月の音 もしくは 鐘の光
待ち合わせは午後八時だった。
吐く息が白く見える。走っているからなおさらだった。上下する身体に合わせて風景も上下する。
間に合わないかも。{
「やっぱり遅刻……」
早くという言葉に足が追い付かない。
急いでも目的地が近づいて来るようには思えなかった。もどかしい、もどかしい。
焦る気持ちが身体をこわばらせたようだった。
鮮やかに冴えわたった夜空に音もなく月が浮かんでいる。
◆
牧瀬静美が仕事場を出ようとしている時に入居者同志の喧嘩があった。
「あの、どうかしましたか?」
「さあねえ」
静美が尋ねても数人の男女は曖昧に笑っていた。
「え、でも……」
やがて静美の後にも人が集まって来た。廊下側からリクレーション・ルームの出入口に人の壁が幾十にも重なった。
どうやら部屋の中央で言い合いをしているのは喧嘩の常連である二人――春義さんと秋澄さんという入居者さん達だった。二人は〈春秋戦国〉と影で呼ばれているようだった。同じ八十二歳なので張り合うことも多いのだろうか、よくやり合っているらしい。
いつも些細なことが理由らしいが、今回は廊下にまで届くような怒鳴り合いに発展したようだ。
さすがに黙って見ているわけにはいかない。時間外だが職員なのだ。
「あの」
静美が近づくと二人の争いは一瞬止まった。やはりお年のようだ。肩で息をしている。
「喧嘩は、ですね……ええと落ち着いて下さい」
目視では何もないようだが、興奮したのか顔が赤い。上手く止められればいいが、喧嘩の仲裁なんてやったことはない。
「お水飲みます?」
静美が場にそぐわない質問をした時、専任の看護師さんがやって来た。
「牧瀬さん、三号室の花瓶、あぶないから片づけて。シーツも替えてちょうだい」
「か、花瓶ですか?」
「そう。まだガラスが割れたままなの」
どうやらその花瓶とやらとこの喧嘩は関係しているらしい。もう帰り支度をしてカバンを肩に掛けている静美に容赦なく仕事が飛びかかって来た。
「……はい」
静美は隠れて小さなため息をついた。
牧瀬静美は介護福祉老人センター〈悟りの園〉で雑用はすべて任されていた。普段は掃除が中心で、手の足らない所にヘルプに入ったりしている。
ただ、今日は大晦日。幼馴染で初恋の相手――吉永響と除夜の鐘を聞きに行こうと約束をしていた。
静美は一旦家に帰り着替えて行こうとしていた。が、予定は今変わった。誰かが予定は未定にして決定にあらずと言っていたが、その通りになった。
少しでも綺麗に見せたいとして買った口紅や髪飾りも出番はない。与えられた仕事をやっていたら家になんて戻れないだろう。〈悟りの里〉は不便な場所にある。自転車で最寄りの駅に三十分。そこから待ち合わせのバス停まで電車の乗り換えにまた三十分ほどかかる。このまま約束の場所に行くしかない。大きな荷物は駅前のロッカーに入れて置こう。
静美は気持ちを切り替えようと頬を叩いた。
「……おっしー」
ガラス片を片づけるには掃除機が必要だろう。それに周囲が水浸しなら、ぞうきんか。
あぁ、いつものくたびれた雑巾はなかなか水を吸わない。冷たいだろうな。どれくらい時間が必要だろう。
静美の目は無意識に壁に掛けられている時計に向けられた。秒針が大きな音で時を刻んでいる気がする。
◆
雪はあまり降らない地方だが、陽がなくなると気温は零度近くなった。
静美はくたびれたダウンコートで全力疾走する。駅近くは大晦日だからか、いつもより賑やかだ。みんな終日営業の店でカウントダウンをするのだろうか。それともこれからコンサートか。
反対に道路を渡ると冷気が鎮座しているように静かだ。ここで静美はラストスパートをかける。バス停はもうすぐだ。
何と言って謝ろう。申し訳ない。でも言い訳は良くない気がする。考えながら走り、走りながら考えていると、長身の響が見えた。
彼は短いPコートにグレイのマフラー、上が短い分、身体の線に沿ったスキニーパンツは足が長く見える。
静美も響も服は黒がメインだけれど、比べると雲泥の差があった。
「……」
「十五分の遅刻」
