ふたりの夏祭り
藍色に染まる空。ほの暗い丸提灯の灯り。心地よく耳に届く祭囃子。いか焼きやとうもろこしの香ばしい薫りが嗅覚を刺激した。
祭り独特の雰囲気に人々は酔って呑まれ、喧騒は大きくなっていく。心なしか蒸し暑く感じるのは人の熱気のおかげか。
神社の境内から長い階段を下りた先には大きな池がある。池を囲うフェンスを背もたれにちょこんと座って、さっき買ったかき氷を食べる。甘いだけのシロップと水っぽい氷は、なんとも夜店のかき氷である。
流れる雑踏。名の通る神社の祭りはやはりと言うべきか人が多い。地方のテレビ局員の姿までもあったぐらいだ。
「……」
その中で、ひたすらに一点を見つめる。ぼうっとそこだけを見つめ、手だけを動かす。はむ、とスプーンのようなストローを咥えた。
視線の先には一組のカップルがいる。
女の子はとても可愛らしい。ぱっちりとした目と小さな顔。茶髪をアップさせ、纏め上げられている。黄色を地にした浴衣にはところどころに小さな花が散らさせており、明るい色の帯が映えた。
男の方は短髪で背丈があり、爽やかな顔立ちをしている。服装は普通、シャツとジーンズであった。
女の子は友人で綺華と言う。男は外山という名前……だったはず。それ以上の情報は忘れた。
ふたりとも照れくさそうにしている。それでも特に綺華の方はすごく嬉しそうに、外山に微笑んでいた。
「……」
しかし、外山は綺華に目を合わすことがない。観察を始めて十分ぐらい経つが一度も合わしていないだろう。
「…………」
無性に腹が立った。八つ当たりのようにかき氷にストローのようなスプーンを突き刺す。
全然綺華の顔を見ないのは失礼すぎる。せっかく綺華がおめかしして、頑張って勇気を出して今日外山の隣に立っているのだ。綺華の愛らしい浴衣姿を見てなんとも思わないのか。何も感じなかったらおまえを男として疑う。ともかく綺華に失礼なので死ねばいいと思う。
恨めしく睨んでいると、不意に綺華が外山から目を外した。その瞬間、外山がぐるっと首を回して、綺華を穴が空くほど凝視した。なるほど、綺華が可愛すぎて直視できないのか。けっこう初心なところがあるものだ。あいつだけ爆発してしまえばいいのに。
そんな状況をつくったのは自分であるが。
「はあ……」
小さく、しかし重たいため息をひとつ。
とにもかくにも、これで一段落である。
祭りを一緒に回れて綺華もご満悦のよう。外山の外山で可愛い女の子を連れて歩けるのは鼻が高いだろう。
あとは、祈るのみである。
――がんばれ、綺華。
心の中で友人にエールを送り、ふたりを見送った。
騒がしいほど賑やかな群衆。神社の境内に上がる階段の近くだからか、山のような人だかりができている。
それをぼうっと眺めながら、溶けるかき氷を突いた。
――ねぇ椿ちゃん、相談があるの……。
綺華からそう切り出されたのは、試験も終わる時期であった。
綺華は大学に入ってから知り合った友人。小柄な体つきで小動物のような雰囲気の彼女は可愛らしくて、仲間内からも愛されている。学部もサークルも同じで、学内で一番仲良くさせてもらっている。
その相談と言うのが、さきほどの外山という男が関係した。どうやら、異性として気になっているらしい。
――できたら、お付き合いできたらなぁって。
言われたときは素直に驚いた。今まで、浮いた話などひとつもなかった綺華が恥じらいを見せて相談する姿に、わたしは胸が震えた。端的に言えば、萌えた。
元来、世話焼きの性質があった。相談事にはめっぽう弱いことは自覚していた。
昔から引き立て役を担っていたし、表立って動くことはなかったが、綺華のようなケースはこれまでも何度かあった。
そして人の性格はそう簡単には変わらないし、今回も手を貸したのだった。
サークルの仲間内で夏祭りに行こうと計画したのも、わたし。綺華と外山をふたりっきりにさせたのも、わたし。
彼と話す綺華はとても楽しそうだった。綺華の嬉しそうな表情を見ると、心が温まる。
その笑顔を見るために頑張った。これでハッピーエンドなら文句もないのだけど……それはまだわからない。
「綺麗だったなぁ、綺華」
空っぽになったかき氷の容れ物を片手に、頬を緩めて藍色の空を見上げる。
可愛い綺華の隣に立つのは平凡な自分。脇役同然な自分ができるのはここまでだ。外山のことはよくわからないけど、綺華が幸せならそれでいい。格好良い彼氏といるのは、可愛い彼女の特権だろう。
右の手首に着けた腕時計を確認。あと二十分くらいで花火が上がり始める。それまでに一緒に来た他の友人と合流しなければならない。
