妹と娘 04
軒先に吊らされた風鈴が、りん、と高い音で鳴った。
夜風に煽られるそれを、病床の志織はたったひとりでぼんやりと眺めている。
(静か)
彼女のいる大きな家には、今現在志織と娘の十子だけが暮らしていた。十子が眠ってしまうと、二人で暮らすには広過ぎる屋敷の隅々から、静けさと寂しさがない交ぜになって志織の傍へと運ばれてくる。
りん。とまた風鈴の音が、ひとつ。
「ねえ」
志織は庭の茂み、星空を切り取った水琴窟のほうへと声をかける。色濃い闇のなか、なにかが淡い息遣いをした。
「いつまでそこにいるの。あがって、いらっしゃいよ。」
優しく声をかけると、なにか、は貌をゆっくり明るいほうへと現す。輪郭が銀色の光に切り取られた、青白い顔の女性。久々に見る妹の顔は随分と強張っていた。
(いつぶりかしら)
絹枝の姿を認めて、志織はそっと微笑む。胸の内は穏やかで、不思議と懐かしい気持ちでいっぱいだった。
*
絹枝の目から見た志織は明らかに衰弱しきっていた。
部屋の中にあがっても、絹枝はずっと黙ったままでいる。………言いたいことは山程あったのに、なにを話せばいいのか…弱り切った姉を前にして、もうよく分からなくなっていた。
「姉さん。」
ようやく、重々しくも声を発した。陰鬱な空気を纏った絹枝とは対照的に、志織は柔らかく笑う。………弱り果てた身体の状態とはかけ離れた、優しい表情だった。
「貴方、死ぬの。」
絹枝が吐き出すように尋ねれば、彼女は「ええ、死ぬわ。」と当たり前のように返す。
「最後まで無責任な人。」
自分と同じ色をした姉の瞳を眺めながら、絹枝は淡々と続けた。
「姉さんが考え無しにあの男と駆け落ちしてから、私たち家族が、私が、どれだけ迷惑したか分かる。」
「そうね………。ごめんなさい。」
「謝らないでよ。」
「………………。」
責め苛み、突き放す絹枝の物言いに志織は口を噤んだ。そうして長い時間二人で沈黙していた。
屋敷は外界から隔絶されたような静けさである。虫の音すら遠く、人の気配はどこにもない。
「罰なんだわ。」
ふと、志織の口から言葉が漏れる。絹枝は相変わらず黙ってそれを聞いていた。
志織は痩せ細った腕を伸ばして、妹へ触れようとする。……身体すら満足に動かないらしい。非常に覚束ない動きで、身体を起こす。絹枝はそれを手伝ってやろうとはしなかった。ただ、見ていた。
「この様よ」
息も絶え絶えに呟き、ようやく志織は震える指先で絹枝の掌を掴む。お互い、なんて冷たい手なのだろうと相手を思った。
「でも…それでも私の人生は、幸せだったんだわ。」
絹枝は苛立っていた。不治の病に犯されながらもどこか余裕を感じさせる姉の態度に。死と隣り合わせながら、変わらず美しい彼女の顔に。……縋るように握られたこの手を、無情に振り払うことができたなら。けれど絹枝には、それが出来なかった。
「愛されることを…知れたもの。」
「愛なんて、なににもならないわよ。」
「そんなことないわ」
「じゃあその愛で姉さんの病気が治るの。死んだあの男が生き返るとでも言うの。」
「意地悪ね。……私たちの母校…白星の、先生とは信じられないわ。」
私たちの母校。その言葉に、絹枝は且つて志織と過ごした白星での生活を思い出した。姉に憧れて、どこでもついていった日々。本当に仲が良い姉妹と言われることが何よりも誇らしかった。桃色の大理石の校舎、長く続く赤茶けた煉瓦の渡り廊下。鉄の扉、廊下の床モザイク。寄宿舎の大き過ぎる二段ベッドと苔色の絨毯。抜け出して眺めたあの星空を。
………そこに、まだ私はいる。思い出に捕われたまま。姉さんがいない白星に、私だけがいる。私だけが年を取って、そこにいる。
「………私たちの学校の教えに、反発的だったのは姉さんのほうよ。」
「若かったのよ。多感な少女にとって、あそこは少し窮屈だわ。」
「それが白星の美徳よ。」
「………まるで先生みたいな口ぶりね。」
いえ、もう先生なんだものね。と志織はおかしそうに笑った。絹枝は笑わなかった。ちっともおかしいとは思わなかった。
「愛されて、愛されるべき子どもを残せて。本当に幸せな人生だったわ…。」
「………そう。身勝手な幸せね。」
