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雪の街
16/16

残された人たち 04

 翌日の晩も、星が綺麗な夜だった。その日は珍しく駅で乗り降りする人物が多く、駅舎は賑やかであった。

 この終列車が終ると、この街に出入りする手段は数ヶ月先まで失われる。温かな地を求めてここから去る人間、休みをもらって家族の元へ帰る人間など、様々な人集りが賑やかにホームを埋めていた。


 ボックス席に座ったキリアキに、窓の外からイチジクが話かける。応えるようにして彼は窓を開けた。


「おう、用事なら手短かに話せよ。窓開けると寒くてたまんねえんだ。」

「つれないこと言うねえ。単に発車までの時間、お喋りに興じようと思っただけなのに。」

「てめえの長話にはこの数日間充分付き合ったろ。勘弁してくれ。」


 非常に嫌そうな顔をするにも関わらず、窓を閉めずにいるこの男のことをイチジクは好きだった。微笑んで、「そう」と小さく呟く。


 それから二人は、本当に実の無い話をした。二人がここで過ごした若い時の話が主だった。しかし、どういう訳か共通の友人であるヤドリギの名前は出て来なかった。二人ともどこか意識して、彼の名前を避けていた。

 


 やがて、発車を告げるベルが騒々しく鳴った。列車のどの窓にも、見送りに立つ人物が熱心に車内へと声をかけていた。注意を促す駅員の声が、少し間延びした雰囲気で辺りに響いていく。


 もう会話も尽きたのか、イチジクとヤドリギはただお互いの顔をじっと見ていた。………もう、二人とも充分な年寄りだった。もしかしたらこれが顔を合わせる最後の機会になるかもしれない、という考えは双方の胸に確かに存在していた。



「元気で、な。」


 キリアキが、どこか苦しそうに笑いながら言う。イチジクは頷いて、「君もね」と応えた。


 ゆっくりと、列車が動き出した。キリアキは窓を閉めようとせずに、イチジクの瞳をじっと見つめる。彼は、なにかを急いで口にするようだった。しかしそれはもうイチジクの耳には届かない。地響きを上げて、重たく黒い列車は駅から出て行ってしまう。キリアキの姿はすぐに見えなくなった。それでもイチジクはずっと列車を見送った。


 光と熱で満たされた列車が遠ざかると、見送りにやってきた人々もやがて駅から遠ざかって行く。

 そうして数十分もしない内に、いつもの静けさがそこに戻って来た。

 イチジクは、寂しいような、満たされたような気持ちだった。乾いた風が彼女の疎らに白い頭髪を揺らす。深く呼吸をしてから、彼女は煙草を取り出した。マッチでじっくりと火を点けて紫煙を吸い込めば、いつにも増して美味く感じる。



 時間をかけて充分に煙草を堪能したイチジクは、やがてくわえ煙草のままでホームの一番先端の…いつもの場所へ、至った。


 終列車が過ぎ去り、冷めて青ざめ始めた線路を少女は見下ろしていた。イチジクが「今晩は」と声をかければ彼女もそれに応えてくる。その声には疲労が滲んでいた。………我慢強いこの少女も、流石に限界が近いのかもしれない。



「良い加減に……。家においで。ほんの少し休むだけでも、随分楽になるよ………。」


 静かにイチジクは声をかけた。少女は頑として動かない。それでもイチジクは、辛抱強く言葉を続けた。



「この寒さで、この暗さだよ。私は君が心配なんだ。」


 老婆心というやつかしらね、と少し茶化すように言ってみるが、少女からの反応はまったく無かった。イチジクは煙草の吸い殻を靴の裏でもみ消してから、傍の屑篭に放った。

 先程までの喧騒が嘘のように、辺りは寂としていた。これがこの駅の本来の姿である。

 街灯が弱々しく点滅した。しかし消えずに、儚い色をした光を辺りに投げ掛け続ける。


「私の為と思って……さ。一緒に来ては、くれないか。」


 イチジクの必死の説得にも関わらず、少女はゆっくりと首を横に振った。

 イチジクは、キリアキもトリイも、今の自分のような気持ちだったのかと考えて少しの感慨を抱く。そうして…残酷とは承知していたが、彼女に事実を教えてやらねばならないことを思った。


