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余白  作者:
白星
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妹と娘 04

 軒先に吊らされた風鈴が、りん、と高い音で鳴った。


 夜風に煽られるそれを、病床の志織はたったひとりでぼんやりと眺めている。


(静か)


 彼女のいる大きな家には、今現在志織と娘の十子だけが暮らしていた。十子が眠ってしまうと、二人で暮らすには広過ぎる屋敷の隅々から、静けさと寂しさがない交ぜになって志織の傍へと運ばれてくる。


 りん。とまた風鈴の音が、ひとつ。


「ねえ」


 志織は庭の茂み、星空を切り取った水琴窟のほうへと声をかける。色濃い闇のなか、なにかが淡い息遣いをした。


「いつまでそこにいるの。あがって、いらっしゃいよ。」


 優しく声をかけると、なにか、は貌をゆっくり明るいほうへと現す。輪郭が銀色の光に切り取られた、青白い顔の女性。久々に見る妹の顔は随分と強張っていた。


(いつぶりかしら)


 絹枝の姿を認めて、志織はそっと微笑む。胸の内は穏やかで、不思議と懐かしい気持ちでいっぱいだった。





 絹枝の目から見た志織は明らかに衰弱しきっていた。

 部屋の中にあがっても、絹枝はずっと黙ったままでいる。………言いたいことは山程あったのに、なにを話せばいいのか…弱り切った姉を前にして、もうよく分からなくなっていた。


「姉さん。」


 ようやく、重々しくも声を発した。陰鬱な空気を纏った絹枝とは対照的に、志織は柔らかく笑う。………弱り果てた身体の状態とはかけ離れた、優しい表情だった。


「貴方、死ぬの。」


 絹枝が吐き出すように尋ねれば、彼女は「ええ、死ぬわ。」と当たり前のように返す。


「最後まで無責任な人。」


 自分と同じ色をした姉の瞳を眺めながら、絹枝は淡々と続けた。


「姉さんが考え無しにあの男と駆け落ちしてから、私たち家族が、私が、どれだけ迷惑したか分かる。」

「そうね………。ごめんなさい。」

「謝らないでよ。」

「………………。」


 責め苛み、突き放す絹枝の物言いに志織は口を噤んだ。そうして長い時間二人で沈黙していた。

 屋敷は外界から隔絶されたような静けさである。虫の音すら遠く、人の気配はどこにもない。


「罰なんだわ。」


 ふと、志織の口から言葉が漏れる。絹枝は相変わらず黙ってそれを聞いていた。

 志織は痩せ細った腕を伸ばして、妹へ触れようとする。……身体すら満足に動かないらしい。非常に覚束ない動きで、身体を起こす。絹枝はそれを手伝ってやろうとはしなかった。ただ、見ていた。


「この様よ」


 息も絶え絶えに呟き、ようやく志織は震える指先で絹枝の掌を掴む。お互い、なんて冷たい手なのだろうと相手を思った。


「でも…それでも私の人生は、幸せだったんだわ。」


 絹枝は苛立っていた。不治の病に犯されながらもどこか余裕を感じさせる姉の態度に。死と隣り合わせながら、変わらず美しい彼女の顔に。……縋るように握られたこの手を、無情に振り払うことができたなら。けれど絹枝には、それが出来なかった。


「愛されることを…知れたもの。」

「愛なんて、なににもならないわよ。」

「そんなことないわ」

「じゃあその愛で姉さんの病気が治るの。死んだあの男が生き返るとでも言うの。」

「意地悪ね。……私たちの母校…白星の、先生とは信じられないわ。」


 私たちの母校。その言葉に、絹枝は且つて志織と過ごした白星での生活を思い出した。姉に憧れて、どこでもついていった日々。本当に仲が良い姉妹と言われることが何よりも誇らしかった。桃色の大理石の校舎、長く続く赤茶けた煉瓦の渡り廊下。鉄の扉、廊下の床モザイク。寄宿舎の大き過ぎる二段ベッドと苔色の絨毯。抜け出して眺めたあの星空を。


 ………そこに、まだ私はいる。思い出に捕われたまま。姉さんがいない白星に、私だけがいる。私だけが年を取って、そこにいる。



「………私たちの学校の教えに、反発的だったのは姉さんのほうよ。」

「若かったのよ。多感な少女にとって、あそこは少し窮屈だわ。」

「それが白星の美徳よ。」

「………まるで先生みたいな口ぶりね。」


 いえ、もう先生なんだものね。と志織はおかしそうに笑った。絹枝は笑わなかった。ちっともおかしいとは思わなかった。


「愛されて、愛されるべき子どもを残せて。本当に幸せな人生だったわ…。」

「………そう。身勝手な幸せね。」

「身勝手……。そうね、私は不器用だから、愛することだけが上手にできなかった。……心残りだわ。」


 それは誰に対しての言葉か。いなくなった夫へか。今現在眠りの淵に落ち込んでいる娘へか。それとも。


(いえ、これは都合の良過ぎる考えだわ。)