綺華を見送ったところだし行こ――。
「関口さんほんと可愛い。やっぱ着物って良いよな」
「――ぅわっ!?」
立ち上がろうとしたとき、突然隣から声が聞こえた。びっくりして再び尻餅をつき、顔を上げると、ニヤニヤと笑う男がいた。
そいつを見て、顔が引きつる。
視線に気づいた彼はこちらへ目を下ろし、口の端を緩やかに上げた。
すらりと細い体型。身長は平均的。くせっ毛の髪が左右ではねていて、細面。おかげでどこか子供っぽい雰囲気がある。
「……駿太郎」
「あっ、今名前呼んだ。椿が俺の名前呼んだ」
そいつは嬉しそうにはにかむ。
しまった。つい慌てて、昔のように……。
彼は笑ってまま請う。
「お願い、もっかい名前呼んで」
「うるさい。広瀬」
「ケチ」
今の問答で立ち上がるのも億劫になって、わたしは彼を見上げた。
口を尖らせて拗ねるこの男は広瀬駿太郎という。祭りに一緒に来た友人その1で、腐れ縁でもある。
ふくれっ面の横顔は中学校からあまり変わらない。童顔というヤツか。
広瀬駿太郎とは中学からの同級生だった。高校は違ったところへ進学したが、大学でサークルに入って再会した。
こいつの顔を見たときは本当にびっくりしたし、こいつが自分のことを覚えていたというのも驚きを通り越して、気持ち悪かった。中学のときから気安く、何かとちょっかいとかお節介とか掛けてくる奴だ。それは大学生になっても変わらず、今もこうしてなぜか隣にいる。
広瀬の登場に驚き、わたしは立ち上がるのも忘れて、悪態を吐く
「なんでこんな奴と同じ……」
「あん? 学部は違うじゃん」
「週三で顔見てんだけど」
「そっかー?」
などととぼける。ほんとムカつく。
すると広瀬はズボンのポケットに手を突っ込んで、ずいっと体を傾けて寄せてきた。近い。近すぎる。身じろぎするもこいつは気にしていない様子。ほんとキモイ。
あほうな広瀬はつまらなそうに綺華の方へ顎をしゃくった。
「で、あれは何?」
「何って……」
言われてハッとなった。綺華と外山をふたりっきりにさせたところをこいつに見られたのだ。せっかく綺華のために作った時間なのに……。
広瀬を睨んでいると、彼は身を離して肩をすくめる。
「別に。ふたりの邪魔するつもりないよ。それにしても関口さん、外山さんのこと……。花村の奴悔しがるぞ」
綺華が去った方角を見て広瀬は意地悪く笑う。そんな彼を見つめ、わずかに首を捻ったとき、広瀬はこちらに目を合わせ、ニカッと笑った。
「じゃあ、俺たちも関口さんたちみたいにこっそりデート……」
「ごめんなさい」
「即答かよ……」
無論だ。誰がこんな奴と歩けるか。
広瀬は小さくため息を吐いて、フェンスに肘をつく。おかげで立ち上がるタイミングを逃してしまった。
「もう、みんなのところ戻るんじゃないの」
おかげで声が荒れる。綺華のこともあるし。ほんと、誰にも見せたくなったのに。
そんな気持ちも知らず広瀬は雑踏に目を向けたまま、呑気に言う。
「別に戻んなくていいだろ。みんなぷらぷら自由行動してるって」
「でも心配する……」
「俺が、戻りたくないんだよ」
「は……?」
何を言ってるんだ、こいつは。
その一言はなんとなく広瀬らしくないと思った。眉根を寄せると、広瀬はちらりとわたしに一瞥くれる。
「色気ねぇなぁ……」
「なっ……!」
なんていう暴言。
確かに服装は半袖のシャツに短パンとレギンス、と普段通り。前髪が目にかからないようヘアピンをしている。今日は祭りだと言うこともあって、髪はくるくると巻いてアップにしている。ぜんぶ綺華にしてもらったけど。
確かにそれ以外何も変わってない。だけど、女の子に向かってそんな言い草はないだろう。
キッと睨みつけると、広瀬はビクッと肩を揺らす。
「い、いやごめんって……。で、でも可愛いんだからさ……なんで浴衣じゃねぇの?」
「あんた馬鹿にしてるでしょ」
残念ながら浴衣を着る勇気は無かった。綺華に勧められたが、気が引けた。だって綺華のようにちっちゃくて可愛くもないし、スタイルも良いと言えない。
「やっぱ男って女の浴衣姿に欲情するの?」
ゴミを見るような目つきに広瀬はますます慄きながらも、しかし苦笑をする。
「そりゃあ和服って滅多に見ないし……。俺的には首筋あたりがポイント。エロくね?」
「あんたの性癖はどうでもいい」
「椿の浴衣姿も見たい」
「はぁ? 馬鹿……」
罵倒しようとして、息を飲む。
じっと見つめてくる視線。さっきまでの笑顔を掻き消して、真剣な表情でこっちを見ている。何を考えているかわからない双眸に、吸い込まれそうになって、胸が軽く高鳴った。
え……?
