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余白  作者:
白星
8/16

妹と娘 06

「………十子ちゃん!!!」


 和代は、大きな声で叫んだ。悲鳴にも似た響きを持って叫んだ。ざわめく駅の構内でも、その声がよく通るほどだった。


「和代さん。」


 対する十子はいつもの落ち着き払った口調で応える。……微笑んですらいた。和代はほとんど走って彼女の傍へと辿り着く。勢い余ってその両腕を掴んだ。


「………なんで。」


 和代には、それしか言えなかった。続ける言葉が出て来ないので、しばし二人は無言で見つめ合う。

 和代を見上げてくる十子は、濃紺の制服に身を包んでいた。……初めて会ったときと同じ色。違うのは髪の色とタイの色。……タイだけは、黒かった。唯一彼女が絹枝から与えられた、そのタイだけは……


「十子ちゃん……。」


 やはり話すことが見当たらず、和代はほとんど譫言のように呟いた。

 ………制服の色が違うだけで、とんでもない距離が二人の間に隔たってしまったよう見える。けれども、十子にはやはり五雲町の濃紺色が一番似合うように思えた。なんだか認めたくはないけれど。彼女の髪色が変わった今、その印象は尚更強く和代に訴えかけてきた。


「………十子ちゃん、髪の毛……まさか、本当に。」


 和代の愕然とした言葉を聞きながらも、十子は駅の天井に下げられた巨大な時計を眺めている。……列車の発車時刻を見ているのか。「もう…時間があまりないわね。」との呟きに、和代は首を左右に振る。

 しかし十子は一歩後ろに下がって和代の掌から逃れた。…もう、止められないのか、と和代は思う。どんなに自分が説得しても、十子はここから去ってしまうのだろう。


「十子ちゃん…貴方。どこへ行くの。」


 駅は人と人、その汗の匂いが充満していた。暑さが一入応えるので、和代の額からも玉のような汗が滴る。


「分からない。……でも、寒いところに行くわ。」


 十子は汗ひとつかいていなかった。絵画から抜け出してきた架空の人物のように、ただそこに立っている。

 和代はそれでも懸命に、汗を拭ってはその蜃気楼に言葉を投げ掛け続けた。


「いつ帰るの」

「帰らないわ」

「そ、それなら私も一緒に行くわよ……!」


 しかし、十子はゆっくりと首を横に振った。どこからか、駅員が振り動かすカンテラの火の尾をひくような間のびした声で発車を知らせていた。それと共にホームが色めきだつ。今日も毎日と変わらず、黒い列車は二百名ほどの客と数えきれない通信、幾多の悲しい物語を乗せて走り去るらしい。プラットホームから響く人々の声は畝るように十子と和代の耳へと響いた。

 ………世界から隔絶された、静謐な学園にいた女生徒二人はその音と情報の多さに目眩を覚えそうになる。

 十子が、今一度大きな時計を見上げた。時刻を確認する。後、当たり前のように「さようなら。」と和代に向かって別れを述べる。

 和代は滴っていく汗を再び拭った。…汗か、涙か、もう顔面を流れる液体の区別はつかなかった。


「泣かないで。」


 十子の穏やかな声が聞こえてくる。「無理よ」とようやく返した。


「そう……でも、いつかどこかでもう一度貴方を見たとき…。そのときは笑ってくれてると、いいわ…」


 呟くような声。和代は汗と涙と鼻水とで汚れきってしまった顔をあげて、今一度友人の姿を認めようとした。……けれど、適わなかった。駅の雑踏の中、もう十子の姿はどこにも見当たらなかった。





 十子は一人、後部窓際の座席へと腰を落ち着けていた。……発車のとき。全ての窓の傍らには、旅立つ人の見送りが寄り添うように立って列車内へと声をかけていた。十子の隣の窓だけが、切り取られていたように静かだった。誰も、彼女を送るものはいない。彼女もそれを望んでいなかった。


 やがて列車が出発し、駅から遠ざかる。ようやく別れを惜しむ声も止んで辺りは静かになる。


 北へと向かう車両にしばらくの間揺られていると、徐々に空が青ずんでいく気持ちがした。


(昼なのに、不思議。)


 十子は、ただ外の景色を眺めていた。なにも考えず、なにもしなかった。長い時間が過ぎた。いくつもの山の下をくぐり抜け、黒い針葉樹が天に向かって伸びるのを眺めた。空の色はどんどんと深くなる。景色の色味も失せてきた。ふと、ひとつ小さな光が目に入る。星だ。星が瞬いたらしい。夜がやってきたのだ。



