閑話 イローナ・クネフ 1
今回はイローナ様視点となります。
回想の為、矯正前の口語と、語り部の口調が異なります。
わたくしはクネフ子爵家に生まれました。
けれど愛妾が生んだ子であったため、子爵夫人に母共々疎まれ、市井で育ちます。彼女からするとわたくし達母娘を冷遇したつもりだったのかもしれませんが、貴族の生活を知らない当時のわたくしには何でもない事でした。
状況が変わったのはわたくしが11になった頃、父の子爵が戦争に行き、帰ってきませんでした。
訃報を知った夫人は心労で倒れ、ほどなく父の後を追ったそうです。
問題は、夫婦に子がいなかった事でしょう。
唯一の子であるわたくしは当時未成年で、更に代理を任せられる親族が叔父夫妻しかいませんでした。ただし、叔父は貴族籍を離れていたせいで継承権を持ちません。その為わたくしが夫妻の養子となり、将来的に子爵家をわたくしに引き継ぐ事を前提に、後見人として子爵領を統治する権利を得る他ありませんでした。
こうしてわたくしは突然子爵家に迎えられ、正式にイローナ・クネフとなったのです。
わたくしがいなければ領地を国へ返還するだけでしたし、それまでも特に関わりのある間柄ではなかったので、酷い扱いを受けた事もありません。屋敷もそれなりの広さがありましたから、わたくし達母娘と叔父夫妻、それぞれ他人が同居しているようなものでした。
それより、わたくしは学院に通って貴族としての教養を身に着けなくてはなりません。入学する為の礼儀作法や最低限の教育を受けるだけで精一杯でした。
わたくしが平民生活の延長で学院へ行けば、恥を掻くのは保護者である叔父夫妻ですし、突然回ってきた領地経営で手一杯だったのでしょう。お互いに関わる機会はほとんどありませんでした。
尚わたくしが王子妃となった為、従弟が特例で学院に通い、今は正式に子爵家を継いでいます。
それをきっかけに母は子爵領を出て王都で生活していましたが、数年前に病で亡くなりました。
思ってもみない形で転がり込んできたわたくしの貴族生活は苦労の連続でした。
平民生活で染まった習慣は入学までの期間では拭い切れず、授業は必須単位履修に追われる日々です。特別枠で入学した商人の子に教えを乞う事も珍しくありません。
貴族の誇り?
わたくしへの陰口は知っていましたが、そんな余裕は何処にもありませんでした。わたくしの怠慢で領地を失う方が怖いと、必死だったのです。
けれどこれが、アドラクシア様とわたくしを結ぶ切っ掛けとなりました。
その日も、私はエイフェル商会のギーツさんから東大陸語を習っていました。
入学して既に3年でしたが、ギリギリの状況は変わっていません。
「あら? またイローナさんよ」
「身分の低い者に教えられるなんて、恥ずかしくないのかしら? 私なんて、同じ空気を吸うのも嫌だわ」
「いつもの事だから慣れているのではなくて? 嫌な臭いだって、長く晒されていると気にならなくなるものでしょう?」
「あら嫌だ。それって染み付いているって事でしょう?」
この日はキューケン子爵令嬢達だったでしょうか。
同じ子爵令嬢でも、財政状況がまるで違う家です。
もっとも勉強の方が大事ですから、雑音は気にしません。幸い、ギーツさんも受け流す事を知っていましたから、気を悪くした様子もありませんでした。
ただしこの日は、一連の様子をご覧になっていた方がいたのです。
「そう言った中傷は不快だな。勉強を教わる姿勢に是非があるのか?」
「―――! で、殿下……!」
殿下の登場にキューケン令嬢達はヒッと短い悲鳴を上げ、慌てて頭を下げました。私達も手を止めて倣います。
学院に通っているとは知っていました。
必要な単位は全て取得し、後は卒業を待つだけと言う話でしたし、雲の上の存在で講義範囲も重ならない為、間近で対面するだなんて想像もしていませんでした。
「そもそも、特別生の彼等は王国議会が望んで招聘しているのだ。我々と異なる意見に耳を貸す事はあっても、見下す謂れなど無いと思うが?」
「も、申し訳ありませんでしたーっ!」
ご令嬢達は狼狽えながらなんとか頭を下げると、一目散に去って行きました。
殿下はその様子を不服そうに見送った後、私達の方へ視線を向けます。
「クネフ令嬢の噂も聞いている。必要なら立場が下の者にも頭を下げられる態度には感心するが、日々の修練が足りないのではないか? 噂になるほど頼られていては、エイフェル子息も勉学の妨げになるだろう。分からない事があるなら、寮や家で専属の教師を頼るべきではないか?」
この時、キューケン令嬢達のように唯々諾々と頭だけ下げる選択も、あったと思います。本来ならそうするべきだったのでしょう。
けれど、当時のわたくしはカチンと来てしまったのです。
「お言葉ですけど殿下、どの家にも教師を呼ぶだけの余裕がある訳じゃありません」
気が付くとわたくしは言い返していました。
隣ではギーツさんが青くなっていたと思いますが、気にかける余裕もありませんでした。
「読み書きや計算、簡単な事ならいいでしょう。でも専門性の高い内容となると、呼べる教師が限られるんです。しかも授業料は高額で、複数の専門家を呼べる財力のない家だってあります。学院は交流の場でもあるんですから、伝手を頼っても良いでしょう?」
父が死んだ事、帝国の占領地が近かった為に大勢を動員し、その多くが戻らなかったせいで遺族補償が巨額となった事、クネフ領が困窮した原因は戦争です。だと言うのに他人事みたいに話す殿下に対して、黙っていられませんでした。
ほとんど知らない父が死んだ事に怒りはありません。それでも私が家を背負わなければならなくなった不条理に憤りは感じていたのです。
言い返されるなんて思ってもいなかったでしょうし、金銭的な苦労も知らずに育ったアドラクシア様にとって、私の訴えは思いがけないものだったようです。
可愛らしくキョトンとされていました。
「……そうか。そう言う事も、あるのだな。すまない。無茶を言ったつもりはなかったのだ。いや、無茶と思わなかった事自体が問題だな」
不敬と捉えられてもおかしくありませんでしたのに、アドラクシア様に謝られてしまって逆に驚いたのを覚えています。
「私の不覚に気付かせてくれた事、諫めてくれた事に感謝する。イローナ嬢、と言ったか? この礼は必ずさせてもらう」
そう仰った後、僅か数日で殿下は勉強会を立ち上げてしまいました。
学院生の有志が教師役を担い、わたくしのように実家に余裕のない下級貴族を指導するのです。
金銭のやり取りは発生しませんが、教師役は普段関わりの少ない貴族との縁を作れる、アドラクシア様や学院教師の覚えが良くなると、意外にも大勢が集まりました。教えを受ける側のわたくし達にとって非常にありがたかったのは、言うまでもありません。
ギーツさんも頻繁に参加してくれましたし、この時点では面識がありませんでしたがお姉さまも協力してくれていました。
何よりアドラクシア様自身が時間の許す限り参加し、すぐに学院中で話題になりました。
そして、勉強会の起因となったわたくしを気にかけ、積極的に殿下が教師役を買って出てくれるようになったのです。
―――これが、アドラクシア様と私のはじまりとなります。勉強会を通じて、絆を深めてゆくのです。
けれど当時のわたくしは、この縁が何を生んでしまうのか、考えが及んでいませんでした。子爵令嬢と仲を深める殿下を、お姉様が間近で見ている事にすら気付いていなかったのです。
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