残された人たち 02
「……………………。」
居たたまれない気持ちになって、イチジクは少女の傍までそっと距離を詰める。
やはり、彼女は居た。先程と同じように、自らの瞳と同じ色をした空を見上げている。
「…………。寒い、ね。」
なんと声をかけて良いか分からず、イチジクはそれだけ言ってみせた。
彼女はゆっくりと視線を下ろし、それをイチジクへと向ける。とっくに終列車は通過していた為、辺りは静かだった。人の気配もまるで無い。
「…………はい。寒いですね。」
とても………。と囁くように付け加えた彼女の唇は、この寒さの中でも色を失わずふっくらと桜色だった。
しかし、皮膚はまるで色彩を欠いていた。生来のお節介焼きであるイチジクは、なんとも言えず彼女を放っておけなくなる。出来るだけ優しい声で、「帰る家はどこかな?」と尋ねてみる。
イチジクは彼女の返答を待つが、その赤い唇は閉ざされたままだった。仕方が無いので、一方的ながらこちら側から言葉を続けてみる。
「もし……終列車を逃してしまったのなら、私の家に一晩泊まって行くと良いよ………。」
少女はやはりなにも言わずに、ただイチジクを見つめ返すだけである。イチジクは何故か慌てて「いや…私は怪しい者では無いんだよ、ただ……ここはとても寒いし……」と弁明じみた発言を付け加える。しかし依然として少女の表情が変わることは無かった。
(…………………………。)
なんだか弱ってしまったイチジクは、ポケットをまさぐって煙草を取り出す。
少女に対して「煙草吸っても、大丈夫?」と尋ねると、彼女は少し首を傾げて考えるような素振りをした後に「どうぞ」と簡潔に答えた。
ちらちらと粉雪が舞う暗い空に、イチジクが吐く紫煙が漂う。彼女が少女の方をちら、と見ると、その澄んだ瞳は自身の掌中の紙巻き煙草を捕えていた。そこには小さな光が赤く灯り、細い煙が立ち上がっている。
イチジクは悪戯っぽく笑っては、フード越しの彼女の頭を軽く叩くように撫でてみた。
「物欲しそうに見ても、君にはあげない。」
急に触れられたことに驚いたのか、少女はフードを片手で抑えてはイチジクのことを見上げる。きょとんとした表情をしていた。ようやく年相応の反応を見れた気がして、イチジクは安心したように更に目を細めた。
「…………いえ。少し珍しいな…って思って。………煙草が。」
少女は用心深くフードを被り直して、ぽつりとそう零す。
「………珍しい?君の周りには吸う人がいなかったの。」
「はい、そうですね。」
「そう……。大丈夫かな。苦手じゃなかった?」
「ええ、平気ですよ。」
「それは良かった。」
「それに……私のお父さんも煙草を吸っていたので。懐かしい気持ちも………、多分。」
「多分………?」
「なんとなく………。今、そんな気持ちがしただけです。………多分。」
少女が多分、と繰り返すので、イチジクもまた…多分。とおうむ返した。そして少女がまた口を噤んでしまうので、辺りはまたしても静寂した。
イチジクは時間をかけて一本の煙草を味わう。寒い夜の煙草ほど美味いというのが、彼女の持論だった。
「君は…こんなところで何をしてるの。」
すっかり短くなった煙草の火を靴の裏でもみ消しながら、イチジクは少女に尋ねた。
尋ねながら先程と同じように夜空を見上げてみた。冬の大三角形やリゲルが強く輝いている。
少女は対照的に黒く冷たい線路に視線を落としていた。ごうと一迅の風が吹き、その上に細かい雪の結晶を散らしていく。
「分かり……ません。………分からないです。」
ようやく、少女は返答する。しかしその言葉は答えにはなっていなかった。
イチジクは夜空を見上げたままで、「………そう?」と返した。
「でも………。もしかしたら、人を………待っているのかもしれません。」
消え入りそうな声で、彼女は続ける。
イチジクの胸の内はまたしてもやりきれなくなる。そうして、「今晩の列車はもう終っているよ……」と呟いた。
「ええ。………でも、もしかしたら明日の始発で、来てくれるかも…しれないから。」
「それなら、始発の時間まで私の家で休みなさい。確かココアがまだあったと思うから…温まって、いけば良い。」
吸い殻を指先で弄びながら、イチジクは提案した。しかし少女は応えなかった。
…………イチジクは、ひとつ溜め息する。紫煙のような濃い白色の息がその薄い唇から吐き出された。
「…………。これ、食べなさい。」