「君が待っている人は………。もう、この冬は決してここまでやっては来ないよ。」


 そうしてイチジクが白い息と共に吐き出した言葉に、少女がようやく顔を上げた。

 彼女の深い青色の瞳が、イチジクの緑色の瞳を捕えた。はっとしたような表情だった。顔色は悪く、血の気が失せている。けれど、その瞳だけは変わらずに痛い程澄み切っていた。


「今の列車が、今季の最後の列車だ。……だから君の待ち人が来るのは、少なくともこの冬を越えた数ヶ月先だよ……」


 しばしの沈黙が辺りを包んだ。降り続ける粉雪は星の灯りを反射して銀色である。ガラスの欠片が空から降り注いでいるかのような光景だった。暖色は、いかにも頼りない街灯のオレンジ色と、少女の桜色の唇だけだった。それ以外は、青と白。地平線に至るまで、深い深い青色。


「嘘……………。」


 ようやく、少女の唇から本当に小さな声で言葉が漏れる。嘘じゃないよ。と、同じくらい小さな声でイチジクは応えた。

 彼女は、すっかり熱を失って凍てついたレールが続く線路の向こうへと視線をやる。そこには恐ろしく静かな冬の景色が広がるだけだった。

 裸木もすっかり凍り付き、地面は固い氷で覆われ、全てのものが沈黙している。時折聞こえるのは、街灯がブゥンと鈍く鳴る音だけだった。



「嘘………。」


 もう一度、少女は言った。「嘘……そんな筈ない……!」と続けて。



「列車はまだある、きっとある筈………!!」


 掠れた声で、叫ぶように呟いた直後であった。今まで頑として動かなかったのが嘘のように、彼女は冷たい線路に降りて、レールの終わりから逆方向へと走り出した。


 突然の少女の行動に、イチジクは思わず目を見張る。「なにを……!」と零してから、彼女もまた少女を追って線路へと降り、走り出した。

 

 穏やかに降り続けていた粉雪が、段々と降雪の量を増やしてくる。時折ごうと風が吹いた。年の所為かすぐに息が上がってしまったイチジクの口へと、それは容赦なく吹き込んでくる。

 少女は走り続ける。イチジクも彼女へと追い付こうと、膝が痛むのを我慢しながら必死の思いで走る。強く吹いた雪風が、針葉樹から氷のような雪を振り落とした。それがか細い少女の身体を容赦なく煽っていく。


 一際強い風が、少女の黒いフードを脱がした。今まで隠れていた彼女の頭髪が露になる。真っ白い髪だった。雪よりも、星よりも純粋な白色である。その色を、イチジクは知っていた。よく知っていた。苦しい程に知っていた。思わず息を呑む。孤独と痛みに苛まれた年月の中で思い知るほどに、その色を………。


 そして、イチジクは全てを理解した。やがて少女は走り疲れたのか、立ち止まり、膝を折る。青い暗闇の中で、彼女の白い髪だけが光るように揺れていた。


 イチジクは少女の元へと追い付き、同じように膝を折って彼女のか細い肩に触れた。その身体は震えていた。恐らく、これは寒さの所為ばかりでは無いだろう。



「私……期待していたんです。」


 本当に微かな声で、少女は呻くように言った。真っ白い頬へと涙が一筋伝う。よくよく見れば、その青い瞳を縁取る睫毛も白色である。そっと少女が瞼を落とせば、それに合わせて白い睫毛は光って、濡れた。



「あの人が、私を迎えに来てくれるって。列車から降りてきて、この駅を見渡して…私を見つけて、ちょっと戸惑ってから。そうしてゆっくりと、こっちへ歩いてきてくれるって……そんな幸せなことばかり。」


 今までの無口が嘘のように、少女は喋り出した。喘ぎ喘ぎ話すうちに、嗚咽を堪えきれなくなるらしい。端正な彼女の顔が辛そうに歪むのを、イチジクはただ見ていた。

 

「私に声をかけてくれるのを、待っていたんです。あの人が一番になんて言ってくれるのかを考えるのが楽しかった。久しぶりですね、とか、寒いですね、とか、そういう当たり障り無くて素っ気ないことしか言わないだろうけど、どこかで私を大事にしてくれるのを感じていたかった………!!」