「身勝手……。そうね、私は不器用だから、愛することだけが上手にできなかった。……心残りだわ。」
それは誰に対しての言葉か。いなくなった夫へか。今現在眠りの淵に落ち込んでいる娘へか。それとも。
(いえ、これは都合の良過ぎる考えだわ。)
絹枝は唇を閉ざした。志織はそのままで、首を動かして風鈴のほう、開け放たれた窓を眺める。「今夜は星が綺麗ね」と弱々しく零して。絹枝の掌を握った指先の力だけが強かった。
………もっと強くなるらしい。絹枝は顔をしかめる。少し、痛い。
「絹枝ちゃん。今更こんなこと、遅過ぎると思うけれど」
ひゅうと息を吸い込んでから、志織がまた喋り出す。パキ、と不快な音がした。力がこもりにこもった彼女の指先からだ。絹枝はハッとする。
……じき、志織の身体は薄氷のように割れて戻らなくなるだろう。それが彼女の病、薄氷病の末期症状だ。肉体の剥離が始まれば死は目前である。明らかにもう、志織は。
「私、貴方を愛していたわ」
けれど構わずに志織は続ける。絹枝は堪らなくなって首を横に振った。
「でも、貴方は私を愛さなくていい。」
この手を離して欲しいと思った。もうやめて欲しいと思った。このまま、今までと同じように自分の胸のうちを支配し続けるのは。
けれど、絹枝は握られた手を自ら解くことはやはり出来なかった。どうしても……
「その代わりに、愛してあげて欲しいの。」
りん、と風鈴が青い夜風に煽られて鳴る。りん、りん、と続けて鳴る。
それが、絹枝が聞いた志織の最後の言葉になった。
そうして、最初の言葉だったような。姉妹が初めて心を通わした、そんな言葉だったような。
(最後までずるい人)
回想を終えた絹枝は唇を噛む。
――――私より恵まれて、私より愛されて、私より幸せな人。私貴方が大嫌いだったわ。今だってきっと、そう。
*
少しの緊張と共に、十子はある部屋の前に立っていた。
ひとつ、深呼吸。後、こんこんと二回のノック。………部屋の中は静まり返っているらしい。沈黙。静寂。自分の弱い鼓動ばかりが規則正しく聞こえる。
その扉の向かいには、緩やかに夕刻に映りつつある空を切り取った窓があった。黒いドアと暖色を帯びる光の窓に挟まれた十子の顔に、黒い影が色濃く差している。
やがて部屋の内側からは「どうぞ」という抑揚の無い声が返ってきた。十子の心音は一気に跳ね上がる。……しかしこうしていても仕方がないのは分かり切っていたので、ノブに手をかけてそっと扉を開く。緩んだ蝶番が苦しそうな音を立て、その人がいる世界への道を開いていった。
………部屋の中は、あの夜に外から見た景色と同じだった。質素な壁紙に、使い古された机。時は未だ夕刻の為、その上の明かりに火は灯されていなかったが。
机に向かっている絹枝教諭は、縁の無い眼鏡をかけて何かの書類を眺めている。十子の姿を認めると、長い首を動かして顔を向けてきた。やや青みがかった黒い瞳がその中に浮かんでいる。十子と同じものだ。そして十子の母とも。
「…………。なにか。」
十子が呆けて固まっていたので、絹枝が促すように声をかけてくる。
ハッとした十子は居住まいを正して、「あ、あの。」とやっとの思いで声を発した。
「タイを……。その、どうも、ありがとうございました。」
そっと、黒いタイを触りながら十子は言う。絹枝は「ああ…」と思い出したように声を漏らし、僅かに目を細めた。
「………。どういたしまして。」
それだけ呟いて、また彼女は口を閉ざしてしまった。………会話が続く気配はない。十子はなんとも言えない居心地の悪さを感じて息をひとつ吐いた。
「わ、私はとても嬉しかったです。」
「それは…良かったわ。」
「これは、もしかして先生が学生時代に使っていたもの…だったり?」
「さあ……どうだったかしら。よく覚えていないわ。」
「…………そう、ですか。」
…………十子は、絹枝ともっと仲良くなりたかった。しかし彼女はそうさせてはくれないらしい。…今日は、もう諦めようかと思った。けれど、十子はいつまで経ってもこのままでいるのが嫌だった。母と同じように…好きな人の心が分からずに、いたずらに別れだけ迎えてしまうのは、もう。
「あの、晶先生。」
呼びかけに、絹枝は視線だけで応えた。十子はひとつ小さな深呼吸をして言葉を続ける。
