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(は?)
年取った男のSOSを聞き、事の成り行きを見守っていた海水浴客たちの大半が心の中でそう思った。辺りに微妙な、白けた空気が漂った。
しかしここで、更に意外なことが起こった。先ほどまで波の上でたゆたうばかりだった男の子が、どういうわけか割合綺麗な型の平泳ぎで、浜へ向かって泳ぎはじめたのである。恐らく先ほどまではパニックになって泳ぐことを忘れていたのが、年取った男に運ばれるようにして一緒に泳いだことで、泳ぎを思い出したらしい。それはゆっくりとした泳ぎだったが、男の子は確実に浜へ近づきだした。
「ユウトォ!」
男の子の母親が歓喜の声をあげた。
途中、その男の子の脇をすれ違うように、沖へ向かってスピードに乗って泳いでいく男があった。頭に赤と黄色の縞柄のキャップをかぶった、筋骨隆々としたライフセーバーだった。
ライフセーバーは男の子とすれ違いざま、一瞬泳ぎを止めて男の子の方を向き、助けに行こうか迷った。しかし男の子が安定して泳げていることを間近で確認すると、年取った男の方へ再び泳ぎだした。
年取った男の元へ泳ぎ着くのはあっという間だった。ライフセーバーが年取った男に肩を貸すと、年取った男は覆いかぶさるようにこの救助者につかまった。ライフセーバーは空いている片腕と両脚を使って、浜へ向かって力強く泳ぎを再開した。
やがて男の子が足の着く浅瀬に辿り着き、母親に抱きしめられた。
「バカ! なんであんたは、そうやって危ないことするの?」
母親は言葉こそ叱る口調だったが、安堵したのとうれしさでもう泣いていた。
「ごめんなさい、ごめんなさい……」
男の子も腰の辺りまで海水に浸ったまま、つられて泣いている。その横でその妹が、
「お兄ちゃん、すごいねえ。平泳ぎ、速かったねえ」
と、まだ事態が飲み込めず、無邪気にそう感心していた……。
それから数十秒して、ライフセーバーと年取った男が浅瀬に到着した。男はライフセーバーに肩を貸され、びっこを引いて波打ち際まで歩き、浜にたどり着くと、どっと仰向けに倒れこんだ。
「いたたたたたっ」
年取った男がすぐ上半身を起こして、つった左のふくらはぎを伸ばすため左手を左足の指に向けて伸ばして苦悶していると、その上からライフセーバーが、息を切らしつつ、
「泳げないなら、中途半端に助けになんか行かないでください! あの子が自力で戻ってきたからよかったけど、こっちも一度に二人は助けられないんですよ!」
と怒鳴った。男は左手で左足の指を引っ張りながら、やはり苦悶の表情を浮かべて、
「ああ、すんません。えろう、すんません」
と、返した。
「シュウちゃん!」
そこへ年取った男の連れの、若い男がやってきた。ライフセーバーにちょっと会釈し、どうにかふくらはぎの筋肉の収縮を抑えようと四苦八苦している、年取った男の顔をのぞき込んだ。
「だいじょうぶ?」
年取った男は目を開いて若い男を見た。整った、美しい顔がそこにあった。見るものを引き込むような、大きな眼が、素早くまたたいている。
年取った男は、はあはあ息を荒らげながら言った。
「マーくん……。あんなあ、お願いやから、浮気だけはもう、せんとってくれるか? ほんま、しんどいわ……」
年取った男の意外な第一声に、不意をつかれた若い男は、思わず、
「ふふふふふっ」
と、贅肉の無い腹を震わせて、心からおかしそうに、笑った。