「ッ……」
瞬時に顔を背けた。同時に胸に手を当てて確認。トクトクと鳴る心臓はいつも通り。平常である。そう平常――
「何、どした?」
「いやっ、こっち来んな!」
「え」
怒鳴ると広瀬は固まる。しゃがみ込んでぎゅっと両手を握っていると、広瀬が「あー」と呻き声を上げて髪を掻いた。
「いや……悪かったって。別に浴衣じゃなくても、椿可愛いから。自信持てって。俺が保証するから」
「何言ってんの?」
さっきの懺悔か? しかしもう遅い。というかそれはどうでもいいのだ。それよりもわたしはこの変な鼓動をどうにかしたい。
じろりと睨むと広瀬はきまりが悪そうに目を逸らした。良い機会だ。反撃してやろう。しゃがんだまま、わたしは肩越しに振り返った。
「浴衣好きならわたしと綺華以外に着てもらいなよ。あ、よく一緒にいる子でいいじゃん。名前なんて言うだっけ? 今日も連れて来たらよかったのに」
「え……」
広瀬は閉口する。よし、もっと苦しめ。できるだけ冷たい眼差しをつくる。
「夏休み始まったばかりだし……祭りもいっぱいやってるでしょ。ふたりでどっか行って来たら?」
「あいつは……。そんなんじゃねーよ」
「……」
語気を荒らげる広瀬。心なしか悲しそうな顔をする彼が珍しくて思わず黙ってしまう。広瀬は恥ずかしそうにこちらから目を逸らして答えた。
「あいつはダメ。……ちょっと、苦手だわ」
「ふーん。肉食系な女子は苦手なの? 得意そうだけど」
「そりゃあ迫られるのは嬉しいけどさ。……なんつーか、うん……好きになれないんだよな」
「広瀬のくせに生意気」
「好きでもない女とイチャイチャできると思うか?」
「その言い方だと好きな人いるみたいだよ」
「いるよ」
即答だった。思わず顔を上げると広瀬は苦笑交じりに肩を揺らす。
「なんだよその顔。俺に好きな人いるの、そんなにおかしい?」
「うん、驚いた」
「真顔で言うなし」
こんな奴でも好きな人のひとりやふたりいるのか。
感心してじっと眺めていると、広瀬は「見るな」と怒った風に言って、顔の前で手を払った。
なんだかおかしくて笑ってしまう。
「笑うのも禁止」
「だって、普通即答する?」
「うっせーな。おまえが聞いたんだろうが」
それでもくすくす笑っていると、広瀬は突然腰をかがめた。目の前に彼の顔が現れて、わたしは笑うのをやめる。怒ったような、困ったような顔、じとっと濁った瞳、つんとした鼻筋、引き結ばれた唇。……こいつ、近くでみたらけっこうカッコイイじゃん。
あれ、なんかドキドキしてきたんだけど……。
「な、なに……?」
「……」
震えた声をできるだけ抑えて聞くが、広瀬は何も答えない。じいーっとただ見つめてくるだけ。
「ちょ……っ」
こんなの目を合わせられない。身体の中に熱が篭もる。再びトクトクと鳴り出す心臓。静かにしろ、と必死に願うが言うことを聞いてくれなかった。
「……ほんと、腹立つわ」
「え?」
呟いた瞬間、広瀬はおもむろにわたしへ手を伸ばした。
白く骨張った掌。男の人のそれ。
中学の頃から何ひとつも変わっていないと思っていたけど、背丈は大きくなったし顔立ちや体つきは男の人そのものだ。
この掌だって、わたしの顔以上ある。
――駿太郎も、男なんだ。
そんなことを考えていたせいか、いつの間にか広瀬の大きな手が目と鼻の先にあった。わずかに目を見張るが、時すでに遅し。
広瀬の指先がわたしの頬に触れるようとした。
そのとき、ブーブーと低いバイブ音が聞こえた。携帯電話のヤツだ。
ピタリと広瀬の動きが止まる。
バイブ音は広瀬のズボンのポケットからしていた。広瀬はわたしへ手を伸ばした格好のまま、ポケットを一瞥して、ため息をひとつ。
「……何やってんだか」
疲れたように言い捨て、何事もなかったかのように腰を上げた。
わたしはぱちくりと目を瞬いて、広瀬を見上げる。広瀬はこちらの視線を無視して、携帯電話を取り出し画面をタップした。どうやら電話のよう。
なんだったんだろう?