 絹枝は唇を閉ざした。志織はそのままで、首を動かして風鈴のほう、開け放たれた窓を眺める。「今夜は星が綺麗ね」と弱々しく零して。絹枝の掌を握った指先の力だけが強かった。

 ………もっと強くなるらしい。絹枝は顔をしかめる。少し、痛い。


「絹枝ちゃん。今更こんなこと、遅過ぎると思うけれど」


 ひゅうと息を吸い込んでから、志織がまた喋り出す。パキ、と不快な音がした。力がこもりにこもった彼女の指先からだ。絹枝はハッとする。

 ……じき、志織の身体は薄氷のように割れて戻らなくなるだろう。それが彼女の病、薄氷病の末期症状だ。肉体の剥離が始まれば死は目前である。明らかにもう、志織は。


「私、貴方を愛していたわ」


 けれど構わずに志織は続ける。絹枝は堪らなくなって首を横に振った。


「でも、貴方は私を愛さなくていい。」


 この手を離して欲しいと思った。もうやめて欲しいと思った。このまま、今までと同じように自分の胸のうちを支配し続けるのは。

 けれど、絹枝は握られた手を自ら解くことはやはり出来なかった。どうしても……


「その代わりに、愛してあげて欲しいの。」


 りん、と風鈴が青い夜風に煽られて鳴る。りん、りん、と続けて鳴る。


 それが、絹枝が聞いた志織の最後の言葉になった。


 そうして、最初の言葉だったような。姉妹が初めて心を通わした、そんな言葉だったような。


(最後までずるい人)


 回想を終えた絹枝は唇を噛む。


 ――――私より恵まれて、私より愛されて、私より幸せな人。私貴方が大嫌いだったわ。今だってきっと、そう。





 少しの緊張と共に、十子はある部屋の前に立っていた。

 ひとつ、深呼吸。後、こんこんと二回のノック。………部屋の中は静まり返っているらしい。沈黙。静寂。自分の弱い鼓動ばかりが規則正しく聞こえる。

 その扉の向かいには、緩やかに夕刻に映りつつある空を切り取った窓があった。黒いドアと暖色を帯びる光の窓に挟まれた十子の顔に、黒い影が色濃く差している。


 やがて部屋の内側からは「どうぞ」という抑揚の無い声が返ってきた。十子の心音は一気に跳ね上がる。……しかしこうしていても仕方がないのは分かり切っていたので、ノブに手をかけてそっと扉を開く。緩んだ蝶番が苦しそうな音を立て、その人がいる世界への道を開いていった。


 ………部屋の中は、あの夜に外から見た景色と同じだった。質素な壁紙に、使い古された机。時は未だ夕刻の為、その上の明かりに火は灯されていなかったが。


 机に向かっている絹枝教諭は、縁の無い眼鏡をかけて何かの書類を眺めている。十子の姿を認めると、長い首を動かして顔を向けてきた。やや青みがかった黒い瞳がその中に浮かんでいる。十子と同じものだ。そして十子の母とも。


「…………。なにか。」


 十子が呆けて固まっていたので、絹枝が促すように声をかけてくる。

 ハッとした十子は居住まいを正して、「あ、あの。」とやっとの思いで声を発した。


「タイを……。その、どうも、ありがとうございました。」

 

 そっと、黒いタイを触りながら十子は言う。絹枝は「ああ…」と思い出したように声を漏らし、僅かに目を細めた。


「………。どういたしまして。」


 それだけ呟いて、また彼女は口を閉ざしてしまった。………会話が続く気配はない。十子はなんとも言えない居心地の悪さを感じて息をひとつ吐いた。


「わ、私はとても嬉しかったです。」

「それは…良かったわ。」

「これは、もしかして先生が学生時代に使っていたもの…だったり?」

「さあ……どうだったかしら。よく覚えていないわ。」

「…………そう、ですか。」


 …………十子は、絹枝ともっと仲良くなりたかった。しかし彼女はそうさせてはくれないらしい。…今日は、もう諦めようかと思った。けれど、十子はいつまで経ってもこのままでいるのが嫌だった。母と同じように…好きな人の心が分からずに、いたずらに別れだけ迎えてしまうのは、もう。


