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余白  作者:
白星
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妹と娘 02

「ここには慣れた?」



 とある夜、和代はそっと二段ベッドの下から声をかけてみた。



「………和代さん。」


 応えるように、小さく自分を呼ぶ声が天井近くから降ってくる。

 十子に名を呼ばれると、和代の胸はきゅっとして少し緊張した。その感覚が、彼女は嫌いでは無かった。


「ごめんなさい、寝ていたのに起こしちゃったかしら。」


 暫時沈黙が続いたので和代は慌てて付け加える。和代の頭の上で、古いベッドの底が軋む。十子が寝返りを打ったようだ。


「………大丈夫。寝てないわ。」

「そう……。」


 ふと、和代はベッドの脇のクロークへと視線をやった。自分のえび茶の制服の横には、それよりも少し小さいサイズの同じくえび茶のスカート。一週間ほど前に出来上がった十子の制服だ。

 十子が自分と同じ制服を着てくれていることが、和代には少し嬉しかった。ちょっとだけ距離が縮まったような気がするからだ。濃紺の制服を着ていたときの彼女は、とても綺麗だったけれど、遠い国の人のように思えて少し近寄り難かったから……


「………確か、十子ちゃんは寄宿生活は初めてなのよね。」


 それを眺めながら、ぽつりと和代は零す。「そうね。五雲町には家から通っていたから」という返事が再び上から降ってくる。


「それじゃあ大変じゃない?四六時中規則だらけで見張られて。」

「それは寄宿舎に入ってなくてもおんなじよ。この白星じゃ。」

「まあ…それもそうかしらね。」


 和代がくすくす笑うと、十子も僅かに笑ってくれる気配がする。青ずんだ夜の中に、幸せな空気がふわりと漂った。


「そんなに大変じゃないわよ。」


 二段ベッドが、なんだか甘い音を立てて軋んだ。十子がそっと起き上がったのかもしれない。


「相部屋の人が、とても良い人だったもの。」


 彼女の声と共に、ベッドの端から白い掌が降りてくる。上の方では黒い髪が沙椰と揺れていた。

 その指先に触れようと和代も手を伸ばす。しかし適わなかった。外国から持って来たという寄宿舎の二段ベッドの高さはそれなりにあり、二人の間に横たわる空間は広々としていた。

 和代は半身だけ起き上げる。そうして十子の掌にようやく触れて、握った。弱く握り返される。和代の心の奥は、再びきゅっとした切ない感覚に陥った。


「…………良かった。不安とか、無い?」


 自分が十子によく思われているのだと分かって、和代はとても幸せだった。………十子という人はどこか謎めいていて、心の奥を決して探らせてはくれないように見えたから。


「不安………。そうね。」


 十子が遂に顔を覗かせたので、二人の視線はぴたりと合う。そのままで、十子は少しなにかを考えるようにしていた。


「…………絹枝先生。」


 予想外の人物がその形の良い唇から漏れたので、和代は驚いたふうにする。そうしている内に十子の視線はそろりと逸れ、どこか遠くの方を向く。


「絹枝先生は……。私のこと、嫌いなのかしら。」


 そこまで聞いて、和代はようやく彼女ら二人に血の繋がりがあることを思い出した。………元より晶絹枝教諭は生徒と深く関わろうとはしない。どこまでも義務的で、規則の範疇から外れない人間だった。それ故に、平素の学校生活でも決して生徒と教師以上の関係を持とうとはしてないような…それが例え肉親であっても…とにかく、和代が二人が親類であったことを忘れるくらいに彼女たちの関わり合いは淡白なようである。


「そんなこと気にしなくても大丈夫だわ。知っての通り絹枝先生はあんな人でしょう。うちでは厳しさで有名なくらいだもの…。それに十子ちゃんはまだお叱りを受けたことが無いじゃない、だから絹枝先生は十子ちゃんのことを悪くは思っていない筈よ。」


 十子の口ぶりから寂しさを感じ取った所為か、和代は早口で弁明めいたことをする。

 しかし十子は未だ遠くの方をぼんやりと眺めている。和代は不安になった。……この、ある日突然現れた美しい少女が、またある日突然いなくなってしまうような予感を覚えたからだ。


