残された人たち 01
その日も、街は白く乾いた雪が降り続いていた。
私はかじかむ手に息を吹きかけ吹きかけ、駅舎にぼんやりと立ち尽くしては深い青色の空を眺めた。
(オリオンの右肩から……おおいぬ座にかけて。シリウスから、こいぬ座まで………)
暇を持て余す傍ら、夜空に冬の大三角形を描いてみる。星空の遠く下を、私の吐く白い息が過って行った。
はあ、と一際大きく溜め息してみる。「寒いなあ。」と純粋な感想を口にした。
「ええ、寒いですね。」
私の、あくまで独り言と思っていた言葉に落ち着いては可憐な声が応える。
え?と思った。てっきりこの駅舎には自分ひとりだと思っていたのだ。
「本当に………。寒いですね。」
声がした方へと視線を落とすと、存外近くに彼女はいた。自分と同じように冬の星空を見上げ、硝子玉を転がすような美しい声で言葉を続けていく。
少女の表情は、コートについた黒いフードの下に隠れてよく伺えなかった。けれど、とても整った容姿をしていることが確認できる。白い頬とふくよかな紅い唇。一番美しい、少女の時期にしか保てない瑞々しい美しさが、彼女の皮膚には宿っていた。
「…………ここから、更に北に行く列車はありませんか。」
少女はそっと視線を空から私の方へと向けてくる。僅かに青みを帯びた黒色の虹彩。冬の夜空に似て、ひどく澄んでは寂しそうな色をしていると………、そんな印象を、抱いた。
「無いよ。ここが全部の列車の終着駅だね。」
私は微笑んで、彼女の質問に応えた。その間も雪は二人の間を埋めて行く。深々、深々と。単調に、広漠に、あらゆるものの音を呑み込んでしまうような沈黙をなして。
少女は透き通った瞳で私のことを見つめる。その際に、深い影が彼女の頬へと落ち込んだ。私と違って皺ひとつ無い、触れば心地良く柔らかであろう頬に。
「………船を使えば、もっと寒いところへ行けるけど。あそこはもう人間が生活出来るような場所じゃないよ。たまに物好きな学者がその船に乗っては何かしらの発見を持ち帰ってくるけどね。
信じられない話だけど、北の果ては太陽が沈まないそうだ。……まあこの街も夏は夜になっても明るいけれど。それの比では無いらしい……」
ぽつぽつと言葉を零しながら、私はポケットから銀紙に包まれたチョコレートをひとつ取り出して少女に与えてやろうとする。しかしそれはやんわりと拒否された。それをちょっと残念に思いながら、茶色い革手袋で覆われた指先で銀紙を剥いて、自分の口の中に放り込んだ。色濃い甘さが舌の上にゆっくりと広がっていく。
「そこは一面が氷で覆われた大地だから穀物も育たない。ああ、鉱物はとても珍しいものがあるらしいけれど。でも人間は石を食べても満たされないからね。
だから……。一般人が至れる場所としては、ここが最北だろう、と。」
質問をされると、遂々返答が冗長なってしまうのは教師としての仕様が無い性分だろうか。それを思って私はほんの少し自嘲的な笑みを浮かべるが、少女は私の答えを最初から最後まで随分と真剣な面持ちで聞いていてくれた。
「そうですか………。」
そうして私の言葉が終ったのを理解すると、なにかを納得したかのようにそっと瞼を下ろす。長い睫毛の影が、それに合わせてゆっくり動いた。
少女は今一度瞳を開ける。やはり、透き通って美しい色をしている。
「ここが………。世界の、端っこ。」
再び自身の瞳と同じ色をした夜空を見上げ、彼女は白い息と共に呟く。その声色には、なんとも言えない感慨がこめられていた。
雪の街‥残された人たち
悲鳴のような音を立てて、列車が駅へと到着した。
辺鄙なこの街で降りる人物は少なく、黒い車体から吐き出された人物は疎らであった。その中から目当ての人物を見つけたイチジクは、懐かしさに目を細めながらゆっくりと彼の元へ歩を進める。
「いやあ、相変わらずここの寒さはひどいな。お前、そんな薄着でよく平気だよ。」
キリアキもまたイチジクに気が付き、真っ白い息をひとつふたつ吐きながら早口に言う。
「嫌だねえそんなこと言って。年中強がって短パン履いてた君の台詞とは思えない」
「昔の話はやめろよ、恥ずかしい。」
キリアキは顔に沢山の皺を作って快活に笑いながら、イチジクの腕の辺りを叩いた。衝撃が彼女の重たいコートに吸われて、ぼすんという鈍い音がする。それに合わせてイチジクがよろめくので、キリアキは思わず悪い、と謝った。
