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雪の街
15/16

残された人たち 03

 ――――いつくしみ深き 友なるイエスは 罪 咎 憂いを とり去りたもう


 ――――こころの嘆きを 包まず述べて などかは下おろさぬ 負える重荷を

 


 この街の冬にも、雪が降らない時はある。今朝がそうだった。

 小さな聖堂の素朴なステンドグラスには、鈍い色をした日光がぼんやりと滲んでいる。

 それを眺めながら、イチジクは老いた修道女たちが歌う聖歌に耳を傾けていた。その隣の席では、キリアキがこくりこくりと船を漕いでいる。

 朝が弱いのに関わらず、キリアキは毎週末のミサの為に教会へと早朝赴くことを欠かしたことは無い。この街に住む多くの人間の例に漏れず、彼は敬虔な信者だった。



 今日のような雪が降らない日は、人々はミサが終った後に、教会脇の小さな庭で立ち話をするのが常だった。祭服を脱ぎ、ローマンカラーの上に深いカラス色のスーツを身につけた司祭を中心にして、人々は束の間の弱い日光を楽しんだ。


 イチジクが少女とも言える時代にこの最北の地に赴任してきたその司祭は、既に相当の齢だった。痩せ細った彼の身体は、乾いた空気を含んだ風が吹く度、飛ばされそうな程頼りない。


「あの人も年食ったなあ。」


 その気持ちは、平素より司祭を見慣れているイチジクよりもキリアキの方が強く感じるらしい。彼は真っ白い息と共に、呟くような言葉を吐き出す。


「もういくつになるんだろうな。」

「さあ……。でも、私たちよりも幾ばくか上だよね。」

「そりゃ相当の爺様だ」

「確かにねえ……。噂では、膝を悪くしたんで近々療養所へ移られるらしいよ。」

「そうか……。あの人がいなくなっちまうと、ここも大分寂しくなるな。」

「そうだね。列車を乗り継げば行けるらしいけれど、結構遠いところらしいから……」

「どこだ?」

「地名までは………。ただ、ここに似て小さな街だけど、ずっと温かい場所にあるようだよ。傍にミッションスクールがあるから、しばらくはそこで司祭を続けられるらしい。」

「………………温かい場所か。この街は、年寄りには寒過ぎるもんなあ。」

「……………………。」



 それに続けてキリアキが何を言いたいのか、イチジクにはよく分かっていた。けれどその意を汲むことはせずに、ただ口を噤む。

 やがて、司祭と同じく老いた修道女たちの手によって、紙コップに入れられたココアが信者たちに配されて行く。イチジクとキリアキも、礼を述べてそれを受け取った。紙コップは安く薄い作りをしていて、ココアの熱はすぐに彼らの掌へと伝わった。

 熱そうにしながらも、美味しそうにココアを飲むキリアキの姿を見て、イチジクは自然と笑ってしまった。キリアキが「何だよ」と訝しげにそれに応える。彼女は未だ少々笑ったまま、「別に」と短く言った。


「ただ……君は顔に似合わず、昔から甘いものが好きだったよね。」

「悪いかよ。」

「悪くないよ。…………美味しい?」

「まあまあだな。インスタントの粉使ってるからな。不味くなりようがねえよ。」

「そうかい。」

「…………………。だがなあ。うちの仕事場の近くの喫茶店の方が美味いなあ。」

「そりゃねえ。インスタントより不味かったら喫茶の商売人として失格だろう。」

「確かになあ…………。」



 それから二人は、黙ってココアを飲んだ。甘いココアだった。二人から少し離れたところでは、相も変わらず司祭を囲んだ信者たちが優しい表情で言葉を交わしている。

 一人の女性が、自身の子どもらしい幼子を司祭の方へと抱き上げる。司祭は皺だらけの顔に更に深い皺を作って笑った。そして幼子の小さな頭を撫でて、祝福を与える。その最中、幼子がぐずりだす。周りはその様子を見て、声を上げて笑った。