「……し、仕事が終わらなくて……」
「大晦日なのに?」
「うちは……そういうの、関係、なくて。ごめんなさい」
息が切れる。
静美は呼吸を整え、なんとか言葉を繋ぎ合わせた。
「本当にごめん、ね。響――じゃなくて吉永君」
遅刻していきなり弱気になる。申し訳なくて下の名前が呼べない。
待ち合わせは夜の八時だから絶対に間に合うと思っていた。でも無理だった。あぁ、やっぱり気の利いた言葉は出てこない。謝るだけで精一杯だ。
「今日は大晦日だからパスは終日運転。三十分に一本は出ている」
「本当にごめんなさい」
静美が下げた頭を上げると、吉永響は時刻表を見ていた。
駅前のバス停にはあまり灯りはなく、人もいつもより多くない。闇の中にぽつりと立つ外灯が凍えているようだった。
「あと十分くらいで次の便が来る」
「……ごめん」
「謝り過ぎだ。シジミは」
「そ、そうだねー」
初めての二人っきり。しかも大晦日。除夜の鐘を聞くなんて夢みたいだ。
静美はすごく楽しみにしていた。
でも最初の遅刻でつまづいた。その上、会話はあまり続かない。
心配していた通りだ。静美は社会人で響は大学生。もう子供でない。だから何を話していいかわからない。
小さな沈黙が支配した。
子供の頃からの気安さはあるが、それ以上でも以下でもない。近況でも言えればいいけれど、グチになりそうで口を開くことができない。ますます何も言えなくなる。
頭を下にすると仕事場から直行したせいか消毒液の臭いを服が纏っている気がした。下を向きながら静美はくんと鼻を鳴らす。
やがてバスが夜の中から浮かび上がるように近づいて来た。
〈桜塚頂上前〉行き。バスの行き先表示板にそう書いてあった。
このバスの終点にはある〈桜塚頂上前〉は桜の名所として有名だった。きっと今は桜が静かに眠っていることだろう。来るべき春に花芽を出し開くために力を蓄えているに違いない。
あの時のバスに響と一緒に乗っているなんて不思議だ。初恋をあきらめなければ私は前に進めないなんてと思いつめてしまったのは何だったのだろう。高校の卒業パニックとでも呼ぶのが一番適当だろうか。
もっとも響は横の席に座っているだけで、何も写っていない窓を暗い目で眺めていた。
少しは進展した気がするがどうだろう。響は静美を見てはいない。
「……」
バスが地道を走ると時々石ころにでも乗り上げるのかガタンと振動がある。そして身体が小刻みに揺れる。
静美は窓に移った響の横顔を見ながら考えた。黙っている彼は視線を合わせて来ない。楽しそうでもなく面白そうにも見えなかった。ただ腕を組み、暗い外に目をやるだけだ。やっぱり遅刻を怒っているのだろうか。
だけどあの時、急いで手を抜くことは静美には出来なかった。
ガラスの花瓶は古いもので牛乳瓶のような形をしていた。それがベッド横の机から落ちたのだろう。新しい物だったらまた違っていたかも知れないが、細かい破片となり散らばっていた。
そして中にいけてあったのだろう、白い水仙が床に一本落ちていた。幸い花は落下しただけで損傷はない。
この水仙はたぶん園の中庭にある自由庭園のものだろう。そこは土に触れてもらおうと造られた小さな畑であり花壇だ。今は少ないが冬の花が咲いている。
「あのお怪我はありませんか?」
「……」
哀しそうにそれらを見下ろしているのは田中ミフユさんというお婆さんだった。足が不自由なのは一目見てわかった。パジャマから出た枯枝のような足は体重を支えることが出来ないだろう。
ミフユさんは黙っていた。
黙って目を瞑り、どうしていいか考えているように見えた。
「掃除させていただきますね」
静美は何も聞かずに掃除機をかけ、拭いた。水は花瓶と同じく広範囲に飛び散っていたが、幸いベットカバーは無事だった。
掃除の後に静美は台所で予備のコップを持って来た。まだ生きている水仙はそのまま捨てるには忍びない。
そっと花を机に置くと、ミフユさんはゆっくりと身体を二つ折りにするかのように頭を下げて来た。お礼を言ってくれているのだろう。静美もまたどういたしましてと頭を下げた。
