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余白  作者:
白星
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妹と娘 03

「貴方」



 和代と並んで廊下を歩いていた十子に声がかけられる。………女性にしては低い、その声には覚えがあった。ほんの少しの気持ちの逸りを見透かされないよう、出来るだけ落ち着いた様子で…十子は返事をした。


「はい……。」


 振り返ってみると、思った以上に絹枝との距離は近かった。………青白い顔をした教諭からはふわりとした花の香りが微かに漂う。………懐かしい匂いだった。ずっと交流も無かった筈なのに、確かに彼女からは母と同じ匂いがした。白くて小さな、あの花の…………。


「タイはどうしたのですか。」


 彼女は少々怯えた表情の姪の襟元へと、指を伸ばしてはそっとなぞる。その指先も、やはり顔色と同じく青白かった。


「えっと……制服は届いたんですけれど…タイだけ、受注漏れがあった…みたいで。」


 十子にしては珍しくどぎまぎとして歯切れの悪い受け答えであった。………十子はどうにも絹枝が苦手だった。母と同じような顔なのに性質や動作は似ていなく。十子と絶えず一定の距離を置きたがるところだけはそっくりで。


「………………。」


 石造りの廊下の上には、樹々の隙間から零れる透明色の光が散らばっていた。遠くのほうからは移動教室らしい女生徒たちのひそひそとしたお喋りが聞こえてくる。けれどここは静かだった。十子と絹枝の間に漂う空間は。ずっと。


 和代が気遣わしげに十子の肩に触れる。その仕草が無性に優しく感じられ、十子は淡い溜め息を吐いた。


「………そう。そういう理由なら仕方がありませんね。」


 ようやく絹枝が薄い唇を開いては言う。……もう、行って良いという合図だろうか。そっと瞼が下ろされ、彼女の視線は十子たちから外れた。


 一礼して、十子と和代は再び歩き出す。その背後から、教諭は一言「似合っていますよ」と零す。びっくりとして十子は振り返る。絹枝は自分の襟元に少し触れてから「新しい制服」と零して、本当に少しだけ笑った。





「タイはいつ頃届くのかしらね?」


 その日の放課後、寄宿舎へと続く階段を昇る最中で和代が尋ねてくる。


「そうね……。明日届かなかったら電話して尋ねてみるつもりよ。」


 もう少しかかるかもしれないわ、と十子が呟けば、和代はそう、と漏らして階段を一段抜かしでテンポよく上がった。斜陽が差し込む踊り場で、彼女のえび茶の制服の裾がふわりと揺れた。


「それまで五雲町の頃のタイをしていれば良いんだわ。素敵なのに。」


 彼女は無邪気に笑いながら十子のことを見下ろす。踊り場という名にあやかってか、そこで一回くるりとまわってみせた。短いくせ毛が軽やかに風に煽られる。


「………いやよ。目立っちゃう。」


 十子もまた踊り場へと辿り着いて、淡く笑ってみせた。…………五雲町の制服は濃紺に白のタイ、ここの制服はえび茶に黒のタイ。型は同じでも色はまったく違うのだ。




「十子ちゃんは充分目立ってると思うけれど。」


 ――――十子の顔は、同じ高さの段に足をつけても未だ和代よりも頭一つ低い。その差がなんだか愛おしくて、和代はそっと十子の掌を取った。………青白い掌。その皮膚の色はやはり絹枝教諭と似ていた。


「…………何故。」


 十子が握り返しながら尋ねる。ちょっと、拗ねた口調だ。………一緒にいる月日が経つ毎に、様々な十子の表情を見れることが和代を幸せな気持ちにした。ふふん、となんだか得意げになって笑ってみせる。


「だって十子ちゃんは綺麗だもの。」


 ね、とそっと耳打ちするように顔を近付けて言えば、十子の頬に少し赤みがさす。それを指摘すると、夕焼けの所為だとまたしても拗ねたようにされてしまった。





 くすんで不透明なオールドローズ色の扉が一定の間隔で、長い廊下に並んでいる。

 その脇を、少女独特のほっそりとした二組の脚が歩む。学校の廊下は大理石を組み合わせたモザイクの細工で作られているが、寄宿舎の床の造りは古びた木材だった。踏むとみしりと軋む。古い年月と共にある建物なのだろう。