「……………………。一緒に住むのが、気が引けるんなら………。別の家を紹介するさ。」


 空になった紙コップを潰しながら、キリアキがふと呟いた。イチジクは、未だ半分程ココアが残っている紙コップの中を見下ろしたまま、それに耳を傾ける。

 やはり、避けることの出来ない話題だった。キリアキは、これが目的で今回この街に帰ってきたのだろう。イチジクを連れて、温かい場所へと戻る為に。

 彼の優しさも、彼の妻の心配りも、イチジクは充分過ぎる程分かっていた。だが、どういう訳か彼女はここを離れ難かった。本当に、どういう訳か……………。


「俺も……カミさんも。あんたをこんな寒い街でひとりぼっちにさせたくはないんだ。教師の仕事が続けたいんならこっちで仕事を探せば良い。こんな辺鄙なとこよりもゴマンと必要とされる筈だ。」

「私がいなくなったら………。ここの学校は………。子供たちは、どうなるの。」

「もう子どもの数だって数えるほどだろう。隣の街まで歩けばもう少し大きな学校もあるし、家庭教師を呼ぶ手だてだってある。どうにかして、皆生きていけるもんさ。なにも一人で背負うこたねえよ。」


 キリアキの声は静かだった。乾いた風と一緒にサラサラとして、固く雪で覆われた地表の上を滑って行くような。

 イチジクは、キリアキが必死でいることを理解していた。明日の晩の終列車を最後に、この街には数ヶ月ほど列車がやって来ない。街は真実の真冬となり、外界から取り残される。

 その前に、キリアキは妻子の待つ温かい場所に帰ろうとしている。イチジクを連れて。そのことを、色々な人が望んでいる筈だ。キリアキ、彼の妻、子供たち、トリイ、そしてリンコも。



 冷めたココアを飲み干して、イチジクは深い溜め息をした。それに合わせて、不透明な白色の空気が彼女の薄い唇から漏れる。


(…………そうだ。ここから私がいなくなっても、皆どうにか生きていけるもんだ。)



 イチジクがいなくなって真実に悲しい思いをする人は、もうとっくにこの世にいない。

 それでも、彼女はこの街を離れ難いのだ。イチジクはもう一度溜め息をする。


 それから二人はずっと黙った。老いた司祭を囲む人々の賑やかさだけが、遠い世界の音楽のように、穏やかに響いていた。





 やはり少女はずっとその場所で立ち続けていた。例によって、その日の終列車の時刻が過ぎても。

 刃物のように強く光る星空を見上げる彼女の頬を、粉雪がかすめて行く。今晩の雪は、ゆっくり静かに降り続ける優しい雪だった。



「今晩は。元気?」


 イチジクはいつもの如くその隣に立ち、同じようにして星空を見上げる。この街の星空の輝きと美しさは格別だ。世界のどこを探しても、こんなにも夜空が青く、星が白いところは無いだろう。……最もイチジクは、本当に数えるほどの回数しかこの街以外の星空を見たことは無かったが。



「はい、元気ですよ………。」


 黒いフードの下から、冬の星空そっくりの澄んだ深い青色の瞳が覗く。しかしそれは一瞬だった。すぐに彼女はフードを被り直し、目元を隠してしまう。



「とても……。元気とは思えない口ぶりをしてるね。」

「そんなことないですよ……。」

「………そう?」


 少女のか細い声に相槌を打ちながら、イチジクは持って来た紙コップを手渡してやる。彼女は無言で受け取った。紙コップからは、真っ白い湯気が立ち上っている。少女がそれを少しずつ冷ましながら口にするのを眺めて、イチジクもまたゆっくりと熱いココアを飲んだ。


「……………。私が淹れたものだから、君の口に合うかどうかは分からないけれど。」


 この少女は、ひどく無口だった。そしてイチジクはお喋りな性分だった。だから二人が出会うと、いつもイチジクばかりが沢山話す。今夜もそうだった。少女はただ黙っている。相槌すら無いので、イチジクの言葉を聞いているのかどうかも分からない。けれど、きっと聞いてくれている。イチジクはそう確信していた。


