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空に近い都市
9/16

婚約者と妹 01

 病院の待合室で、ただぼんやりと過ごしていた。


 医師の短い言葉によって、あまりにも呆気なく、私の好きな人はこの世には存在しないものになってしまった。


 まったく実感が湧かなくて、『最後にひと目でも会いたい』と訴えれば、『見ないほうが良い』と応えられる。



 左手の薬指には、遂先日彼から贈られた指輪が小さな光を放っていた。


 あんなに大きな図体のヨハンが、ジュエリーショップなんて小洒落た店にいたことを想像するだけでひどく滑稽で、この数日間……私は。この指輪を眺めては、一人声を殺して笑ってしまっていたと言うのに。


 たった数日間だけの、幸せ過ぎる記憶は泡沫のように音もなく弾けて消失した。まるで現実感が伴わず、気持ちが追い付いて来ない。

 今すぐにでも、『嘘に決まってるだろ?』とか言いながら、いつものふざけた態度で現れたりしそうなものを。そうしたら、特別重いビンタを食らわせて一週間は口を効いてやらないつもりでいるのに。



 不幸中の幸いかもしれませんが


 続けて言葉が紡がれた。指輪から、初老の医師のほうへと顔を上げる。


 共に被害に合われた彼の妹さんは、一命を取り留めました。無事とまではいきませんでしたが。意識はあります。


 私を気遣ってくれるような、丁寧さと真摯さを感じさせる声だった。きっと彼は、誠実な医師として多くの患者から愛されているのだろう。


 会っていかれますか。


 私はその問い掛けに、ほぼなにも考えずに首を縦に振った。





 ヨハンと私は付き合い出して五年ほど経つのに……思えば、彼の妹には一度も会ったことは無かった。


 勿論存在は知っていたが。いつもヨハンが彼女の話をするのを聞いていたから。



 木で出来た引き戸を開けると、簡素な病室のベッドに誰かが上半身を起こして座っていた。


 誰かが…ではない。これはヨハンの妹だ。病室の前に下げられてたプレートだって、彼と同じ名字。


 窓の外の広い空を眺めていた彼女がこちらを振り向いた。筋肉質だったヨハンに比べて幾分かほっそりとしているが、身体を取り巻く雰囲気や…そして、目と髪の色はヨハンと同じものだった。



「………こんにちは。」


 小さな小さな声が、彼女の口から発せられる。あまりにも頼りない声。見捨てられた犬の鳴き声に似ていた。


 それを聞いたとき、私はようやくではあるが漠然と。ヨハンは本当に死んでしまったのだなあ…と、実感した。



 婚約者と妹‥空に近い都市



「起きなさい」



 大変呆れた様子でカタリナがヨゼファに声をかける。ヨゼファは固い床の上で丸まりながら何かぐにゃぐにゃと寝言を言っていたが、やがて非常に緩慢な動作で上半身のみ起き上げる。


「ね…寝てないよ…」

「………。いいえ、ぐっすり寝てたわよ。」

「違う…寝てるフリだってば、いった……」


 ヨゼファの無防備な額に容赦のないカタリナのしっぺが飛んでいった。ヨゼファは堪らない、という様子で眉をひそめる。


「……… 。毎度言ってるでしょう。寝るんならちゃんとベッドで寝なさい。」

「だから寝てないって言ってるのに…」

「はいはい寝てない寝てない。」

「そうそう寝てない寝てないんだよ、おっと……」


 カタリナが、未だ寝言のようなことを呟くヨゼファの両掌を掴んで一気に立たせるので、バランスを崩した彼女は思わずよろめく。

 しかし…そのままカタリナに寄っかかるようにして立ち止まる。カタリナは容赦無くヨゼファを引き剥がした。ここで甘やかすと後々面倒であることをカタリナは充分に承知している。


「……朝ご飯作るから、あんたも食べなさい。」

「うん食べる……。」


 なにか、手伝うよ……。そう言って、ヨゼファはごしごしと目を擦ってから、くあ、と気の無い欠伸をした。そうして床に落ちてしまっていた、愛用の色眼鏡を取り上げてかける。弱視の彼女の生活にはそれが不可欠だった。


 カタリナはまたひとつ溜め息をしたあと、「手伝いは良いから顔洗ってきなさい。」と言ってヨゼファのひょろ長い身体を部屋から追い出す。

 あちらこちらにふらふらとして非常に危なっかしい足取りではあったが、ヨゼファはどうにか洗面所へと向かって行った。



「………………。」


 一人になった室内を見回して、カタリナはちょっと肩をすくめる。


(オイルの匂い……)


 独特の乾性油の匂いが鼻にきて、窓を開けた。街の隅々に行き渡っていた爽やかな朝の空気が、開け放したそこから流れ込む。

 