 少女は掌で顔を覆った。これだけ寒いのに関わらず、彼女は手袋をつけていなかった。しかし凍傷独特の赤みはなく、その皮膚もあくまで白かった。大理石で作られた彫刻のように、無機質な白だった。


 辺りには雪が降り続ける。青い水平線もすっかりと見えなくなってしまった。街は完全に雪に閉ざされた。長く厳しいこの街の冬が、今、本当に始まったのである。



「一緒に、帰りたかったのに………。それだけの為に、こんなところまで、来て…………」


 少女の悲痛な叫び声は、雪に包まれて辺りには響かない。だからそれはイチジクにしか届かなかった。イチジクだけが、彼女の悲しい言葉にじっと耳を傾けて聞いていた。



「私は馬鹿です。馬鹿な、人間なんです……………。」


 先生………。と弱々しく呟いて、少女は言葉を切る。そうして力なく、ただただ涙を流し続けた。



 イチジクは少女の双肩に静かに手を置き、向かい合うようにその顔を覗き込んだ。それから、髪に触れて、撫でてやる。出会ったときと同じように、彼女は少し驚いたようにした。…………この行為を、イチジクはひどく懐かしく思った。彼女の頭髪と肌の独特の色を見ていると、その気持ちは殊更だった。



「辛いね。」


 たった一言、イチジクは呟いた。少女は応えるように瞼を下ろす。涙は次々とその白い頬を伝っていく。それが可哀想で、イチジクは堪らなく唇を噛んだ。



「でも………。この病気で辛いのは、なにも死から逃れられないことだけじゃないよね。」


 ポケットから取り出したハンカチで、イチジクは少女の涙を拭ってやった。それが余計に彼女の気持ちを寂しくさせるらしく、青い瞳から涙は止めどなく流された。



「本当に辛いのは、自分なんか一人ぼっちだと思っちゃうことだ。」


 少女にハンカチを渡してから、イチジクは自分より幾分か小さい掌を握ってやった。そこは温かく、しっとりとしていた。生命の温度で、生きている証だ。それがイチジクにはとても大事に思えて、より強く頼りない掌を握りしめた。


 その手を引いて、イチジクは立ち上がった。少女は逆らわずにそれに従う。上手く立てないようなので、イチジクは空いている掌で彼女の頼りない身体を支えてやった。



「おいで。」


 イチジクはそっと呟いた。少女は瞼を伏せる。合わせて、また涙が少し零れてしまう。イチジクは、それを受け入れられた合図だと理解した。 



 そうして彼女は、ヤドリギに初めて抱き締められたことを思い出した。あの時、どうしても彼のことを一人に出来ないと感じたことを思い出した。今それと全く同じ感情を、イチジクは抱いている。そうして、また訪れてしまう別れに大いに傷付くことを予感した。………それは、充分に分かっているのだ。



(私が、一番に知っている。)


 でも、それでも。どうしても。



 少女の手を引き、イチジクは線路を逆方向に歩き始めた。未だに涙の止まらない彼女が、黙ってそれについてくる。雪は止まない。後から後から、星の光と共に青く静かな地上へと降り続いていく。



「名前、なんていうの。」


 イチジクは、出来るだけ優しい声で尋ねた。イチジクの掌を握る少女の手の力が、少し強くなった。



「…………トーコ。」


 少しの沈黙の後、ようやく彼女は名乗った。イチジクは無性にこの少女のことが愛しくて、ぎゅっとその掌を握り直す。



「そう……。良い名前だね。」


 少女はなにも応えなかった。二人の会話は、いつもイチジクが一方的に話すばかりだった。けれどイチジクはそれを寂しいと思ったことは無い。自分の話を聞いてくれる人がいるだけで、充分に救われた気持ちになることを、彼女は知っていた。



「よろしくね、トーコ。」


 やはり少女はなにも返さずに、ただイチジクとの距離を狭めて隣に並ぶ。

 冷たいレールの上を、二人は黙って歩んだ。二人分の長い影を銀色の雪の上に落とし、本当にゆっくりとした足取りで、二人は歩んでいく。

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