「私の周りの人は皆甘いものが好きでね……。私自身はそうでは無いんだけど………だから、昔からよくこうやって作ったね。インスタントよりは美味しいと思うけれど………。」



 イチジクは止めどなく言葉を続けた。ゆっくりと舞い落ちる雪が、彼女が持つ紙コップの中に入り、あっという間に溶けた。


 ……………イチジクがこの少女の元に足を運ぶのは、勿論彼女のことが心配で気掛かりだからだ。しかし段々と、それだけでは無くなってきているような。とくに今夜はそうだった。


(私は、誰かに話を聞いて欲しいのかもしれない。)


 イチジクの脳裏に、キリアキやトリイの説得が蘇る。それはイチジクを堪らない気持ちにさせた。



「私は………。恵まれているよね。」


 そして白い息と共にイチジクの口から零れた言葉は、少女へ話しかけたというよりは、独り言に近い響きを持っていた。

 ちら、と少女はイチジクの方へと視線を寄越した。痩せて背の高い老女は星の灯りに輪郭を縁取られ、少しの間黙っている。



「私は恵まれてるよね。一番大好きな人たった二人を満足に幸せにしてもやれなかったのに、みーんな私に良くしてくれる。この世の中、優しい人が多過ぎるんだ。それはとても素敵なことだよね。」


 そうして、イチジクは一息に喋った。少女は、彼女の言葉を咀嚼するようにこっくりとひとつ頷く。



「そう……。じゃあ、どうして泣くんですか。」


 少女の小さな問い掛けに、ただイチジクは力なく首を横に振った。それから黒いフードの少女を再び見下ろして、微笑む。



「君は、嬉しくて泣いたことはない?」


 イチジクの問い掛けを、少女は所在無さげに聞いていた。…まるで、なにかを思い出しているかのように。そしてあっさりと一言で答える。


「…………ないですね。」


 少女の言葉を聞いて、イチジクはやや寂しそうにした。しかしすぐに、気を取り直すように笑ってみせる。


「そう、なら覚えておくと良いよ。嬉しくて、堪らなく幸せな時にも涙は出るんだよ。」


 イチジクは…ただ、どうしようもなく、寂しかっただけなのかもしれない。

 寂しいだけの気持ちで、この街と共にずっと年老いていってしまった。けれど、ここで過ごした日々は決して無駄では無いのだろう。イチジクは今でも変わらずにヤドリギとリンコが好きだった。きっとこれからも。残された数少ない年月も、ずっと。



 粉雪は先程から変わらずに降り続けている。駅舎に一本しか無い街灯のオレンジ色の光が白い雪に反射して眩しく光る。

 …イチジクは、今一度少女に自身の家に来ないかと誘ってみた。少女は迷うこと無く首を横に振った。予想通りの反応に、イチジクは少しだけ悲しい気持ちになる。しかし今の彼女には、少女の気持ちがなんとなく分かる気がした。そうして、その上でもイチジクはこの少女を放っておくことが出来なかった。


 イチジクは少女から空の紙コップを受け取り、自分のものと合わせて傍の屑籠に捨てた。捨てながら、ごく小さな声で「それなら…いつまで、ここにいるの。」と少女に尋ねてみる。

 少女もまた小さな声で「分からない」と答えた。「分からない……。」と繰り返して。


「私はただ……。待ってるだけなんです。きっと迎えに来てもらえることを……。ただ………。」


 それに続いた少女の声はあまりにも小さかった。小さ過ぎて、イチジクには届かなかった。

 オレンジ色の街灯が短く点滅して、また弱々しくオレンジ色の光を投げ掛け続ける。イチジクは煙草を吸った。辺りはしめやかで、静かだった。動くものは、規則的に落ちてくる雪と、イチジクが燻らせる煙草の煙だけだった。

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