「………。イチジク、お前痩せたか?」
「そう言うキリアキ君もね。」
「太る暇が無えんだよ。どっかの誰かが田舎街から突っ込んできた野郎が悉く使えなくてさ。」
「君だってその田舎街出身じゃないか。それにそう言ってやるない、ハナイ君は中々優秀な子だよ。」
「ハナイじゃねえよ、トリイだ。義理とは言え一応息子なんだから名前くらい覚えてやれ。」
「覚えているさ。」
「嘘付け。」
「わざと間違えているだけだよ。」
「………どっちにしろあまり褒められたことじゃねえなあ。」
二人はひとしきり笑い合ってはお互いの口の減らなさを確認する。同じこの街で生まれ育った二人は親友同士だった。一癖二癖強い性質故に若い頃はよくよく衝突もしたものだが、今となってはそれも良い笑い話となっている。
「………とにかくここは寒くてたまんねえ。早いとこ移動しよう。」
「あい分かった。疲れているところを立ち話させて申し訳なかったね。」
「いや構わねえよ。お前の話が馬鹿長いのは昔っからだ。」
「そうかな。」
キリアキが抱えている二つの黒いトランクのうちひとつを持ってやりながら、イチジクは何かを思い出したように辺りを見回す。彼女のその様を見て、キリアキは「どうした。」と不思議そうにする。
「いや……、ね。女の子をさっき見たんだよ。」
「女の子?」
「うん。ここいらじゃ見ない子だったから…どこか余所から来たんだろうね。」
「余所から?こんな辺鄙なとこになにしに来るんだよ。」
「さあ……。多分親戚にでも会いに来たんだろうね。もう遅いから、良かったらついでに送ってあげようと思ったんだけど…………。」
イチジクは今一度辺りを見渡すが、やはり少女のか細い影はどこにも無かった。彼女は首を捻り捻り、しかしこれ以上キリアキを待たせるのも悪いと考えて、「まあ見当たらないなら仕様が無い」と零しては再び歩き出した。
*
「………お前よお。あいっかわらずものを片すってことが出来ねえ婆だなあ。」
「片付いてなくてもなにがどこにあるか分かれば良く無いかな。」
「そう言うところが駄目なんだよ。なんでお前みたいなくたびれ果てた婆からリンコみたいな良い子が生まれたんだか…………」
そう言って、キリアキは心弱く笑ってみせた。それから「悪いな、余計なことを言ったか」と小さく付け加える。
イチジクは椅子の上に積まれた書籍を床に下ろしながら、「いや構わないよ。」と淡く笑って応えた。
「もう随分経つもの。気にしなくて大丈夫だよ。」
そう言って、椅子の上にクッションをひとつ乗せてキリアキが座る為の座席を作る。彼は遠慮なくそれに腰掛けさせてもらいながら、ひとつ溜め息をした。
「…………寒いなあ。ここは。」
「そうかい。ストーヴの火をもう少し強くしようか。」
「ああそうしてくれると有り難い。」
「都会に出てからキリアキ君はすっかり寒がりになったなあ。」
「当たり前だ。ここは寒いし…そんでもって、暗過ぎる。」
「だけど都会より星は明るいよ、きっと。」
イチジクは苦笑しながら、ストーヴの前に屈んで火を強くする。寸胴な鋳鉄製のストーヴの中では赤々と石炭が燃えている。………もう、キリアキたちが暮らす都会ではあまり見ないタイプのものだった。
「………星が明るくたって、ここは夜が長過ぎる。………俺たちみたいな年寄りが生活していくには辛いところだ。」
そして、キリアキは何気ない口調で切り出してみせる。立ち上がったイチジクが、応えるように彼の方へゆっくりと振り向いた。赤く暖かなストーヴの火が、その顔面に浮かび上がる皺をより色濃く見せている。………彼女も随分と年を取ったな、とキリアキは理由も無い感慨にふける。
「俺もまあ………。賑やか過ぎる都会はあんまり落ち着かないんでな。トリイが一人前になったらちょっとした郊外へ越すつもりだ。前、下見に行ったら中々に良い場所だった。気候も穏やかだし、住んでいる連中も気持ち良い奴らだったから………。」
「………それは良いね。息子さんや娘さんも一緒に?」
「いや、かみさんと二人でだな。」
「はは……、なんだか新婚に戻るようでわくわくするね。」
「気色悪いこと言うなよ。」
キリアキのあんまりな反応に、イチジクは笑ってしまう。そうして自分は床の一角に積まれた大振りな書籍たちの山の上に腰掛けた。座るときに膝が痛むのか、少々顔をしかめながら。