静美は働き出して余計なことを聞かなくなった。あの春義さんと秋澄さんのどちらかが花瓶を倒して喧嘩になったのかなとは思ったが口には出さなかった。
静美は背もたれに身体を預け、バスの揺らぎに耳を傾けた。なんだか今日は口に出来ないことばかりだ。
響もバスケを辞めたと言っていた。それに今日も突発的に誘われたが、元もとは違う誰かと予定があったようだ。私だから楽しめないのかな。
パスが通らなければドリブル。進むと見せかけての三点シュート。響は羽をその時確かに持っていた。
あの小さな響がいつしか眩しい高校生になって、それから大学生になって、それから。
それから。
遠くなった。
「……」
やっぱり彼から話したくなるのを待つべきなのだろう。幼馴染なのだから。
「着いたぞ」
横の響が立ち上がるまで静美は気がつかなかった。ちらほらと同じ参拝者が乗り合わせている。年齢層はパラパラだ。
扉が開くと夜の空気と供に鐘の音がなだれ込んできた。
バスの外に出ると周囲を震わせる鐘の音が微かに、静かに耳に届いた。少し高く、そして尾を引いている。
「やっぱり平野ではウルサイとか苦情があるんだろうな。除夜の鐘はこの辺りではここでしか突かない」
「あー、ここはお寺だったんだね」
「シジミは遠足専用の場所とか考えていたのか」
「まさか」
少し笑顔が強張る。
でもここで初めて響としゃべった気がした。
横道にそれると参道なのか、急に人が増えた。たぶんどこかに駐車場があって、そこから来ているのだろう。全体的にはお年を召した方が多いが、中には若い家族連れもいた。
カップル――静美達は少数派だ。たぶん違う年越しイベントに行っているのだろう。
静美は何げなく参道を見て目を細めた。
山道がぼんやりと浮き出て見える。
清浄な闇の中点った提灯。
山を流れる鐘の音。
冷たい風は湿り気を帯び、樹の葉を揺らしている。
古い時間と新しい時間の交差する場所だ。
「ざわついているけど、静かだね」
「シジミらしい表現だな」
素朴な灯りの中、人々が吸い込まれるように歩いている。足元から山に直接触れている感触が伝わって来た。
「転ぶなよ」
「うん」
ぞくりと背中が震える。もちろん寒いからではない。非日常の世界が想像していたよりも綺麗だったからだ。
身体の中が透明になる。
透明になって飛べる気がする。
「お寺まで十四、五分ってとこかな」
「そうだったっけ」
フワフワする。これは大晦日だからか、山の夜特有のものなのだろうか。枯れ草と冷たい地面と懐かしさと安堵。色々な感情で静美は一杯になった。
そのまま歩を進めると目の前が開き、街を見下ろせる場所に出た。
太目の丸太が手すりになっており、下は闇に包まれて見えない。しかし空には星が散りばめられており、微かな〈またたき〉で満ちていた。
幽玄の美とリアルの美しさが溶け合って――世界を創っている。
「月が近いね」
あぁ。
山の中腹でも街で見る月とは違う。静美はため息をついた。
遮るもののなくなった〈月〉。人口の光は拒絶しているようにくっきりと写って見える。月にプライドがあるみたいだ。
それに影響されたのか人口の光も冷たく見えない。
「街の光もすごくよくわかる。あっちが駅前でしょ。赤とか青とか色々な光がある」
黄色で動いているのは車だろうか。
「向こうは住宅地。窓からの明かりがカーテン越しだからかな。少し暖かい気がする」
そしてビル街はほとんど光がない。さすがにこの時間に仕事をしている者はあまりいないのだろう。
この風景のどこかに〈悟りの園〉はあるのだろうか。
「シジミなんかテンション高いな。そういえば昔から高い所好きだったな」
「あはは。だっけ?」
本当におかしいくなったかも知れない。
しゃべれないなんて思ってたのは誰だ? 自然が固くなったものを溶かしてくれたのだろうか。
昔のことは憶えていないけれど……仕事で失敗したもの、我慢などのストレスが胃の底に澱んでいた。それらが夜空を見て溶けてゆく気がする。心ってこんなに簡単に軽くなるのか。
やはり高い所が好きなのかも。