「あの、晶先生。」


 呼びかけに、絹枝は視線だけで応えた。十子はひとつ小さな深呼吸をして言葉を続ける。


「………もうすぐ、夏休みですね。」

「そうね。」

「ここでは、夏休みに入る前日に…前夜祭があると聞きました。」

「前夜祭ではなく、黙想会ね。決して遊ぶためにある行事ではないわ。」

「そ、うでしたか。申し訳ありません……。でも、その日は私たちも遅くまで起きていて良いんですよね。」

「昼と変わりなく、きちんと規則を守って頂ける人に限りますがね。」

「先生も…起きていらっしゃる?」

「ええ、一応。」

「私たちと一緒にですか?」

「監督の義務がありますから。」

「あ、あの!」


 そこで十子が一段声を張り上げた。絹枝はとくに驚いた様子も見せず、相変わらず冷たい眼差しでその様を眺めている。


「星を…一緒に見に行きませんか。」

「………星。」


 姪からの妙な持ちかけに、絹枝は少し訝しげにする。十子は続けて、「勿論…聖堂での黙想が終った後で構いません。折角遅くまで起きていられるんですから、偶には課外で先生とも話をしてみたくて。」と早口で付け加えた。


(星。)


 ――――――その間、絹枝の脳裏にあまりにも唐突に、いつかの景色、鮮烈な思い出が蘇る。


(どうして。今まで、忘れていたのに。)

(やっと、貴方との記憶に捕われずに済みそうになったのに。)


「私、これでも星については少し詳しいですよ。この前なんか友達から感心してもらえちゃって。」


(知ってる)


 絹枝の胸中の変化に気が付かず、ようやく緊張が溶けてきた十子は無邪気に言葉を紡ぐ。


「私のお母さんが、星を好きだったんです。」


(知っている)


 絹枝の瞼の裏に、深い青色の天を指先でなぞりながら、なにかを語る志織の姿が浮かんでくる。

 隣の人物に、星のことを話しているのだろう。今まで見たことが無いくらい楽しそうな表情で。


(貴方が星を好きなことを、知っている。)


「……時々、私に話してくれたことを覚えていて。」


 けれど、隣にいるのはいつもの人物ではない。昔から傍にいた妹では。絹枝では。私では。

 見知らぬ男に寄り添った志織が笑う。その男は誰なの。私よりも貴方を幸せそうに、心から笑わせることができる、その男は。


(私が一番知っている筈だった。)


「先生も、お母さんと星の話をしましたか。」


 見ていたくなかった。眩い星空の下で愛を語り合う、美しい二人を。


(何故孤独だったの。)


「そうだ、もしご許可を頂けるなら、そのときに」


 男の腕に抱かれる貴方の姿なんて。ずっと一緒にいてくれると言っていたのに。私をひとりにはしないと。


(姉さん、貴方は何故孤独だったの。)


「先生と、お母さんがどんな姉妹だったかも教えて下さい。」


(私がいたのに、何故孤独だったの。)


「良いですよね、先生?――――」



 ゆっくりと、絹枝は眼前の少女へと視線を戻す。………生き写しだった。同じ制服を着て、同じ顔をして、同じ瞳で。いなくなっても私を責め苛む。


 絹枝はそっと、瞼を下ろす。もう一度開けて、一音ずつ確かめるように、「いいえ。」と述べた。


「………え?」


 上機嫌で喋っていた十子は、教諭の返答を不思議そうにする。ぱちぱちと数回瞬きをしてみせるさまを眺めて、絹枝は今再び書類へと視線を落とした。


「申し訳ないけれど……私は星を見に行かないわ。」


 そうして淡々と、事務的に述べる。未だ十子は事情を飲み込めていないらしく、些か混乱してしまっているようだった。


「私は貴方と、星を見に行かないわ。」

 

 同じ言葉を、けれど先程より強く絹枝は繰り返した。十子の肩が僅かに震える。


「………黙想会の日は確かに消灯時間が定められていませんが、貴方が白星の生徒であることに変わりはありません。品位を保った行動を期待しています。」


 それだけ言って、もう絹枝は口を開くことはなかった。……十子もまた、なにかを言おうとしてはいるが出来ないようである。


 ………やがて、十子から分かりやすく落胆の心象が伝わってくる。彼女は小さな声で「……失礼しました。」と述べると、とても静かに絹枝の部屋を後にする。


 一人残された室内で、絹枝はしばらくなにかを考えていた。やがて、大分陽が落ちてることに気が付き、机上のランプに明かりを灯す。窓の外では薄闇の中一番星がひとつ、針でついたように小さな光を漏らしていた。

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