母と夫 02
私とヤドリギは、とても仲の良い友達だった。いつも一緒という訳では無かったけれども……私たちにはそれぞれ別の友人がいたから……時々会って、話をしたりしなかったり。同じ時間を過ごすことが好きだった。安らぎと呼べるものが二人の間にはあったと思う。
ヤドリギが病気になった。18才の冬だ。ある殊更寒い晩が明けると、おじいさんのような白髪になってしまって。
薄氷病だった。治ることは無い。このまま少しずつ全身が白くなってやがて温度も無くなり、いつかは薄氷のようにぱきりと全身が繋がらなくなる。
あの時に私は初めてヤドリギが涙を流すのを見た。死ぬのが怖いと言って怯えるのを見た。彼の腕に抱かれたときの気持ちを思い知った。
「うん………。分かった。」
自分の声は、おしつけられた彼の胸に遮られて前に進んでくれなかった。それでも、もう一度応えてからゆっくりと抱き返した。
「うん。傍にいるね。」
イチジク。
ヤドリギが私の名前を呼んでいる。ずっと…………
今でも時々…殊更、こういう夜にはそれが聞こえるような気がして、しようがない。
*
トリイとイチジクは、向かい合って温めたワインを飲んだ。
この街の大人は皆酒が好きだ。二人も勿論…長い間街を離れていたトリイでさえも、それは例外では無い。
「先生………偶には、僕たちの街にも来ませんか…」
色んなとこに案内、しますよ。
トリイはいつものヘラっとした笑い方で言う。優しい笑顔だ。そうしてイチジクは曖昧な返事をする。トリイは少し残念そうにした。
……彼女はきっと、もうこの街を離れることはしないのだろう。
ホットワインには香辛料がよく効いて、良い匂いだった。湯気がオレンジ色の室内に細く立ち上る様をトリイはぼんやりと見守った。
「あの時、私たちは若かったからね………」
ふ、とイチジクが声を漏らした。その方を見れば、彼女もまた落窪んだ瞳を掌中のカップへと注いでいた。骨が浮き出た手の甲が、トリイにはなんだか悲しかった。
「周りから沢山反対されたけれども…どうしても一緒にいたかったし。
……あの病気の原因の由来の一部が遺伝にあるからと言って……まさか、私たちの子供が……と、そういう、根拠の無い自信があったんだろうね。」
イチジクは一口に言ってから、カップの中のものをちょっとだけ飲んだ。後、深い溜め息。
そのくたびれ果てた横顔から、トリイは愛した人の面影をそっと感じ取った。
ごめんなさい……。
そう言って謝る年老いた女性は、やはり先生と呼ぶにはあまりに頼りなかった。
トリイ君にまで、悲しい思いを沢山させてしまった………。
イチジクは、ようやく彼の名前をきちんと呼んだ。思えば、彼の名前をわざと間違えるのはリンコが始めた遊びだった。最初はわざわざ訂正していたけれど、一緒に過ごす時間が多くなると面倒になって呼ばせるままにしておいた。………だから、トリイは最後に自分の名前をちゃんとリンコに呼んでもらったのがいつかをよく思い出せない。そうして当たり前だがもう一生…大好きな彼女に名前を呼んでもらえることは、無いのだ。
(悲しい)
やはり、年月は問題では無かった。いつまで経ってもトリイはリンコが好きだったし、一人で過ごす夜中の寂しさには慣れない。
それは彼の向かいに座る人間も同じなのだろう。………だから、トリイはイチジクを好きだった。先生として、人間として、母親として。
「でも……先生がヤドリギさんと結婚しなかったら、僕はリンコと会えなかった」
トリイはリンコが残していった小さな欠片を愛おしそうに眺めた。
雪の朝。珍しく晴れた日。ひどい豪雪。手を繋いで、並んで歩いて、一緒に大きくなっていった日々を思い出す。いつだって堪らなかった。リンコが隣にいてもいなくても、トリイは彼女を思えばいつだって堪らなかった。
「先生……。リンコのことを生んでくれて、ありがとうございました。」
トリイの呟きは、雪と同じ様に深い響きをしていた。
イチジクは再び少しだけ呻く。彼女の視線もまた、愛しい娘の白い骨へと注がれていた。