「十子ちゃん」


 和代はベッドからそろりと抜け出し、地面に足をつける。床に引かれている草臥れた苔色の絨毯は毛羽立って、裸足にはくすぐったかった。


「ちょっとだけ、お散歩にいかない。」


 握ったままだった掌を軽く引いて促してみる。ようやくまた、二人の視線は交わった。

 ………十子の瞳は、黒さの中に僅かな青みがある。和代はその瞳を持つ人をもう一人知っていた。二人とも美しい女性である。しかしその美しさの底にはいつでも悲しみが色濃く漂っていた。どこまでも深く………





 十子の父親は彼女が生まれる頃に亡くなってしまったので、十子は彼の顔も、声も皮膚の温かさすら知る術を持たなかった。

 母親は美しい人だったが、共に過ごした短い日々の中で十子は…一度も、彼女の心を理解したことは無かった。

 勿論、沢山優しくしてもらえたと思う。けれども常に二人の間には何か隔たりがあったような。薄氷のように触れてしまえばそれは壊れたのかもしれないけれども。しかし十子も母親も、最後までそれをしようとは思わなかった。



 寄宿舎からそっと抜け出し、長い廊下を和代と共に歩む。………勿論、消灯時間を過ぎてのこういった行為は見つかれば厳重に処罰される。今まで所謂〝良い子〟として生きて来た十子はこんな大胆な行いをしたことが無い。少々緊張するが、左手を優しく握ってくれる和代の存在のお陰でそれほどまでに不安にはならなかった。


 渡り廊下へ続く鉄の扉はしっかりと閉じられていた。その向かいには、木彫りの小さなキリスト像がいつもと変わらない様子で引っ掛かっている。どこから風が吹くのだろう。やはりそれは微かに動いて、斜めに傾いた。



 神様。

 幼い頃から共に在ったカトリックの教えのことも、やはり十子は未だに理解ができない。

 神がいるというには、世界はあまりにも悲しさに満ちている。苦しそうな面持ちをした磔刑のキリストを見上げながら、ぼんやりとそんなことを考えた。


「………行き止まりね。」


 そう零した十子のことを、和代はにっこりと笑って見下ろす。………背が高くて、人好きのする優しい顔をした少女だと十子は思う。十子は和代が好きだった。彼女がいたお陰で、胸の奥の激しい寂しさを幾分か忘れることができたから。


「大丈夫。行き止まってないよ。………ここ、いつも開いてるの。」


 笑いながら和代は長い腕を伸ばして真鍮製のドアノブに触れた。錆びて鈍い赤色をしている扉は、苦しそうな音を立てながらそろそろと外側へと開く。



 夜空は、青かった。その隙間を銀色の星が畝るように埋めている。


 渡り廊下の柱の間、真っ黒い樹々の上にはその光も差さない巨大な校舎がひっそりと聳えている。十子の心には急に悲しさがこみ上げて来た。何がそんなに悲しかったのかは、彼女自身にもはっきりしない。いつでもそうなのだ。けれども、ただ悲しい。それから寂しい。美しいものを見た時にその気持ちは殊更になる。

 

「和代さんは、よくこういう悪いことをしているのね。」


 それを誤摩化す為に、十子はわざと冗談めかして言ってみる。……和代は十子の苦しい胸中には幸い気付かないらしく、えへへと弱く笑ってみせた。



 それから二人で並んで、煉瓦造りの渡り廊下の縁に腰掛けた。白星の生徒としては些か行儀の悪い行為である。昼間、こんなことをしたら先生かシスターや仰天してしまうだろう。


「でも、この学校って夜の方が綺麗に見えるよね。」


 十子の予想通り、和代は度々消灯時間を過ぎてから部屋を抜け出して夜の学校を探検していたらしい。そう言う横顔は悪戯っぽく、なんだか年の頃よりも幼く見えた。

 沈黙を守っている向かいの校舎は、淡い桃色の石を星灯りに浴びせてきらきらとしている。確かに綺麗な光景だった。十子はその通りだと頷いてみせる。


「…………大丈夫だよ。十子ちゃんが絹枝先生と仲良くなれるように、私、神様にお祈りしておくよ。」


 未だ浮かない顔をしている十子に、和代は笑いかける。……多くの白星の生徒の例の漏れず、和代は純粋に神、精霊、そしてキリストを信仰している少女だった。


 十子はありがとう、と例を述べてまた深い青色の中の校舎を眺める。そのままで乏しい夏の虫の音に聞き入っていると、自然と涙がその頬へと白く冷やかに流れ始める。十子はほとんど呻くように何事かを呟く。しかしそれは誰にも聞き取ることが出来なかった。十子自身にも。


