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余白  作者:
白星
7/16

妹と娘 05

 十子は、ただ一人でどんどんと青ずんでいく風景の中を歩んでいた。……夜の気配が、むせ返るように彼女へと迫ってくる。

 ………歩くのは十子の趣味の一貫だった。広大な学び舎の中を歩いていると、未だに知らない風景に出くわすのが新鮮で、よく彼女は一人で散歩をした。しかし、今はそれを楽しむ余裕もあまり無いような。


(私、少し調子に乗っていたんだわ。)


 黒々とした影をこちらに投げ掛けてくるセコイヤを見上げて、十子は胸の内でそっと零した。


(嫌われていないと…てっきり愛されているものだと、勘違いしてしまっていたのだわ。)


 セコイヤの薄い歯の隙間から、群青色の夜空が見える。もうすっかり美しい星色に浸されていた。


(寂しい)


 十子はまたしても唐突にそう感じる。ここ最近で一番激しいものだった。白い涙が頬を伝う。耐え難いほどの胸の痛みを感じて、彼女はその場に踞った。


(でも、そういうものなんだわ。)


 空の星はいよいよ高くなり、輝きを増す。十子の胸の淵に渦巻く黒い悲しさの嵐と反比例して、泰然として二千年前から変わらずに美しい。


(生きていくって、とっても寂しいものなんだわ。)


 白鳥座のベガは一際大きく輝くらしい。けれど十子はずっと下を向いたまま、そこに踞って長い間動かずにいた。長い間………





 早朝、絹枝の部屋の扉を何者かがノックした。本日の仕事内容を確認していた絹枝は、そのままの姿勢で「どうぞ」とだけ言う。


「朝早く失礼します。五百木和代です。」


 ………言い終わらないうちに、焦った様子の女生徒が入ってくる。息を切らせていた。言葉尻にも気の逸りが滲む。……何事かと、ようやく絹枝はその方を向いた。


「あの…先生。晶先生、十子ちゃ…いえっ鳴水さんの行方をご存知ないですか。」


 和代は非常に心配そうな面持ちでそう尋ねた。…背が高い少女ね、と絹枝は場違いに呑気なことを考える。傍まで来られると、よりそれは顕著になる。絹枝はすっかり和代に見下ろされてしまっていた。


「急にすみません。でも、昨晩から鳴水さんが部屋に帰らないんです。」


 和代は目尻に少しの涙を滲ませて訴えてくる。心の底から心配だ、という様子だ。


「こんなことは今までなくて……どこを、探しても。」


 絹枝はひとつ深い溜め息を吐いた。そうして和代の双肩に掌を置いて、落ち着かせようと努める。


「……もう少し、詳しく。話を。」


 しかしそう零した絹代の声も、微かに震えてしまっていた。





 十子は、入り組んだ裏山のほうで発見された。衰弱した様子で少しの発熱もあるらしいが、無事に発見されたという知らせに和代を含め皆安心をした。

 しかし一方で、十子を発見した絹枝、そうして速やかに運ばれた医務室の校医、その他彼女の姿を目の当たりにした教師たちの心中は穏やかではない。


 見た瞬間、言葉を失わざるを得なかった。


 十子の黒々とした頭髪が、真逆の色にすっかり変化していたのだ。たったの一晩で。


 星の色に染め抜かれたような純粋な白色に。志織が亡くなったときと、まったく同じ髪の色に。





「薄氷病だ」



 誰が見ても、それは明らかだった。医者の診断もそれに変わりはなかった。

 ―――その病の原因は遺伝に依存する言われているが、中には伝染したという報告例もある。繰り返し議論は重ねられているにも関わらず、決定的なことはなにも分かっていないのだ。治療の方法すらまるでなく、発病すれば数年で死に至る。紛うことのない難病だった。



 十子が眠る医務室のベッドの傍ら、椅子に腰掛け、絹枝は姪の青白い面持ちを眺めていた。瞼は固く閉じられている。その睫毛の一本一本すらも綺麗に白く染まっていた。………もう少しで、透き通ってしまいそうな色だ。絹枝はその色を鮮烈に覚えていた。姉と……志織と、同じその色を………


 りん。


 どこかで風鈴が鳴っている。医務室の窓辺に吊るされているのか。


 絹枝は十子の掌を握った。その温度は低く、生温い空気を抱く季節の中でただひとつ、冴えた冷たさを齎してくる。


 りん。


 また風鈴が鳴る。絹枝は泣いてしまいたかった。けれどどうしてもそれができなくて、ただただ、苦しく浅い呼吸を繰り返す。





 ゆっくりと、十子は目を開いた。……白い天井。無機質な色から、ここは医務室なのかな、と考える。視線をそっと横に向けると、見知った青白い顔が目に入る。「先生…」と弱く呟く彼女の声は掠れていた。


