉質の違いで香りに変化があるだけで、体を満たす幸福感が異なる訳だからね。体調や気分だって大きく影響する。
「壮行会って名目ならノーラにも声をかけるとして……、今回は混浴ないから、ウォズは別行動だね」
「安心してください。混浴風呂があってもご一緒したいとは言いませんから」
「ノーラはこちらに来ていないのですね。正式に叙爵が決まったので彼女も忙しいのでしょうか?」
「うん。その名目で指示だけ出して図書館から動こうとしないから、連れ出してほしいってお願いがアシルちゃんから届いてたよ」
「あの子も相変わらずですね。美味しいものを用意すると言って引っ張り出すとしましょうか」
研究に興味が湧いたなら常に出入りしていても、今は私とキャシーが忙しい事もあって研究は停滞状態にある。そこでノーラは趣味へ傾倒することにしたらしい。
「そんな中、マーシャは何をしているんです?」
「私の思い付きを試してもらってる。自分で検証する余裕がないから、私の代わりだね」
「具体的には?」
壮行会って名目の休暇予定が決まったなら、書類仕事中の私の隣で実験器具を広げるマーシャの方が面白そうだと思ったのか、キャシーは彼女の手元を覗き込む。
「スライムの、スライムの構造は単純な構成となっていますよね。魔漿液を主成分としたゲル状部分と核、そして表面を覆う被膜くらいです。そして、核には魔石が備わっていて、分裂する際には魔石も複製することが分かっています」
「そうですね」
「それなら…、それならこの単純な構成の中に魔石を生成する条件がそろっている筈だとレティ様は考えたのです」
「言われてみれば……」
魔石は無機物結晶に魔力が溶け込んだものと判明している。その組成は魔物によって違っていて、生態や生息環境に紐づく。摂取した金属塩を体内で凝集させているのは間違いない。
宝石に近い構造と言われているものの、あちらは天然物、魔石は生物由来って違いがある。宝石に大量の魔力は混じらない。オリハルコン同様、魔力が結晶構造に干渉する物質だった。
体内で鉄やケイ素を結晶化させる動物なんていないから、魔物とそれ以外の明確な生態の差とも言える。
「水に溶ける魔力なんて少量でしかないし、それだと水属性に固定してしまう。でも、無属性の魔漿液ならいろんな魔力が溶けるでしょう?」
「あらかじめ、あらかじめ魔力を含有させた魔漿液内で金属塩を結晶化させれば、魔石が生成できるのはないか……と考えて実験している訳です」
あくまでも研究の前段階なので、含有魔力が通常より高い金属塩が得られないかって実験になる。ミョウバンの飽和溶液を作って種結晶を吊るしておくだけの単純なものだった。
流石にここまでお手軽に生成できるとは思っていない。ほんの少しでも含有魔力量が上がれば期待が持てる。測定結果次第で手法は改善していけばいい。
本格的に調べるなら結晶組成を調整して、より含有魔力が高められる組み合わせを探したいかな。
「つまり、人工魔石って訳ですね」
「うん。魔物を討伐する手間が省略できるし、魔道具を今より容易に量産できるかなと思って。竜の魔石みたいな希少品を使わなくても高性能の魔力受容体を作れるかもしれないしね。上手くいったらの話だけど」
「レティ、それ……、成功していますよ」
うん?
「ですから、マーシャが用意している容器に浮いている結晶、質はあまり良くありませんけれど、間違いなく魔石です」
そう言えば、オーレリアって簡易の鑑定なら可能だったよね。魔石かどうかを判別するだけだから、ノーラを呼ぶほどでもない。魔力量測定前にミョウバンっぽい魔石だと確定してしまった。
これ、壮行会の前に忙しくなるやつじゃない?
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