幕間1 サスケ
目を覚ますと最近はいつもこうだ。
温かい感触。横になって眠る俺の対面、寝息を立てるその顔つきはまだ幼い。最近がいつの間にか「いつもの」になっている。まだ一週間しか経ってないのに、随分歳をとったような気持ちで体を起こすと、横からうめき声。
「ううん、うーん」
「ほら、紗々。起きろ。飯だ」
「――ご飯!?」
「!」
がばっと起き上がると紗々は俺を突き飛ばして戸を横に開け放ち、階下へ向かう足音を残し消えた。
……。
俺は腰の引けたM字開脚で見送るのもいつものだった。でもいつもと違うこともある。すると、戸の向こうから視線。声。
「――ちょっとあんた。なんて格好してんのよ」
「別に」
「あーあ。朝から変なもん見ちゃった。さいあく。あ、洗面所あたしが使うまで来るなよ」
「……」
そしてため息。姉貴は頭を手でくしゃげ、いかにも寝不足な歩き方で北京原人みたいに廊下を通り過ぎた。
……。
俺も下りるか。飯から食えばいいや。
***
「今日はさ、姉貴も家にいるんだろ」
俺が渡したジャムを受け取りながら、姉貴は、
「あん? ああ。いるよ」
「じゃあさ、たまには紗々の相手すれば?」
山盛りのジャム。ちなみにいわゆる「ヘラ」を我が家では使わない。バカみたいな目分量でスプーンを、これでもかというくらい掬って、もはやパンではなくジャムを食うくらいのせる。特に姉貴は際立っている。イチゴとオレンジを混ぜて朝から酷いにおいのブツを食らうからあまり見ていたくはない。
姉貴は「だってよ紗々ちゃん」とでも言いたげに、目で当人に問うた。紗々はブーたれた。
「葦茂、私のこと邪魔扱いしてる」
「そういう事はないぞ。ほら口横にご飯つぶ。違う逆。とれた」
「あんたら兄弟みたいね。ま、どうしてもっていうんなら、あたし一緒にいるけど、どうする?」
そう口にする姉貴は顔の下半分、右側にイチゴ色左はオレンジ色。先に顔を洗う意味がないと俺はいつも思う。ご飯を書き込み終えると紗々は小さく手を合わせ、それから、
「――そうだね。じゃあ、図書館行きたい!」
「図書館? いいよ。じゃあ原付出さなきゃかね」
紗々が食器を片しにテーブルを離れたすきに、俺と姉貴は顔を寄せる。
「恩に着る」
「後で風呂掃除変わりなさいよ。あと、」
?
振り返る紗々。
何事もなかったかのように俺たちは姿勢正しく席についている。
また視線を戻す紗々。
がばっ。ぐいっと顔を突き合わせ、姉貴は自らの後ろを指差してこう言った。
「たまには、サスケの世話もしてやりなさいよ」
俺は指先を延長していく。
隣の部屋に隠れるようにして顔を覗かせる、我が家の愛犬、サスケがそこにいた。
***
知ってる人も多かろう。動物の嫉妬というのは怖い。何が怖いのかと言えば、まず目が怖い。普段の愛嬌のある目つきではなく、人間の腹の底を見透かすような視線をじっと向けてくる。こちらが目を合わせようものなら「あんたは能無しの猿よ」と言わんばかりにそっぽを向いてしまう。こうなるとしばらく相手にできない。
次に物にあたるのが怖い。聞くところによればゴリラなどは糞をぶん投げると言う。サスケの場合ゴールデンとはいえ、比較的小さめの個体ではある。物を隠すくらいで済めばよい。ただやはり大型犬というのは怖いもので、ひとりでに皿を使ってフリスビーを始めたりするくらいにはでかい。全力で噛まれれば肉が3日は痛くなる。
そして、なにより。相手にしてくれないと言うのは実につらい。しかも心配になってくる。ただ、今回はデッドラインを越えてないらしい。
「――ごめんなー。最近かまってやれなくって」
へっへっへっ。
「おうおう。そんな尻尾を振って。ちゃんと今日は遊んでやるから」
へっへっへっ。
サスケについて言えば、ゴールデンで、12歳で、オスで、俺が昔拾ってきた犬で、その時サスケは右前足を怪我してて、きっと誰か酷い犬かもしくは人間にやられたのか、俺に対しても心を中々開いてくれない奴だった。まず真っ先に動物病院で見てもらって、半ば閉じ込める形で庭先に檻にぶち込んで、その鳴き声のでかさに俺は母親と姉貴によくぼやかれたものだ。
あんたが犬になったみたいな奴ね。
そして珍しいことに、祖母ちゃんも手懐けられなかった。とくればもちろん俺に出来るはずもない。ところがそうなると、サスケは家にいられないことになる。あまり餌も食べようとしない。その体はみるみる痩せこけていったように見えた。そうなった犬の行き先は保健所行きというのは俺も知っていたし、怖いながらも徐々に距離を詰めようと毎日苦心していた記憶が今でもある。
一番覚えているのは、ある時大量に虫が発生したことだった。
夏の暑い日だった。
***
「ほら、食えよ。食えってば。お前死んじゃうぞ」
……。
「なあ。要らないなら俺が食っちゃうぞ。ほら」
……。
「わかった。もういい。勝手にしろよ!」
そうさせてもらう。そうは言われなかったが態度がそう言っていた。サスケは興味なさげに俺を一瞥し、それからパタンと顔を前足の上に乗せ、静かに目を伏せた。
梅雨が明け、最高気温が30度を超えていた。光化学スモッグ注意報だとか、異常な蚊の発生ぶりだとか、その年はやけに夏が過酷だった。サスケのあばらの浮いた体で乗り切れるのだろうか――そんな不安から、俺は幼いながらも生物の死について根拠なき、しかし実に正しい未来に執着していた。大切な者の死は数年後迎えるがそれは別の話。
今日も成果は薄い。昔よりうなられないだけマシ。決してそんなことはない。人間とのかかわり合いに労力を注ぐことを無駄と捉え、台風のようにただ通り過ぎるのを待っている。そんな態度をサスケはいつしかとるようになっていたのだ。
勝手にしろと口にした以上、俺は遊びに出かけた。いつもの馬鹿どもと馬鹿を虐めて、気が済むまで体力を絞られると家に帰る頃には夏でも外は暗いそんな時間。
軒先を通り過ぎて、倉庫の脇にある折にしがみついた。
そこに、サスケの姿がない。
俺は慌てて周囲を見渡す。いない。踵を返し、玄関を力いっぱいブチ明け、靴を葦で放り投げて今の母親に言葉を浴びせた。母親は「おかえり」のあと、
「サスケは今日は病院よ」
「なんで!」
「ちょっと体力が落ちてるから点滴を打ってもらってるの。あと、虫が体に居ついちゃったんだって。だから、しばらくは大変ねまったく」
「明日は?」
「お父さんが午後迎えに行くから。そしたらあんた、今日遊んでたんだから一緒にいてあげなさいよ。まったくもう宿題もせずに毎日毎日」
所詮、子供の気持ちを大人は判ってくれないのだ。
俺がいつも遊びに行く前サスケに声をかけてるのに。帰ってきたらいつもサスケに声をかけてから家にあがるのに。雨の日には傘をさして一緒に外で過ごしたこともあるのに。
俺は一人ベッドの上、枕に顔をうずめた。
でも、母親のいう事ももっともだと感じた自分もいた。だって、サスケのあの態度。結局自己満足なだけなのかも……。
その日は、サスケのことを考え続け、あまり眠れなかった。