「………もうすぐ、夏休みですね。」
「そうね。」
「ここでは、夏休みに入る前日に…前夜祭があると聞きました。」
「前夜祭ではなく、黙想会ね。決して遊ぶためにある行事ではないわ。」
「そ、うでしたか。申し訳ありません……。でも、その日は私たちも遅くまで起きていて良いんですよね。」
「昼と変わりなく、きちんと規則を守って頂ける人に限りますがね。」
「先生も…起きていらっしゃる?」
「ええ、一応。」
「私たちと一緒にですか?」
「監督の義務がありますから。」
「あ、あの!」
そこで十子が一段声を張り上げた。絹枝はとくに驚いた様子も見せず、相変わらず冷たい眼差しでその様を眺めている。
「星を…一緒に見に行きませんか。」
「………星。」
姪からの妙な持ちかけに、絹枝は少し訝しげにする。十子は続けて、「勿論…聖堂での黙想が終った後で構いません。折角遅くまで起きていられるんですから、偶には課外で先生とも話をしてみたくて。」と早口で付け加えた。
(星。)
――――――その間、絹枝の脳裏にあまりにも唐突に、いつかの景色、鮮烈な思い出が蘇る。
(どうして。今まで、忘れていたのに。)
(やっと、貴方との記憶に捕われずに済みそうになったのに。)
「私、これでも星については少し詳しいですよ。この前なんか友達から感心してもらえちゃって。」
(知ってる)
絹枝の胸中の変化に気が付かず、ようやく緊張が溶けてきた十子は無邪気に言葉を紡ぐ。
「私のお母さんが、星を好きだったんです。」
(知っている)
絹枝の瞼の裏に、深い青色の天を指先でなぞりながら、なにかを語る志織の姿が浮かんでくる。
隣の人物に、星のことを話しているのだろう。今まで見たことが無いくらい楽しそうな表情で。
(貴方が星を好きなことを、知っている。)
「……時々、私に話してくれたことを覚えていて。」
けれど、隣にいるのはいつもの人物ではない。昔から傍にいた妹では。絹枝では。私では。
見知らぬ男に寄り添った志織が笑う。その男は誰なの。私よりも貴方を幸せそうに、心から笑わせることができる、その男は。
(私が一番知っている筈だった。)
「先生も、お母さんと星の話をしましたか。」
見ていたくなかった。眩い星空の下で愛を語り合う、美しい二人を。
(何故孤独だったの。)
「そうだ、もしご許可を頂けるなら、そのときに」
男の腕に抱かれる貴方の姿なんて。ずっと一緒にいてくれると言っていたのに。私をひとりにはしないと。
(姉さん、貴方は何故孤独だったの。)
「先生と、お母さんがどんな姉妹だったかも教えて下さい。」
(私がいたのに、何故孤独だったの。)
「良いですよね、先生?――――」
ゆっくりと、絹枝は眼前の少女へと視線を戻す。………生き写しだった。同じ制服を着て、同じ顔をして、同じ瞳で。いなくなっても私を責め苛む。
絹枝はそっと、瞼を下ろす。もう一度開けて、一音ずつ確かめるように、「いいえ。」と述べた。
「………え?」
上機嫌で喋っていた十子は、教諭の返答を不思議そうにする。ぱちぱちと数回瞬きをしてみせるさまを眺めて、絹枝は今再び書類へと視線を落とした。
「申し訳ないけれど……私は星を見に行かないわ。」
そうして淡々と、事務的に述べる。未だ十子は事情を飲み込めていないらしく、些か混乱してしまっているようだった。
「私は貴方と、星を見に行かないわ。」
同じ言葉を、けれど先程より強く絹枝は繰り返した。十子の肩が僅かに震える。
「………黙想会の日は確かに消灯時間が定められていませんが、貴方が白星の生徒であることに変わりはありません。品位を保った行動を期待しています。」
それだけ言って、もう絹枝は口を開くことはなかった。……十子もまた、なにかを言おうとしてはいるが出来ないようである。
………やがて、十子から分かりやすく落胆の心象が伝わってくる。彼女は小さな声で「……失礼しました。」と述べると、とても静かに絹枝の部屋を後にする。
一人残された室内で、絹枝はしばらくなにかを考えていた。やがて、大分陽が落ちてることに気が付き、机上のランプに明かりを灯す。窓の外では薄闇の中一番星がひとつ、針でついたように小さな光を漏らしていた。