そう思った時、空気を震わせて鐘の音が響いた。さっきより近い。
「シジミ、ここで待ってろ。どのくらいで順番が回って来るか境内を見てくる」
「え?」
「去年は結構な人出でさ、鐘撞堂は待ち時間が三時間。まあ、みんなそこが目当てだからな」
「……」
「整理券配られてないか見てくるよ」
響は慣れているようで参道を駆けて行った。
取り残された静美はあっけに取られ立ちすくんだ。
具体的に誰かの代わりだと知らされた気がした。
「……まあ、そうよね」
うん。
何を期待したのだろう。
酷く寂しい。静美のことを気遣って取ってくれた行動だろうけれど何故か寂しいのだ。まるで夜空の中に独りぼっちのようだ。
少し肩が軽くなってもすぐに重くなる。
――響は
そう、響は幼稚園から知っていて、中学までは登下校も一緒だった。だけど高校はほとんどしゃべったことがない。思い出してしまった。付き合っていたのか主に小学校時代だ。だから話す内容も今のところ思い出話が中心になっている。本当は今の彼のことを色々知りたいけれど、共通する話題がない。言葉がない。
喋る時も子供のタメ口になってはいるけれど、本当は緊張して緊張して。
――だって好きだから。
好きって自覚したら、誰だって上手く話すことが出来なくなるだろう。
好きになって欲しいなんて思ったら、もっともっと距離は遠くなるだろう。
「……たぶん」
静美は少し首を傾げ、遠くを見た。
友達にも妹にもなりたくない。でも嫌われたくもない。
「こういうの、デモデモダッテちゃんというのだろうな……」
決断力が不足しているわね。そう仕事場で何度言われただろう。責任を持って動いていないからだとか、咄嗟に回る頭がないとかキツく注意された。だけど性格なのか、なかなか治らない。
だから告白なんて出来ない。一生出来ない気さえもする。
「駄目駄目。あきらめるのは後でもできる」
静美は大きく顔を振った。
「どうしたの、ラジオ体操?」
響がお寺の方向から走って戻って来た。
「は?」
「だって動き回ってたから。寒いのか?」
「ううん。いやまあ、そうかな」
答えながら静美はチラリと彼を見た。響は難しい顔をしている。
「あー、混んでたんだね」
「ん。悪いな整理券はもう配布が終わってた」
「えっ」
静美はいきなり気がついた
「もしかしたら私が遅刻したから配り終えられちゃった? バス一本遅らせたから」
「いつもより鐘を突きたがる人が多かったからだよ。百八つの鐘は百七つを年内に。一つを新年に、が決まりらしいし」
「ごめんなさい!」
静美は深く頭を下げた。人数制限があるなんて知らなかった。
「いいって。そんなに謝らなくても。シジミは必死で走って来てくれたし……あの時は待ってて良かったなって、ちょっと感動した」
「……そうかな。そう言ってもらうと」
「女の子って割と遅刻するだろ。だからそんなに真剣に謝られると思わなかったんだ」
「え?」
夜の風が静美の頬を撫でた。
静美が響の方を向くと、響は気にせずに大きな空に向かって話し始めた。
「それにシジミは整理券がなくても俺を責めないし――そうだな。昔から寛大だった。プレゼントを要求なんかしないし、荷物持ちもさせないし。あれは〈持って当たり前〉感があると嫌なものだな」
「まあ、ね。自分でやらなきゃ駄目なことを押し付けたら困るでしょ」
「いや、でも彼女は……」
思い出すように話す響に静美は慌てる。響に女兄弟はいない。
咄嗟に耳を塞ぎたくなったが、身体が固まったように動かない。
「か、かの、じょって?」声が引きつっている。喉の奥がヒリヒリする。
しかし言葉は止まらなかった。
「だ、大学、の彼女?」
「ああ」
静美を取り巻く景色が変わった。土の湿った香りは黴臭くなり広い空は黒く塗りつぶされた。月も姿を隠し鐘の音も聞こえない。
「そ、そうなの」
そうなんだ。
確かに響は欠点がないのが欠点というくらい整っている。頭もいいし、スポーツも万能。高校でもモテたのだから、大学に行ったら女性の方が放って置かないだろう。だから何の不思議もない。