「…………でも、仕事は続けるんだね。」
イチジクがキリアキを見上げるようにして尋ねれば、彼は当たり前だとでも言うように頷く。
「………あの工房は俺が築いた唯一無二の城なんだ。………そう簡単に離れることは出来ねえよ。」
「そう………。」
「今住んでいるところよりは…遠くなってちょっと億劫になっちまうが…通えないことは無いし。」
「うん。」
「…………トリイが暮らしているところにもすぐ行ける。」
「……うん。」
「リンコがいる墓所も列車に乗ればすぐだ。」
「そうなんだ……。」
「だから、お前さえ良ければ、その…一緒に、来ないか。」
キリアキが、意を決したように零した言葉の背景で、石炭がぱきんと燃え落ちる音がした。
…………なにを言われるかイチジクはなんとなく予想していたようだが、やはり驚いたように数度瞬きしてから「随分急だね。」と呟く。
「全然急じゃねえよ。前からこっちに来いっていつも言ってるだろ。……トリイだって。」
「そうだったかな………。」
イチジクは、キリアキから視線を外しては窓の方を眺める。青い闇の隙間を埋めるように白い雪の結晶が舞っていた。何かを考えているのか、その視線はぼんやりとして焦点が合っていなかった。
少しの間、部屋は沈黙が支配した。………手持ち無沙汰になったらしいイチジクが、ポケットから煙草の箱を取り出し、トントンと弾いては一本頭を出したものを口にくわえて火を点けた。
それを眺めながらキリアキは、「あまり吸い過ぎると肺を悪くするぞ」と忠告じみたことをする。それにイチジクは、ハッキリとしない生返事のみを返した。
「まあ……君もあと、数日はここにいる訳だし。もう少し考えても良いかな。」
煙草の煙を器用に輪っかにして吐き出したあとに、イチジクはのんびりとした口調で言う。
「ああ。構わんよ。」
キリアキもまた、ゆっくりとそれに返した。一言ずつ確かめるように。
「……夕飯にしようか。どこかに食べに行くかい。」
イチジクは煙草をくわえたままで、静かに立ち上がりながらキリアキに提案した。膝が痛まないように極力気をつけているらしい。
「そうしよう。……明日はなんか作ってやるよ。」
キリアキは彼独特の快活な笑い方で返答した。つられてイチジクも笑顔になる。
「その為だけに……あんなに食材を?」
それから、キリアキが持ってきた大きな荷物の方へちら、と視線に移す。イチジクの応えに、彼はなんとなく照れ臭そうにしながら後頭部をかいた。
「いや……それはかみさんに持たされた。お前がろくでもないもんばっか食ってるんじゃないかと心配してたよ。」
「相変わらずあの人はお母さんみたいだなあ。」
イチジクの感心したような言葉に、キリアキはまたしても薄くなった自身の白髪の辺りをかいてみせた。
*
(しかし…………)
アルコールを入れた所為か旅の疲れの所為か、あっという間に寝こけてしまったキリアキを適当に空き部屋……元はリンコの部屋だった……のベッドに押し込んでから、イチジクは一人台所で立ち尽くしていた。時刻はもうすっかり遅く、雪に閉ざされた彼女の家のしめやかさはひとしおだった。
(これだけの量の食べ物は……。流石に私一人には多過ぎる)
毎度毎度キリアキはこの街を訪れる度に、沢山の土産物をイチジクへと持って来る。彼の伴侶の心配性も相まってか、その量はなかなかのものだ。
イチジクは、遠い地に自分を思いやってくれる人がいることに、なんだかこそばゆい嬉しさを感じつつも…少々弱り果てていた。
(いつもは学校で子供たちにあげたりするのだけど……。生憎今は冬休みだ、それも出来ない。)
イチジクは腕を組んでは首をひねる。ひねった先で視界に入るのは分厚いカーテンに閉ざされた窓。
狭く開いたその隙間からは、如何にも冷たそうな夜空が覗いている。ふと彼女は、先程見た少女はちゃんと屋根があるところに帰り着いたのだろうかと漫然とした考えを抱いた。
(……………………。)
まさかな、とイチジクは思う。まさか、今の時間まであの駅舎にいる訳はあるまい。
(だが………。しかし。)
ひとつ溜め息を吐いてから、イチジクはコートとマフラーを取りにクロークへと出向いた。……こういうお節介もまた、自分の仕様の無い性質だなあと思いながら。