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話をほんの少し前に戻そう。
この男の子は、浮き輪を腰に着けた妹と一緒に浅瀬で遊んでいたが、それだけでは満足できなくなり、妹を置いて沖へ泳ぎだした。すると足が着かなくなった辺りで、この時偶然起こった局所的に強い沖方向への流れ(このような流れのことを、専門用語でリップカレントというらしい)に呑みこまれた。男の子は流れに乗ってあっという間に四十メートルほど沖に運ばれた。そうして、半ばパニックになり、必死でただ顔だけ波の上に出し、「たすけてー」と浜に向かってあどけない声をあげたのだった。
二人の男は、男の子の母親の金切り声を聞き、それから母親の走っていった海へ視線をやったところ、沖で浮いている男の子の頭に気づいて、事態を察知した。
若い男は、男の子に気づいた瞬間、その大きな瞳をますます大きく開き、
「うわ」
と小さく声を漏らしただけだった。しかしその横で、年取った男は、
「あかん」
とひと言呟くと、迷い無くサングラスを外して足元に置いた。意外につぶらな瞳をしていた。それからサッと立ち上がって、アロハシャツを素早く脱ぎ捨て、齢相応にたるんだ上半身を露わにすると、
「今行くからなあああっ」
と叫んで海に向かって走り出した。
「ちょっと! 行くの?」
若い男は驚き、つられるようにして年取った男の後を小走りに追った。
海辺では、男の子の母親が、Tシャツが濡れるのもかまわず腰まで海水に浸っていた。しかし母親は泳げないらしく、そこにとどまって、
「ユウト! ああ、ユウト」
と泣きそうな声をあげるばかりだった。
その脇では、浮き輪を使ってぷかぷか浮いて、母のTシャツの裾を片手で掴んでいる男の子の妹が、事態をよく飲み込めないらしく、
「お兄ちゃん、溺れちゃったの?」
と不思議そうに母親に尋ねている。
その近辺の海水浴客達もおおよそ事態に気づき、心配げな視線を、ある者は浜から、またある者は海中から男の子の方に送っていた。その中の二、三人が、
「やばいって」
「ライフセーバー呼ぼう」
などと言い合って、浜辺の監視塔に座っているライフセーバーを呼びに行ったが、あとの海水浴客達は――たまたま泳ぎの得意な者がいなかったのだろうか、それともこんな事件が起きた時、ほとんどの人が「自分が助けに行くことはない」と考える、日本人的気質が表れたのだろうか――ただ呆然と、男の子が「たすけてー、たすけてー」と言いながら浮いているのを眺めるばかりだったのである。
――そこへ、年取った男がすごい勢いで走って波打ち際へやって来、ばっしゃばっしゃと水を踏み鳴らしてあっという間に海に入り、ある程度水が深さを増したところで競泳選手の飛び込みのように頭から波の中に飛び込んで、クロールで泳ぎはじめたのである。連れの若い男は、泳ぎに自信が無いのだろう、波打ち際で立ち止まって、不安げにそれを見つめている。
年取った男は一分足らずで男の子のいるところまで泳ぎ着き、今にも沈みそうな男の子を捕まえ、脇に抱えて、反転して浜の方へ戻り始めた。固唾を飲んで見守っていた海水浴客達から、わあ、と歓声があがった。
――しかし、浜へ戻り始めてからわずか数メートルほど泳いだところで、年取った男は突然泳ぎを止め、男の子を脇から離してしまったのである。そうして一度波間に沈み、すぐにぷかっと再浮上した。その時にはすでに年取った男は泳力を失い、先ほどの男の子のように頭だけを波の上に浮かべる状態になった。
「たああすけてくれえええっ……」
年取った男の、低く、野太い声が浜辺に響き渡った。
「つったつったあ、たああすけてくれえええっ」