Chapter 32 越境
間隔の短い足音が踵を返す瞬間、女の目には薄白い影が映る。ダラリと伸びた腕はゆらりと揺れ、さながら幽霊のような出で立ちを目蓋に映す。
女はひたすらに前へと走った。普段運動もしない、況してや喫煙者ともなると少し走っただけで肩が上下する。
肩で息をしようとも女は足を止めなかった。肺が潰れようが、喉が焼ける感覚があったとしても足は止まる気配を見せない。
止まれば命はない。
一重にその考えだけに支配されてパニック状態となっている。
薄暗い路地に追い込まれ、逃げ道を探し惑う。考える暇はなく、ただひたすらに走り続ける。
体が壊れそうだ。心中で疲労感が芽吹いた瞬間、足元からボキリという音ともに、体が前へとつんのめる。蹴躓き、地面へと体を預けては視線を足元へと投げた。
ピントが覚束ない視線の先には、折れたヒールの先端が力なさげに転がっていた。
「ホラ、落トシ物デスヨ……」
ゆらりと揺れた人影が折れたヒールを取り上げる。ヒールの主に、それを手渡そうとする刹那に人影はギッと口角を上げ、女の肩へと刺す。
呂律の回らない悲鳴が路地を占めた。鋭利な刃物にもなれないヒールが皮膚を破り、肉を押し、骨を砕く。溢れ出た血に塗れて女が後退る。表情筋が痙りそうなほど顔面は避け、息吸えぬ呼吸が生む声が悲鳴を途切れ途切れにさせる。
「来ないで………来ないでよぉ!」
「ドウシテ?」
ゆらりと揺れ、能面のような合成皮膜製の面が女の面と息もかかる距離に近づく。ガラス玉のように堅い光学レンズは女の目を捉える。目を細くし女を見る、まるで一端の人間にでもなったかのような素振りだ。
「私が、私が何をしたって言うのよ! 私はナナちゃんをガラクタ扱いになんてしてないわ!」
「ソウ、ソウネ。里久サンハ、イツモ私ニ優シクシテクレタ」
「そう、そうよ! 私は同じ店で働く仲間だと思ってるわ! だから、色々としてあげたわ! なのになんで………!」
「ダッテ……、許せなかったから」
雑味の酷い機会音声が澄んだ声色となっていた。文字を切り貼りしたコラージュの声が、一つの抑揚を持つ生き物として現れる。
薄く青みがかるガラス玉に潤いすら帯びる。模造品の集合体だった癖に、本物と同等の感触を得ようとしている。
「許せなかったって………?」
「アンタが店長を、庄介さんを、誑かしてるからぁ!」
絶叫が占めた。ナナが里久の片脚を粉砕した結果だった。全身が痛みに支配される。皮膚と肉が骨ごと潰れる、それはさながらケミカルライトを折るかのような僅かな抵抗感を感じて折れたのだ。
血が噴く。電気が走ったと思わす痛覚神経の暴走、女はその場で悶えた。
「痛イ? 痛イヨネ? デモネ、アンタに誑かされてる庄介さんを見る私の心に痛みに比べたら、こんなの痛くないでしょ」
ナナの細身な腕が鞭のように撓る。音が遅れて聞こえた。ヒュッと風鳴りが吹いた瞬間には、里久の体が宙へと飛んだ。顔面を引っ叩かれた彼女は2~3メートル程飛び、地面に身を預ける。点描した血痕と散った歯、骨格が拉げて見るも無惨な顔面がナナを見る。
「いい顔になったね………里久さん」
「ぢ、ぢかよるなぁ! この化け物がぁ!」
「バケモノ? バケモノでも良いよ、あの人の側に要られるならね」
「何がぁ側に居るだぁ! 愛玩用のロボットの癖にぃ、人間にでもなったかのように振る舞ってさぁ!」
電気が走った。脳裏にヒリつく苛立ちの感覚。地雷を踏まれた、ひた隠しにしてたコンプレックスを外輪へ晒された、怒髪を露わにするには十分すぎるキッカケを里久は与えた。与えてしまった。
「にゃ、何よ、事実でしょ!? アンダぁが、ロボットで愛玩用でぇ! ただの機械だってそことはさぁ!」
ワナワナと体が震えていた。合成皮膜に内包されて骨格の軋む音が全体へ反響した。ナナの体一つが、楽器のように音を上げる。
怒りが決壊した。
「イイヨネェ、ニンゲンはさぁ、人間ってだけで何もかもが許される………ワタシモ人間に生まれたかったなぁ。工場じゃなくてオカアサンの胎から生まれたかったなぁ、そうすればワタシモ真面にあの人をアイせたんだろうなぁ」
擡げた首から先の表情は、形容しがたい程の笑みに溢れていた。合成皮膜が千切れそうになるほどの、マシンアクチュエーターが壊れそうになるほどの笑み。
赤く滴った素手が里久の首を掴み取る。
「オゴォ、ガァ、イタッヤメッ……!!」
「うるさいなぁ、ハヤクいっちゃいなよババァ」
「ゴォ、ゴボッおノぐぜにぃ、人ゴロじぃは!」
「確かに、ワタシハロボットだよ。三原則に基づけばワタシハ貴方に傷害を働くことも況してや殺害スルコトモ、厳禁。だけどね………」
ガラス玉の奥がせせら笑う。高感度カメラが納める憎い女の醜態を見ながら、ナナの口角が更に上がった。
腕部マシンアクチュエーターに加圧しろとの指令が送られ、ギシギシと骨を砕く音が路地に響き渡る。
「そんなものはね、アイが超越させてくれる。ワタシヲ油臭い汚らしい物から、血の通った清楚な存在へと変えてくれる!」
「な“、な“に“ィを“ォ?!」
「アナタや他のゲスな女どもを殺せる時点で、ワタシハね………もうロボットじゃないの」
ナナの瞳に光が宿る。澄みきった生気の無い光、しかしながら確かな鼓動を覚えさせてくれる生物としての光。
その光を手に入れた彼女は囁く。
「人間なのよ……」
人間が一人死に、そして人間が一人生まれた。鮮血を吹き、骨を砕き、絶叫を糧に産み出された一人の人間。
胸部に埋め込まれたポンプが高鳴る。重量のある体はスキップをしながら軽快に路地を後にした。
「さよなら……醜い人間さん」
後日、府中本町署に一報が入る。五件目が上がったと。