 ―――――いつくしみ深き 友なるイエスは かわらぬ愛もて 導きたもう



 十子は、幼い頃から繰り返し親しんだ聖歌を口ずさむ。友人も家族も失った十子の心に寄り添うものは今、それだけだった。

 吐く息が窓を曇らすようになる。山の頭は白い雪を被り始めた。星の光も、今までにいたところにはない冴えた輝きを持っている。知らない場所に一人で向かっているのだ、ということを十子は改めて実感した。



 ―――――世の友われらを 棄て去るときも 祈りにこたえて 労りたまわん



 ただ、傍にいて欲しい。十子は心からそう思った。人間にはなによりそれが必要なのだと、心から思った。

 景色はどんどんと青く冷たく染まっていく。桃色の、かつて神様と見たあの……鮮やかな景色などどこにも無かった。けれど深い青色の空中で、星は恐ろしいほどに美しかった。美しかった……。





 絹枝は一人で、聖堂の長椅子に腰掛けていた。時刻は夜も更けた、夜の夜の夜。校舎も寄宿舎もしんとして、目覚めて活動しているのは絹枝と夜行性の動物のみに違いがなかった。


 絹枝は真っ直ぐに内陣を見つめていた。木彫りの大きな十字架に、キリストが架けられて辛苦の表情を浮かべている。その横の像は聖母マリアである。祈りを捧げている姿が同じく木彫で象られていた。……それが夜なのに、はっきりと見えた。星の明かりがステンドグラスを通して悲しい母子の姿を内陣に浮かび上がらせているのだ。


(Pietà)


 絹枝は胸の内で呟く。

 哀れみ、悲しみなどを表すイタリアの言葉だ。聖母子像のうち、十字架の上で息絶え降ろされたキリストを抱く母マリアの、悲しみを現した彫刻や絵画の作品群を差している。

 ……悲しみの、後。やがてイエスは復活し、マリアや弟子たちに見守られて天に昇る。後にマリア自身も息子と同じ場所へと昇天させられた。めでたし、聖寵充満てるマリア。 無原罪の。被昇天なさった。天主の御母聖マリア。


 教師として、女生徒たちには聖母マリアを手本にして、彼女のような女性になりなさいと教えていた。彼女の御絵を幾度教えの材料として使ってきただろうか。希望のある未来を示すあけぼのを背景に、伏せられた読みかけの本は勤勉な姿勢を示し、手にする糸紡ぎ機に表される労働の貴さ、伏せられた瞳は祈りの瞬間を切り取ったもの。……けれど、自分こそが祝福され愛されたマリアから最も遠い存在だと言うことは分かっていた。この長い年月、嘘ばかりを教えてきたのだ。


「罪人なるわれらのために、 今も臨終の時も祈り給え……」


 絹枝の声は祈りと言うには余りも弱々しかった。……そうして絹枝は、自身が心から祈ったことなど一度も無いことに思い当たる。こんな人間は、きっと神様にも見放されているに違いない。


(私、一人になったのね。)


 今更、その実感が彼女の胸を占めた。…自らが自らをそうしたのだ。今更寂しいなどと、なんて救いようの無い。

 絹枝はそっと両の手を組み合わせた。辺りは物凄い静けさだった。動くものもない。星の光だけが色ガラスを通って様々な色に染まり、聖堂の暗い空気を色々に染めていた。


 ふ、と絹枝は顔を上げて隣を見る。何者かが鮮やかな光に輪郭をなぞられて、そこにいた。

 彼は絹枝のほうを見ようとはせず、先程の彼女と同じように内陣のキリストとマリアをじっと見つめている。痩せ細った老人の姿、頭頂部は綺麗に禿げており、側頭に薄く白い毛を残すのみだった。枯茶のツイードのジャケットの肘が破れてよれよれのシャツが除いてしまっているのがみすぼらしい。


 言葉を失う絹枝を気にせず、彼は口を開いた。


「そうかな。」


 よく通る声だった。そうしてもう一度唇を開き、「本当にそうかな。」と。「本当に君は一人かな。」と三度尋ねるように言う。

 ようやく、老人は絹枝のほうを見た。べっ甲縁の眼鏡の中の薄い瞼。その奥の小さな瞳が、じっと絹枝を覗き込んでいた。


「少なくとも、僕はずっと傍にいたよ。」


 絹枝は息を呑んだ。瞬きを数回、それから恐る恐る老人に問い掛ける。


「貴方……。誰ですか。」


 老人は何も答えなかった。けれども、ずっと絹枝のことを見ていた。絹枝も、彼のことを見ていた。そこは静かだった。まったくの、無音だった。

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