電話をする広瀬の横顔をぼうっと眺める。
心臓はまだ騒がしい。
広瀬に触られそうになった。身を寄せ、目を合わせ、じっと見つめられ、手を伸ばされた。
胸の中がもやもやする。何かがつっかえたように胸が痛み、よくわからない感情が渦巻いた。
「……わかったから。あー、うん……。じゃ、あとでな」
やがて通話が終わる。
広瀬は携帯電話をポケットに仕舞いながら、苦々しく笑った。
「みんなで花火観るから戻ってこいだとよ」
「あ、うん……」
広瀬の顔を見るとますます腑に落ちなかった。
もやもやしていると広瀬が、
「立てるか?」
そう言って腕を上げる。が、それは中途半端な位置で止まる。その躊躇いが何を示すのかなんて考えなくも理解して、わたしは恥ずかしくなった。慌てて答える。
「い、いいっ、立て……わっ」
思えば、綺華を見送ったあとからずっと座っていた。突然の屈伸運動にわたしの脚は悲鳴を上げて、立ち上がった瞬間ぐらりと足元が揺らいだ。
「おい……ッ」
落ちた先は柔らかかった。
ふわりと肌に当たるのは薄いTシャツ。温かいぬくもりを頬で感じ、耳にドクドクと鼓動が聞こえた。……すごく速かった。
そして、それがどこであるのか考えるまでもない……。
「あ……、え……」
吐息がつむじをくすぐる。おずおずと顔を上げると、広瀬は顔を赤くして震えていた。
「ご、ごめんっ!」
「いや俺こそ!」
――なんなのこれ!?
自慢ではないが、年齢=彼氏いない歴のわたしにとって、こんなイベントは夢の中でもあり得ない。ハードルが高すぎる。
さっきとは違う意味でバクバク言う心臓を押さえ込むように手を当てていると、広瀬は手で口元を隠して促した。
「ともかく、移動しようぜ」
「……」
こんなときでも平静なこいつを恨めしく思った。
出店が立ち並ぶ参道を下る。夜の帳も落ちて空は真っ暗。あたりは提灯の明かりが煌々と道を照らしていた。花火の上がる時間も迫っているため、通行人のほとんどは同じ方向に歩いていて、混雑の中でも楽に進めた。
しばらく黙って歩いていると、広瀬が口を開いた。
「関口さんと外山さん。あれ、お前がやったんだろ?」
「な、なに? いきなり」
「だってさ」
前を行く彼は肩越しに振り返り、ふっと薄い唇に弧を描いた。
「椿、昔からそうだもん。また、恋のキューピッドとかだろ?」
「何? 悪い?」
悪戯っぽい笑みを浮かべる広瀬に冷たく返す。馬鹿にされた気がしたから。
確かに世話焼きは中学の頃から変わらない。頼まれ事はできるだけ受けてしまう性質は今も同じ。中学のわたしを知っている広瀬ならおかしく思うのは当然。
だけど広瀬はゆるゆると首を振って笑顔で言った。
「違う違う。椿は昔から変わんないと思ったの」
変わらない。なんだか虚しい響きを持った言葉だなとふと思う。小さく息を吐くが広瀬は構わず続けた。
「人の事ちゃんと見てるってこと。椿は優しいって言いたいんだよ、俺は」
「へ?」
思わぬ台詞にきょとんとする。まさかこいつにそんなことを言ってもらえるなんて思っても見なかった。
また、頬が熱を持った。
慌てて目を逸らす。
「な、なんか広瀬が……優しい?」
「はぁ? 俺はいつだって好青年だっつの」
言うと広瀬は不機嫌に頬を膨らませた。その表情は中学から同じ。そんなところが子供っぽくて……。
「広瀬だって、」
「ん?」
言葉が引っ込んだ。口を半開きにしたままだらしない顔で、足も止まる。広瀬も足を止めてこちらを振り返った。
人ごみの中、人の波に乗らないふたりはたいそう奇妙に見えただろう。通行人がうっとうしそうにこちらを見ていた。
「どしたの?」
広瀬は首を捻って訊ねる。
すぐに答えることはできなかった。