 …………いつもの、朝。日常。けれども圧倒的になにかが足りない。



(もう、二年経つのかしら。)


 カタリナは、そっと視線を窓から部屋の中へと戻す。ヨゼファが描きかけていた大きな油絵を眺めて、目を細めた。


 …………ヨゼファは二年前の事故の影響で、目を病んでしまった。脳のどこかを傷付けてしまったのか、精神的な問題なのかは定かではないが………とにかく、彼女はもう色彩を感覚することはできない。

 けれどヨゼファは、まだ絵を描き続けている。彼女にとって最も大切な器官である瞳が壊れてしまっても。きっと、ヨゼファにはこれしか無いのだろう。自分に……ヨハンしかいなかったように。


 カタリナは画布の前に立って、そっとその表面を触る。


(…………あ。)


 乾き切っていなかった為に、指先に絵具がついてしまった。………青い、紫色…?いや、水色とも取れる。

 銀色のチューブから出てくる原色の絵具とはまるで違う。パレットの上でヨゼファの手によって混食されると、どんな色彩も柔らかくて、透明な色になるのが不思議だった。


 再び、カタリナはヨゼファの絵を眺めた。……いつものように、彼女の絵は様々な風景画が多くを占めている。

 当たり前だが目を病んでからは、ヨゼファの絵の色彩はぐっと少なくなってしまった。けれど、いつも。空の青だけは鮮やかに……あの、事故が起こる前よりも、もっと綺麗で輝くような色味に……。



『俺の妹の絵はすごいんだ。』


 ヨゼファの絵を見る度に、カタリナの頭の中にヨハンの声が蘇る。


『俺、絵とか難しくてよく分かんないけど、ヨゼファの絵はとにかく…すっごい綺麗だって感じてさ。そういう、素直に心に訴えかけてくれるもんが一番すげえと……なんだか思うんだよなあ。』


 ………ヨハンは、本当に妹のヨゼファを大切にしていた。よく、彼女の話をしてくれた。それにほんの少しの焼きもちを感じなかったと言えば……嘘になる。


 

 後ろからそっと抱き締められて、カタリナは肩を揺らす。………一瞬、本当に驚いた。ヨハンかと思ったのだ。けれど、彼よりずっと頼りなくか細い腕が自身の肩に回っているのを見て、緩やかに思考が現実に戻ってくる。



「カタリナ、顔洗ってきたよ。」

「そう……。歯も磨いた?」

「勿論だよ。」

 

 ヨゼファはそう言いながら、褒めて、とでも言うように上機嫌にカタリナの身体を後ろから強く抱き締める。……どこまで生活能力が乏しいのかと、カタリナは頭が痛くなる気持ちがした。


「ほら…離してくれないと、ご飯の準備が出来ないわよ。」

「もう少し…。カタリナ良い匂いがするなあ……」

「そう言うあんたは臭いのよ。オイルが。午後にお店の手伝いに入ってもらうんだから、シャワー浴びときなさいよ。」

「うん……分かった。」

 

 ヨゼファはカタリナに比べて大分背が高かったので、カタリナは油絵の具の匂いがするその身体にすっぽりと覆われる様子になっていた。……大きな図体で、ひどい甘ったれ。兄妹そっくりで手がかかる……。とカタリナはうんざりしたような、少し切ないような気持ちになった。





「ヨゼファ、それは違うわ。苺のはこっち。」

 

 オレンジ色のマーマレードが入った瓶を手に取ったヨゼファに、カタリナが声をかける。

 ヨゼファは、あ……と小さく呟いた後に、「ごめん」と呟いてからカタリナから苺ジャムの瓶を受け取る。


「まあ…偶にはマーマレードも悪くはないのかもしれないけどね。」

「ううーん……。でも、あれ。ちょっと苦いし……」


 ヨゼファは恥ずかしそうにしながら、瓶のふたを捻って開く。


「あれが大人の味なのよ」とカタリナが呟けば、ヨゼファは「それなら私ずっと子どもで良いよ……」と零した。


「なにが子どもよ。あんただってあと少ししたら20才で立派な大人でしょ。」

「う……うん。はい。」

「そろそろ私が面倒見なくても、一人で生活できるようになってよね。」

「………………。」


 ………カタリナは軽い冗談で言ったのだが、ヨゼファの顔はみるみると不安そうな色に染まっていく。


 カタリナは慌てて「嘘よ、嘘。」と付け加える。しかしヨゼファは未だに不安そうに「本当……?」と尋ねてくる。


「馬鹿なこと言ってないでさくさく食べなさい。お店の開くまであまり時間ないんだから。」

「ん、んー……」


 珈琲を飲みながら、彼女はヨゼファの鼻をつまんでやる。情けない声がその唇から漏れるので、思わずカタリナは笑ってしまった。

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