「…………十子ちゃんのお母さんもお父さんも、今はきっと神様の隣にいる筈だよ。だから、大丈夫……」


 けれど、和代は和代なりにそれを理解しようとしてくれていた。本当に優しい少女だと思う。十子はそう思って、微かに笑った。



 …………神様。


(そう、昔………。神様には、会ったことがある。)


 とてもおぼろげな記憶ではある。十子はなんとはなしにそれを思い出していた。夢だったのか昔暮らしていた家なのか、はたまた幼い頃の妄想なのか。どれかは判然としないが、そのときの十子は確かにそれが神様だと分かった。




 神様は随分とくたびれ、痩せ細った老人だった気がする。聖書の挿絵などで見る西洋人風の長髪で髭を生やした男とは違い、頭頂部は綺麗に禿げており、側頭に薄く白い毛を残すのみだった。枯茶のツイードのジャケットの肘が破れてよれよれのシャツが除いてしまっているのがみすぼらしい。ネクタイには臙脂と煤けた灰色の縞が横に。そうしてこれもまたくたびれ果てた一人がけのソファに身を預け、しきりに煙草を吸っていた。



「寂しい」



 十子は項垂れながらいつもの一言を呟く。眼前の老人は、べっ甲縁の眼鏡の内側から小さな瞳でじっと十子のことを見つめる。少ししてからまた、煙草を一息に吸っては目を瞬かせた。



「それは、可哀想だね。」



 よくよく考えての発言らしいが、毒にも薬にもならない言葉だった。これでは仕様が無い、と十子の気持ちはより一層の寂しさを抱く。


 神様は申し訳無さそうにその様子を見守っていた。しかし自分が何もしてやれないのは分かっていたので、悲しそうな溜め息を紫煙と共に吐く。


「何もしてくれないんですか。」


 十子の問いに、彼はゆるゆると首を振った。「何もできないよ。」弱々しい声。


「私が苦しくたって、お母さんが病気のときだって、貴方は何もしてくれなかった……。神様なのに。どうして。」

「神様だから何もできないんだよ。君の傍に居ることしか、できないんだよ。」

「傍にいるだけなんて…そんなの、なんの救いにもならない……」

「うん、そうだね。………。」


 神様は相変わらず悲しそうな雰囲気を纏ってもう一度、そうだね。と繰り返した。

 そうして窓のほうへ視線をやりながら、二人に挟まれたテーブルの上に鎮座する、ガラス製の灰皿で煙草をもみ消す。


 窓の外は白い靄に包まれて何も見えなかった。ここにいるときはいつもそうだ。しかし且つての十子は好きなときにはいつだって、仄かに光る白に四方を囲まれたこの空間で、疲れ果てた面持ちのこの老人と相対することができた。



 十子もまた彼から視線を外し、窓の外の景色を眺めた。白い靄に覆われた空が薔薇色に染まって黄昏時へと移り変わっていく。辺りに広がる湖面の薄い蒼に桃色が映りこみ、白い山梔子の花弁がほろほろと風に乗って漂っていく。その桃色の空間は、彼女が見て来た…そうしてこれから見るであろうどんな景色よりも美しい。そんなことを、無意識に考えた。



「ひとつだけ聞いて欲しいのは」



 神様の声が囁くような小さな響きで言葉を残すのが、十子の耳に届いた。



「どんなところにいても、見方さえ変われば景色は美しいということ。」


「すごく恵まれた環境にいても、いつだって不幸な人もいるし、貧しさの中に身を置いてもずっと幸せな人もいる。みんな気が付かないだけなんだと………そういうふうに、僕は。」


「だから、君にはこの景色を忘れないでいて欲しいなあ………。」



 神様はそう言って、すっかり薄くなってしまっている瞼をゆっくりと閉じた。

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