 しばらくそのままでいたが、やがて十子は半身を起こして絹枝と目線の高さを同じにした。教諭は黙ってそれを見ている。

 ………十子に、絹枝から手鏡が渡された。促されるままに少女はそれを覗きこむ。…しばらく、それを見ていた。まじまじと変化した毛色に触れる。真っ白な睫毛に縁取られた瞳の紺黒だけが目立っているのを、不自然に思った。


 十子は、絹枝に手鏡を返した。………ショックというよりも、やはりという気持ちが勝った。なんとなくこんな予感はしていたのかもしれない。


「…………。貴方が、寝ている間に。私はずっと考えていました。」


 手鏡を仕舞った絹枝が改めて十子に向き直り、言葉を紡ぐ。十子はぼんやりとそれを聞いていた。


「貴方が……このまま、目を覚まさなければ良いと。」


 りん。


 一際高く、風鈴の音がした。十子は蒸し暑い空気を肌で感じる。……もうすぐ本格的に夏になるらしい。今年の夏は、きっと暑いだろう。


「もう、私は私を解放してやりたかった。だから…貴方に、優しくしてみたわ。愛することができると思っていたの。それだけは嘘じゃない……」


 りん。りん。


 絹枝の声の合間で、風鈴は清く音を紡ぐ。蝉の声も遠く、けれど透明な日差しが季節の移り変わりだけを残酷に告げていく。

 十子はじっと絹枝を見つめていた。……そして初めて、叔母が感情を揺らがせているのを感じる。

 絹枝は思いの堰を切るらしい。途切れ途切れに、けれど続けて、譫言のように話続ける。


「姉に対する下らない感情なんか乗り越えられると思っていたわ。最後まで志織に素直になれなかったことだってとても後悔しているの。」


 十子は、ふと自分の掌が絹枝に握られていることに気が付いた。熱い掌だな、と思う。いや、違う。きっと自分が冷たくなっているのだ。母親の手も、病気になってからはずっと冷たかった。


「でも……駄目だった。……駄目なのよ。」


 絹枝は、両の手で十子の掌を包んだ。(熱い)と十子は再び思う。溶けてしまいそうだ、とも。ひどく堪らなくなって、十子は空いている手で叔母の肩を抱く。その薄い肩は震えていた。


「貴方の髪が、姉さんの最後と同じ色をしているのが…もう耐えられない」


 尚も絹枝の独白に似た言葉は続く。(駄目)と十子は強く思う。(その先を言わないで)と、強く強く。


「身勝手なことを言ってるのは分かっているわ。」


(ああ先生、お願いだから……)


 けれど十子の思いは通じない。絹枝の声はいよいよ振り絞るようになった。


 りん。


 風鈴だけは、いつもと変わらない綺麗な音色を空気に漂わせる。


「本当にごめんなさい。」


 まるで泣き声のように思った。泣けない絹枝の代わりに、風鈴が悲しそうに鳴り続ける。

 もう、止めることはできないのだろう、と十子は不思議と穏やかな心持ちになった。………そうして、絹枝の決断を待つ。


「私は………。」


 そうして絹枝は言葉にする。とてつもなく悲しい、自らの胸の内を。



「貴方を、愛せない。」


 

 風鈴の音が、止んだ。無風になったらしい。


 いよいよ日光はきらめき、樹々の緑たちはその季節を謳歌する。校舎には木の影が踊って、桃色の壁石は甘い色に輝いているのだろう。

 遠くからは歌声が響いてきた。………もう、朝礼のミサの時間なのか。十子はぼんやりと考える。



 ―――――いつくしみ深き 友なるイエスは われらの弱きを 知りて憐れむ



 白星の女生徒が閉祭を歌っている。しみじみと二人で聞き入っていると、絹枝の瞳からひとつ涙が零れた。十子は叔母の手を握ったままで、どうか泣かないで。と優しく言った。心から言った。



 ―――――悩み悲しみに 沈めるときも 祈りにこたえて 慰さめたまわん



 澄んだ歌声を背景に、絹枝がやっとの思いで一言を零した。

 苦しそうなその言葉に、ただ十子は頷く。……十子にはもう、分かっていた。この美しい叔母がどれだけ苦しんだかを分かっていた。だからどうか泣かないでと繰り返し言って、そっと笑った。

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