イチジクは少女に向き直ると、ポケットからビスケットの袋を出しては渡した。キリアキが持って来てくれたもののうちのひとつだった。
黒い線路からイチジクへと視線を戻した少女が、またきょとりとした表情でそれを眺める。そうして…少しの逡巡の後に受け取った。イチジクは穏やかに笑って、再び少女の頭の辺りを撫でる。
教師という職業柄か、イチジクはこの齢ほどの少年少女が好きだった。そして……もしリンコとトリイに子どもがいたら、今頃はこの年程になっていただろうと考える。
「私の家は、そこの大通りを右に折れて、また突き当たりを右に折れた緑の扉の家だよ。………何かがあったら、おいで。」
それだけ言い残し、イチジクはその場を後にした。少女は、遠ざかる老女の鶴のように細長い後ろ姿を見送る。姿が見えなくなるまで。そうしてまた、自身の瞳と同じ色をした夜空を見上げ続けた。
*
その夜、イチジクは何故か眠れなかった。
それならば無理に眠ることは無い、とベッドの中から起き上がり、灰皿を引き寄せてはまた一本、煙草に火を点ける。
カーテンを開けて暗い夜空を眺めれば、銀色の星灯りを反射させた雪が細かく舞い散っていた。
……………ここの街の冬は長い。
毎年、毎年、降り積もる雪を眺めて…その静けさに耳を傾けては過ごしている。そうしてまた、一人で年を取っていくのだなあ。とイチジクは実感する。
(………私が今まで生きてきたうちで、一番哀しかったのは間違いなく娘のリンコの死だった。)
ふいに、そんなことを考える。…………夫のヤドリギの死も勿論哀しかったが、どこかで覚悟があったのかもしれない。それに、そのときのイチジクには小さなリンコがいてくれた。彼がいなくなっても、彼が残してくれたこの可愛らしい命と共に生きていけるという希望があった。
だから…………。彼女もヤドリギと同じ病気だと分かり、日々衰弱していくのを隣で見ていることしか出来ない生活はとても苦しかった。哀しかった。
トリイがリンコのことを愛してくれているのを知ったときも、嬉しい以上に哀しかった。自分と同じように、愛している人間と長く添い遂げられない彼の気持ちを思って、とても辛かった。申し訳ないと思った。
(私の所為なのか)
こんな眠れずに暗い冬の夜は、いつもそんなことを思ってしまう。
古く草臥れた家の窓ガラスもまた、冷たい夜に浸されて昏々とした色となっていた。そこに、皺だらけでやつれ果てた自分の顔が映る。
(私が………無責任に、ヤドリギの気持ちに応えてしまったから…。)
皆、二人の結婚を止めた。薄氷病の原因の多くは遺伝に依存している。幸せな家庭を築ける筈が無いと。
(でも、私だって彼のことを愛していた。一緒にいたいと………。ずっと、せめて………)
窓ガラスに額を擦らせる。その後に深く溜め息をすれば、そこは白く曇った。
(全部、間違えだったのかしら)
窓ガラスから身を離し、ほんの少し目を伏せて考える。
一人になってしまった日から、繰り返して思うことだ。あの時……ヤドリギへの気持ちに気付かないふりをしていれば…とか。彼の抱擁に応えなければ…とか。ちょっと思いとどまって、リンコを………
(駄目だ)
そこまで考えると、けわしい苦しみがイチジクの胸の内から湧き上がる。力なく首を降って、項垂れる。
ごう、と音がして強い風が窓ガラスを打った。しかし暗い部屋の中は相変わらずの静寂で、色々なものが雪と同じように銀色の光に輪郭をなぞられている。
静かな夜だった。この街の夜は、静かで、安らかで、綺麗過ぎるとイチジクは思った。自分がこの街から離れられない理由は、それだけで充分過ぎる程に。
(駄目だ………)
それ以上を、イチジクは考えることが出来なかった。どんなにリンコとの別れが哀しくても、辛くても。彼女の存在を否定することだけは出来なかった。
(だって、私はリンコのことを本当に愛していた。この世で一番に愛した人との子どもを……本当に……)
短い年月を、長い痛みと苦しみを伴う病の中でしか生かしてやることが出来なかった。
トリイと結ばれてから手に入れた束の間の幸せも、本当にあっという間に終ってしまった。
(あの子は、それで幸せだったのかな………)
考えても栓の無いことと分かっていても、後悔はいつでも彼女を蝕んだ。
イチジクはいつだって悲しかった。リンコに、ヤドリギに、いつだって会いたかった。けれどもそれは許されないことを知っていた。知っていた………。