落ち着け、落ち着け、落ち着くんだ私。静美はただ心臓を押さえて呪文のように心でつぶやいた。
「あれ、シジミ。なんか誤解してる?」
「え、誤解?」
響は何度も瞬きをし、静美の顔を覗きこんで来た。
「バスケのマネージャーなんだけど、元もと三回生の先輩と付き合っていて……つまり二股掛けられてたんだ。わかってから彼女と交際は止めたけど先輩に恨まれて。結局居辛くなってバスケを辞めたんだ」
ここで響はひと息ついた。
「結構修羅場だったよ。大学にもよると思うけれどうち先輩後輩の縦の線が強いんだ。先輩は次期キャプテン。だから彼女から告白されても悪いのは俺になる」
「……好きだったんでしょ」
「それが、わからないんだ」
「え、でも」
「だって俺、そんなこと今までなかったし。デートもワケわからないうちに終わった。大学に入って浮かれていたのは……事実だけど。部に馴染もうと必死だったしマネージャーの命令も聞かなくちゃいけないと考えて……おいシジミ、そんなに笑うなよ」
「天然最強だねっ」
今度は笑いが止まらなくなった。
実に響らしい。
ドがつくほど純粋で、バスケにばかり熱中して周りが見えていない。こんな端正な容姿で誰とも付き合ったことがないなんて信じないだろう。むしろ女性慣れしているように思われているかもしれない。
だけど静美が知る限り浮いた噂はなかった。確かに真っ直ぐ君は男性版高根の花だった。
「バスケの仲間も部を止めた途端にみんな冷たくなって……今日も約束していたのにドタキャンだ」
静美とは反対に響は少し哀しい目をして怒っている。
確かにあれほど好きだったバスケを自分から辞めるというのは辛かっただろう。個人競技ではない団体スポーツでのイジメは陰湿さが高い気がする。正義感の強い響は先輩の理不尽さに我慢できなかったに違いない。
彼の出した「辞める」という結論は重い。
「ごめん――笑ってごめんなさい。だけど嫌な気持ちはやっぱり笑って浄化しちゃった方が良いと思う」
「浄化?」
「そう。私はあのお月様を見て、すっごく嫌なものが溶けたというか、ほどけて消えて行った。ここに来て良かったなって思えた。私は……たぶん響もだろうけどまだまだ小っちゃいんだ。だから悩むんだと思う。辛いことはいつまで持っていても痛いだけだから、手放せばいいんだ」
「ちょっと待って。俺が小さいってこと?」
響はきょとんとした顔になった。
「ううん。私達が小さい。お互いに器が育ってないって意味」
「え? どういう」
「あぁ、話が飛んじゃった。ごめん。今日ね、驚いたことがあったから――その、三人。仮に春さんと秋さんと冬さんと呼ぶね。彼らは七十年も前に一度で会ったの、学徒疎開で」
「戦争時代?」
「うん。三人は生まれも育ちもバラバラ。子供の時に戦争があってこの地に避難したらしいの。辛かったと思う。嫌なことも多かったと思う。でも彼らは忘れなかったんだ。それぞれの故郷に戻ってもこの場所は心の底にあったのだろうね。だから終の棲家を考える年になって帰って来たの」
「……ここに?」
「うん」
「確かにスケールのでかい話だな」
「そう。七十年だよ。それだけの時間が過ぎてまた巡り会ったんだよ、三人は。人の縁とかそういうことは私達がしっているサイクルで動いていないんだと思う」
それは〈悟りの園〉で聞いた物語。
喧嘩の常連である春義さんと秋澄さんという入居者さんのことだった。
彼らは戦争時代に親戚の家に預けられた。その親戚がたまたま近所だった。そこに学徒疎開でやって来たミフユさんに出会う。
何があったのかは誰も知らない。同じ年だった三人は内緒で遊んだとも食べ物を分け合ったとも言われている。また、ミフユさんを巡ってライバル関係ではないかとも介護士さん達が噂しているが、正確にはわからない。
ただ三人にとってここが戻って来たい場所だったのだろう。そうでなければわざわざこの施設は選ばない。
その証拠に春義さんと秋澄さんは〈春秋戦国〉と言われるほど喧嘩をするが、仲が悪いとは思われてはいない。彼らは〈もう一度子供時代をやり直している〉と言われている。