 十子と和代の部屋は突き当たり、一番奥にある。二人は並んで他愛の無い会話をしながら、のんびりとした足取りでそこへ向かう。


「今日も一日疲れたわね」


 和代は十子の背中を眺めながら、ちょっと溜め息交じりに零した。十子は軽い相槌をしたあと、緩やかに歩を止める。二人の部屋の前に来たのだろう。……しかし、いつまで経っても彼女はドアのノブに手をかけない。ぴたりと止まって、一点…ドアの下部のほうを凝視しては止まってしまっている。


「……十子ちゃん?」


 動かない十子に、和代はいぶかしげに声をかける。そうして、後ろから首を伸ばして覗き込んでみる。…なるほど。ドアの前に、紙の袋が置かれていた。それを取り上げようか考えあぐねいているのだろう。添えられた紙には『鳴水十子さん』と書かれている。が、差出人の名は記されていない。


 やがて十子は茶色いそれを拾い上げる。こうしていても仕様が無いと思ったのだろうか。折り畳まれていた口を開けば、かさりと乾いた音がする。和代もまたその様を見守った。


「あれ……」


 中身を取り出した十子が呟く。彼女の掌中には、黒い…今現在、和代の襟元から下がっているタイと同じものが収められていた。


「…… 業者の人が遅れて持って来たのかな。」


 言っておきながら、そういう雰囲気ではまるでない簡素な包装…茶色の紙袋を和代は眺める。

 十子は黒いタイをそっと自身の目の高さまで持ち上げた。彼女の鼻孔を、懐かしい匂いが過っていく。やはり同じ花の香りだ。白くて小さな蕾を、夏の終わりに開く…あの。


「ううん……業者の人じゃなくて。」


 十子には、誰がこれを持って来てくれたのかがよく分かった。そうしてそれが分かると嬉しくなった。自然とその表情は穏やかになっていく。

 和代はそんな友人の顔を眺めていた。彼女にも、そのタイが誰から十子に贈られたものであるかは予想がついたが…。………不思議と、溜め息が漏れてしまった。





「あれは、ヘラクレス座ね。」

「ああ…あの、英雄のヘラクレス。」

「そう、それよ。彼が、女神ヘラのお乳をあまりに強く吸ったものだから、乳房から零れてしまって、あの……」


 十子は青ずんだ空中、指先で天をなぞるようにした。


「天の川ができたの。」

「だから英語で言うとミルキーウェイなのねえ。」


 二人していつもの渡り廊下に腰掛けながら空を見上げる。…もう、この行為は恒例となっていた。和代は元より夜空を眺めるのが好きだったし、十子もそれは同じだった。

 また、十子は非常に星についての知識が豊富だった。和代がそれをそのまま感想として述べると、十子はちょっと寂しそうに笑ったあと、「お母さんが好きだったの。………ずっと昔に、教えてもらったから…。」と応えた。



「……十子ちゃん。あの星はなんだか分かる?」


 自分よりもちょっと低い十子の肩に頭を預けながら、和代が尋ねる。十子は和代が指差した先の星をつ、と眺め、天の川がひときわ幅広く明るくなった部分に鎮座する星々を確認した。


「あれは…射手座ね。」

「へえ……。そういえば私射手座よ。」

「じゃああれは和代さんが生まれたときも空にあった星なんだわ。」

「そう考えるとロマンスねえ。……でもなんか、射手座って男の人らしくてちょっと嫌なんだけれど。」

「和代さんは背が高くて女の子にモテるものね。」

「そんなこと…そんなの、嬉しくないわよ。女の子にモテたって。」

「じゃあ男の子にモテたいのかしら。」

「そういうんじゃ…なくて……。」


 …………私はね…好きな人に好きになってもらえればそれで良いの。それだけ……。

 和代は本当に小さな小さな声で呟いた。故にそれは十子の耳には入らなかった。和代の切ない想いは聞き届けられることなく、中空をふわりと漂うに留まる。



「でも…射手座のエピソードも素敵なのよ」

「ふうん。」

「射手座はケンタウロス族の賢者ケイロンの星座ね。乱暴者が多いケンタウロス族の中でもとっても優しい心を持っている人だったの。」


 星の話をする時の十子は、いつものミステリアスな雰囲気から少し離れて活き活きとしている。和代はそんな彼女の話に耳を傾けるのが好きだった。恐らく自分しか知らないであろう、彼女の少女らしい一面を見ることが出来るのが………



