妹と娘 01
りん。
風鈴が鳴っている。ようやく鳴き始めた蝉の声も、どういう訳か今は静かだった。
(お母さん)
十子は母親の掌を握る。既にそこに温度はなく、生温い空気を抱く季節の中でただひとつ、冴えた冷たさを齎してくるだけだった。
(お母さん)
十子は心の中で呼びかける。分かってはいるが、彼女の声が届くはずはなかった。
りん。
また風鈴が鳴る。十子は泣いてしまいたかった。けれどどうしてもそれができなくて、ただただ、苦しく浅い呼吸を繰り返す。
白星‥妹と娘
その日の朝、若い担任と共に教室に入って来た濃紺色の制服を着た女生徒のことを、二年桜組の少女たちは興味深げに眺めていた。
黒板の上には『沈黙』の文字が黒々とした墨で書かれては掲げられていたが、多くの例に漏れず噂が好きな年頃の娘たちである。密かな囁き声がさざ波のように教室の隅から隅へと広がっていった。
「転校生かしら」
「制服の色が私たちと違うわね」
「姉妹校から来たんだわ。あの色は五雲町」
「五雲町?都会だわ、ハイカラね」
「絹枝先生のご親族だそうよ」
「えっ寮長先生の」
「先生のお姉さまの娘さん。ご両親が亡くなられてこっちにいらしたとか」
「まあ…」
「私あの先生苦手だわ」
「怖いものね」
「綺麗な先生だけれど」
「…言われてみればちょっと似てるわ。あの子」
「絹枝先生に?」
「うん、そうね」
「綺麗な人」
五百木和代もまた、その会話に加わっていた女学生の一人だった。型は同じだが自分たちのえび茶の制服とは違い、濃紺のスカートを身に纏った眼前の少女。白いスカーフが、夜を泳ぐ銀魚の背のようで涼しげな雰囲気である。
それが和代の目には得も言われず洗練されて見え、都会からやって来た瀟洒なこのお嬢様に遂々ぼんやりと見蕩れてしまっていた。
そうして…全寮制のこの学校に来たということは、当然彼女もまた寄宿舎に入る筈である。二人ずつに与えられる部屋に今ひとつ、空きがあるのは他でもない和代の部屋であって………
「皆さん、お静かに!」
和代たちのクラスの担任はまだ若い女性だった。銀縁の眼鏡のズレをちょっと直すと、騒がしくなりつつある室内の空気をしゃんとさせるように一段声を張り上げて言った。
「こちらは鳴水十子さん。今日から私たちのクラスで一緒にお勉強をする友達です。」
皆さん、仲良くしましょうね。にっこりと笑う担任の傍らで、鳴水十子がひとつ頭を下げた。真っ直ぐな黒髪がそれに合わせて沙椰と揺れる。
(あれがきっと初恋だったんだわ)
――――後になって和代はそんなことを考えた。
(十子ちゃん)
今彼女はどこで何をしているのだろうか。
寒いところへ行くと言っていた。どうか、今度こそ彼女が孤独ではありませんように。神様。…………。
*
十子が二年桜組の教室へと足を踏み入れる数十分程前。
彼女は自身の新しい保護者である叔母……晶絹枝教諭に連れ立たれて長い廊下を歩んでいた。
この女性は歩くのが速かった。十子は置いていかれぬよう、早足になりながら後ろをついていく。
「姉妹校に通われていた貴方ならもう勝手は知っていると思いますが」
運んでいく足の速さとは対照的に、彼女の声はゆっくりとして低く落ち着いていた。
それは十子の母親の口調にも似ている。ひと月ほど前にいなくなった母のことを思って、十子の心は僅かに沈んだ。
「…………、…………です。貴方も同じ白星の生徒として恥ずかしくないよう、日々を過ごして下さい。」
十子は半分上の空で絹枝教諭の声を聞いていた。
どこからか少女たちの歌声が響いていくる。………白星女学院の生徒は毎朝の朝礼を聖堂で行う。年頃の少女たちにしか無い澄んだ音色が、十子の気持ちを少しだけ慰めてくれた。
(………絹枝さん、いえ……先生?)
そうして教諭の背中…皺ひとつない白いシャツの生地を眺めて不思議な気持ちになる。糊がきいて固そうな襟に少しの後れ毛が零れていた。黒々とした美しい髪。亡くなったときの十子の母親の頭髪とは対照的な。
(そういえば、お母さんの髪の毛も昔…病にかかる前は色が濃くて、とても綺麗だったのだわ。)
そう思い出しながら、先を行く女性の白い背中と黒い髪を交互に見つめる。
……彼女と十子の関係は叔母と姪。然程遠い存在では無い。しかし十子が絹枝に出会ったのは今日が初めてであった。
絹枝だけでは無い。十子は両親の実家の人間とは今まで一度として会わなかった。………なんとなくの想像ではあるが、十子の父母の結婚は互いの家族が望まないものだったのだろう。
それならば、人目を避けては何かから逃れるようにしていた彼らの態度にも納得がいく………
絹枝教諭は必要なことを話終えると、ずっと沈黙をしていた。質問があるかさえ聞いてはくれない。その態度は固く、冷たかった。………十子は本能的に、母と絹枝の姉妹間の関係はあまり良くなかったであろうことに思い当たる。
慣れない土地に一人でやってきた十子がただ一人あてにしていたのは、出会ったことは無くても血が繋がっている叔母だった。どんな人間であれ、親族に出会えることは嬉しいと思う。だが、絹枝のほうはそう考えてはくれないらしい。聖堂から校舎へと至る渡り廊下には初夏の風がゆっくりと横切る。夏草がそっと鳴った。虫のさえずりもよく聞こえる。
(寂しい)
十子は唐突にそう思った。そしてそれはいつも思っていることだった。母がいてくれた時でさえそれは彼女の胸の内の大半を占めていた。
渡り廊下の先に開け放してあった鉄の扉、その中に十字架にかけられたキリストの小さな御像がかかっている。五雲町の白星にいたときも、彼女はよくそれを目にした。とても軽いものらしく、風が少し吹けば合わせて斜めに傾いてしまっていた。