喉が渇いて上手く舌が回らない。
自分の顔ひとつぐらい上にある広瀬の顔。首を動かさないと目を合わせられない位置。数年前まで同じぐらいの背丈だったのに……。
ふと手を握る。掌に残るふくもりは新しい。その感触は柔らかく温かかった。生々しい感触を思い出したら、急に体が熱くなった。
ほんと、この感覚はなれない。
「な、なんでもないっ」
「いや、今絶対何か……」
「忘れて」
「気になるって!」
広瀬を抜かして先に進む。
「おい、待てよ」
「絶対待たない」
早く熱が引いてほしい。こんなの見られたら絶対に馬鹿にされる。
「なぁ。おい」
「……」
「椿ー、どうしたんだよー」
「……しつこい」
「なぁ椿……。美穂っ!」
「っ!? 名前で呼ぶな!」
思わず振り返る。立ち止まった失策だが、それでも叫ばずにいられなかった。
広瀬はニヤニヤと勝ち誇ったように笑っていた。
「なんでだよ? 俺たちの仲なんだから名前ぐらいいいじゃん」
「どんな仲!? いいから名前で呼ぶな」
「名前のほうが可愛いでしょ?」
「か……っ! 気安く呼ぶなッ」
椿美穂。小さい頃からみんな名字の椿を名前のように呼んでくれていて、定着してしまっている。だから名前で呼ばれるのは慣れていなくて、本当に恥ずかしい。
顔を真っ赤にするわたしに広瀬は歯を見せて笑う。さっきのときめきを返せ。ほんと、死ねばいいと思う。
「やっぱ変わんないな、美穂」
「ッ! だから、名前……」
そのとき、闇色の空が赤く染まった。
ドーン、という空に轟く爆音と湧き上がる大きな歓声。
大輪を咲かせる花火。赤、黄、緑、と夜空を鮮やかに彩っていく。
わたしは文句を忘れて空を見上げた。もう花火が打ち上がる時間になったのだ。
「……綺麗だな」
「うん」
ぽつりと呟く広瀬は楽しそうだった。ちらりとその横顔は窺ってみる。
花火のいろんな色の光に照らされて、いつにもまして凛々しく映った。
「…………」
「花村に怒られるな。しかも美穂と一緒なんて、疑われるかな?」
目元を緩め、悪戯っぽく笑う。
「……え、あー、それは絶対にヤダ」
数拍遅れて答えた。見惚れていたなんて口が裂けても言えない。思わず目を逸らすと、広瀬は寂しそうに微笑した。
「絶対ヤダとか傷つくからやめて。俺も男なんだけどぉ?」
――男。
そう。広瀬は男。
花火が打ち上がる。花火の鮮やかな色と広瀬の微笑みが暗がりに綺麗に映えた。
少しぐらい、いいか。
わたしはくすりと笑って、彼を呼んだ。
「駿太郎」
「はっ? えっ?」
素っ頓狂な声を上げて首を回す広瀬。今の言葉はそんなに驚くことだったのか、中学の時と同じように普通に呼んだだけなのに。
まあ、どうでもいい。
そっと広瀬に半歩寄ると、広瀬はびくりと肩を震わす。
「な、な、なんだよ……」
「あんたと一緒に観るのも悪くないなって思ったの」
「っ! おまえ……」
なんかふらふらしているけど、大丈夫か。こいつ。祭りの熱気にやられたとか……?
夜空に咲く花は力強い輝きを放ち、ゆっくりと消えていく。
美しく、だけど切なく感じる花火。それも花火の醍醐味かもしれない。
そんなことを考えながら観ていると、不意に肩が重くなった。目を寄越すと広瀬がやんわりと自分の肩をわたしに摺り寄らせていた。
「ちょ、重い……」
「ちょっとだけでいいからさ……美穂」
「だから呼ぶな。駿太郎」
「お前も呼んでんじゃん」
「あんたが呼べって言ったんでしょ」
「覚えてない」
「あんたね……」
くすくす笑う彼を見ると、気が削がれる。どうでもよくなってきた。
まぁ、嫌な思いはしないので良しとしよう。
ふたり一緒になって空を見上げる。
ふたりで見る花火は初めてで、すごくきれいだった。
Fin.