「ケイロンは時の翁クロノスの血を引いているから不死身で、頭も良かった。その知識で、さっきの……」


 また十子の指が円い天をなぞる。そのほっそりした指先を、和代はぼんやりと見つめていた。


「ヘラクレスの試練の助けも沢山して、彼をかわいがっていたんだわ。………でも、そんなヘラクレスとケンタウロス族の間で諍いがある日起きて。」


 十子の指がヘラクレス座から射手座へと移動する。素早く。「弓矢が……」という、彼女の声が残響のように続く。


「ヘラクレスが放った弓矢が、間違ってケイロンに当たってしまったのね。ヘラクレスの矢には強力な毒が塗られていたから、ケイロンはとても苦しむの。」

「でも…ケイロンは不死身だから死ねない……。」


 和代は腕を伸ばして、十子の掌を中空で捕まえた。きゅっと握って、自分たちの方へと寄せる。……十子はそんな友人の甘えた素振りを見て、ちょっと笑った。


「ケイロンを苦しみから逃れさせる為に、ヘラクレスはとある巨人族の神様にケイロンの不死身の身体を譲って……ようやく、ケイロンは死の安息に辿り着いたそうよ。」

「なんだか悲しいわね。星座って悲しい話が多くて嫌だわ。」

「ケイロンが死んだ時、他の神様もとっても悲しかったそうよ。だから星にして、彼を天にあげて……それが、あの射手座。」

「ふうん……。」



 それから二人は黙って星空を見ていた。降るような夏の星空は火の粉のように飛んでいた。

 やがて、十子は和代が少々不機嫌なことに気が付く。「どうしたの」とそっと囁いてみれば、和代は俯いて「いえ、べつに」としかし相も変わらず不服そうな声で応えた。


「………そう?」


 ほんとうに?と十子が今一度尋ねる。和代は黙っていた。その間も空の星は静かに瞬く。重々しく聳える校舎の所々、薄い桃色の大理石を静寂の中で反射させながら。


「あの、ね。」


 やっと、和代が重たそうに口を開く。十子は黙って続きを待った。


「タイ……。十子ちゃんが、今日、もらったやつ。」


 和代は十子の掌をぎゅっと握ってくるので、十子も握り返した。…どういうわけか、和代は泣きそうな面持ちである。


「本当は、わたしが、あげたかったの。」


 それだけ吐き出して、和代は黙ってしまった。その横で十子は無言で星空を、そしてその下で眠っている樹々を眺めた。そうやってしばらく夜景に眺め耽っていたが、十子はふと闇のなかにたった一つ開け放された窓を見つける。その部屋のなかでは頼りない燈火が揺らめいていた。そこが誰の部屋なのか、十子は思い当たってしまう。そうして、とてつもなく切ない気持ちになった。和代は掌を更に強く握ってくる。十子はこの時、忽然として隣にいる彼女の気持ちに気が付いた。………驚いた、けれど嬉しかった。こんなふうに想われたことが、未だかつて彼女には無かったから。


「ありがとう。」


 十子はやっとの思いでそれだけ言った。そっと和代が頷く気配がする。


 外の景色は相変わらず暗かった。けれど、視線の先にはひとつの微かな光。



 ありがとう。ありがとう。ありがとう。ありがとう。



 それしか想うことができなかった。そうして気が付かなかっただけで、もしかしたら母からもこうして愛されていたのではないかと考える。


(気が付くのが遅過ぎたのかしら。)


 今では、確かめる術は無いけれど。けれど…今芽生えたこの愛情を大切にしていきたいと。確かに十子はこのときに強く、そう思った。

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