これらはゴミ捨ての時、施設長さんに教えられたことだ。同じ頃、迷惑をかけたと二人がみんなに謝って回っていた。喧嘩のきっかけは、やはり花瓶が落ちて割れたことらしいが、どちらが花瓶を倒したのかお互いわからなかったらしい。そして「オレが悪い」「いやワシが」と声高に言い合っているうちにああなったとか。
人騒がせだが、憎めないとみんな寛大だった。
あの後、謝り合ってまた喧嘩したそうだ。情けないとミフユさんが嘆いて落ち込んでいたとか。これは帰る間際に聞いたこと。
「私達はまだ生まれて間もない……ではないけれど小さな世界しか知らないんじゃないかな。だから人間関係や自分の中の気持ちに悩むけれど……やっぱり何年も経てば経験して良かったと思うことになるかも知れないし。なんていうか辛いこと多いけど」
うまく言葉にならない。
いや、出来ない。だって静美もまた悩みの中にいる小さなヒヨコだから。
「経験って言うか、重ねて染み入ることもあると思う。友達も今は避けられても本当の親友はそばに居てくれる。あ、なんか説教じみたこと言ってごめんなさい」
響と先輩を秤にかけ、わかってくれない仲間はそれだけの仲ということだ。それを静美は伝えたかった。
「なあ――夏さんは?」
「え?」
「春さん秋さん冬さんがいるんだったら夏さんがいなきゃ変じゃないか」
「突っ込むとこ、そこっ?」
響の応えは秀逸だった。
静美は気持ちよく笑えた。そしてそれに続くように響も笑った。
忘れていた、この感覚。
本当はもっと自然に響を好きだったのに……どこか自分で壁を作ってしまっていた。
高校で彼はバスケットボールで注目される選手になった。その姿を目で追い、私なんて似合わないと卑屈になっていた。静美は自分から離れて行ったのだ。
彼の良さはずーっと変わっていない。静美が好きなのは表面のカッコ良さではなく、響の本質なのだ。悩んでも自分で立ち上がることのできる強さなのだ。
「向こうに自動販売機あったから何か飲むもの買って来るよ。笑いすぎて喉が渇いた」
「うん」
響が嬉しそうに離れてゆく。
遠ざかる背中を見ても今度は寂しさなど感じていないことに静美は気がついた。同じなのに負の感情に飲み込まれない。どうしてだろう。
確かに好きになって拒絶されたら怖い。でも会えずにいて忘れられるのはもっと怖い。そう気づいたからではないか。
考えていると響が戻って来た。
「早かったね」
「やっぱり売り切れで、これしかなかった。迷うことないと気が楽だな。おごるよ」
響に缶を渡された。キンキンに冷えている。この山に自動販売機があるのが不思議だが、きっとまだ夏仕様なのだろう。リンゴの絵が描かれてある。
「ありがと」
「味わって飲め。シジミ風に言うとただのリンゴジュースじゃない。フレッシュリンゴジュースだぞ」
「私ってそんなこと言ってた?」
「ああ。こだわっていたな。フレッシュが付いているか否かが大切だって。給食の時に演説してたぞ」
「やだ覚えてない。まるで私が食い意地張っているみたいに聞こえる」
「食欲って大事だよ」
響が吹っ切れたように明るくなった。
やはり月には何か浄化作用があるようだ。
静美は微笑んで空を見上げた。
「このまま初日の出を見て行こうか」
響が急に思いついたように口にする。
「――えっ。あ、うん!」
彼のことだから特別な意味はないだろう。でも素直に嬉しい。ちゃんと目を見て話せる。
「私さ……」
「ん?」
「やっぱり高い所好きみたい」
まだ完全に満ちてはいない月だが夜空に存在を示している。
傍の星もまた同じ。
それは互いに競っているのではない。ひとつとなって夜に溶けている。調和は闇を闇として認め、夜空という時間の中で輝くのに必要なことなのだ。
静美はこの夜を、風景を忘れない。
きっと何年経っても、数えきれないほど年をとっても、やっぱり忘れないだろう。
辛くても泣けてもどんなに嫌なことがあっても、この場所に立てばやり直せる。
そんな気がした。
ほら。
風が鳴る。
いくつめかの鐘の音が――びびく。
読んでいただきありがとうございました。