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空に近い都市
12/16

婚約者と妹 04

 カタリナは、店の中に広がる真っ青な空を眺めていた。空は、空の空。一切の空。その中で、淡い色が組合わさったステンドグラスの窓が浮かぶ。

 ふと、背後から気配がする。カタリナは思わず強く目を瞑った。


(いけない)


 また、勘違いをしてしまっている。忘れようと決心してここに来たというのに。震える声で愛しい人の名前を囁こうとしてしまっている自分を、強く叱った。


「おはよう、カタリナ。」


 やはり、かけられた声は予想していたものと違ってか細い、弱い風に揺らされる葉のような響きを持ったものだった。カタリナが何も応えずにいると、ゆっくりと細長い腕が後ろから回る。「……おはよう、ヨゼファ……」やっとの思いで、カタリナは呟いた。


「……珍しいわね。ヨゼファがこの時間に起きてるなんて。」


 抱き締められたまま、なんでもないように、いつものように素っ気なくカタリナは言い放つ。後ろでヨゼファはくっくとおかしそうに笑う。少女のように無邪気に。


「ひどいなあ。私はいつだって起きてるよ。」

「嘘言いなさい……。いつも床で寝てるじゃない、あれ程寝るならベッドで寝なさいって……」


 ヨゼファの腕を振り払い、カタリナは後ろを向く。相対した瞳は、いつもと変わらず穏やかで優しい。色眼鏡越しでも、ヨハンと同じ色をしていることがよく分かる。



「うん……、そうだね。」


 ヨゼファは微笑んで、カタリナの隣に並ぶ。「見て」と囁かれるので、カタリナは再び青い壁画を眺める。透き通る水色に、白い雲が浮かんでいる。その中で浮かぶ窓は、まだ弱い朝の光の粒を店内に散らしていた。足下には鮮やかな色彩が雨のように次から次へと注がれる。美しい景色だと、カタリナは素直に思った。

 どこまでも透明な光は、この壁画からも伝わって来るようだった。ただ、モルタルの上に顔料で描かれただけの空なのに、その向こうには冷たい壁しかないのに。この絵を通ってヨハンに会いにいけるような…そんな気持ちになった。

 カタリナは、ヨハンに会いたかった。いつも思っていたことだった。けれど、今朝はそれが殊更だった。


「つい数時間前に仕上げたんだ。お店開店するまでに片付けないと、きっとカタリナに怒られるって思ってさ…だから急いで片付けして机とか元に戻して………良かった、間に合って。」


 ヨゼファは朗らかに言った。その横顔はこの壁画のように、今朝の明るい空のように迷いが無かった。やり切った人の顔だ。毎日を精一杯生きて、自分にも人にも優しく出来る…そんな人の顔だった。カタリナは、こういう顔をする人をよく知っていた。そして自分は、彼のそういうところに憧れて傍にいたのだと、今更ながら思い知った。


「だから……今日は、珍しく起きてるのね。」


 ふとすれば声に涙の気配が混じりそうになるのを悟られないように気をつけながら、カタリナは零した。ヨゼファは、あっ、と小さく声を上げた後に少しばつが悪そうにしながら「そんなこと…は、」ともぞもぞと呟く。


「……なんでベッドで寝ないのよ…。あんたがひどい夜型だってことは知ってるんだから、寝てても別に私は怒らないわよ。」

「だから、起きてるよ……。」

「またそういうこと言うのね……。強情。」


 カタリナは、ぺしっとヨゼファの腕を叩いた。いて…と呟いて、彼女は叩かれた場所を擦る。


「起きてるっていうか……。寝たくないだけなのかもね………。」


 それからヨゼファは、そっと囁いた。どういうことかと、カタリナは視線で尋ねる。彼女は少し口ごもってから、再び唇を開いた。


「夜さ………。一人でいて寝るのが…私、少し怖いんだ。起きたらまた一人じゃないかって。兄さんがいなくなっちゃった時みたいに…。カタリナも、開店時間が過ぎても来なかったらどうしようって、いっつも考える。それを思うと、夜寝るのがどうしても怖くて仕様が無いんだ……。」


 小さな声でそこまで言うと、ヨゼファはちら、とカタリナのことを見下ろす。それから、ゆっくりと微笑んだ。


「今日も……カタリナがここに戻ってきてくれて良かった。」


 心から安堵したように、彼女は言う。…カタリナはなんとも言えない気分になりながら、ヨゼファをじっと見つめた。どう返して良いか分からなかったのだ。…ヨゼファが、心の弱さを漏らすのを初めて聞いたから。あれ程仲の良かった兄に置いてかれた寂しさを、不安を、彼女の口から初めて聞いたから……。


 カタリナは視線を再び壁画に戻す。そうして話題を逸らすように、ヨゼファに尋ねた。


「ねえ……ヨゼファ。あんた、もう色は見えないのよね。」

「うん……。少しは分かるけれど、もうほとんど。」

「それなのに、何で空が描けるの?こんなに鮮やかな青色を………」


 隣でヨゼファが笑う気配がした。何かと思うと、そっと頬の辺りに触れられる。そうして彼女はカタリナの両頬に手を添えて、じっとその瞳を覗き込んできた。


「だって、空の色はカタリナの目の色でしょ。兄さんがカタリナの話をするときにいっつもそう言うから、それだけは知ってたんだ。」


 色ガラスに染められた光の粒は、ヨゼファの後ろ、白いカップが並ぶ棚までやってきていた。……朝は色彩の時間だ。一番空に近いこの都市で、一番光が美しく輝く時間。



「兄さんが死んで…それから色が見えなくなって、私すっごく哀しかった。きっと何回人生を繰り返しても、あのときが一番哀しかったと思う。でも、初めてカタリナに会ったとき…この人と同じ色をした空なら描き続けられる…って、きっと間違わないって思えたから。」


 カタリナの頬から、そっとヨゼファが掌を離す。青白い手をしている。鮮やかな色彩の中で、彼女の不健康な皮膚の色は際立っていた。


「あれからずっと…一緒にいてくれてありがとう、カタリナ。」


 ヨゼファの手が、カタリナの指輪がはまっていない左の掌を取る。ゆっくりと握られた。その感覚が懐かしくて、カタリナは胸の奥が強く押しつぶされるような気持ちになる。


「私、カタリナのこと大好きだよ。」


 屈託なくそう言ったヨゼファの笑い方は、ヨハンとまったく同じものだった。(ああ)とカタリナは思う。それから、ゆるゆると首を振った。(馬鹿ね)と胸の内で呟いた。(みんな馬鹿ね)と。ヨゼファも、ヨハンも、自分も………。



「あれっ…………。」


 ヨゼファの、少し焦ったような声がする。カタリナはうんざりとした気持ちで頬を滑った涙を拭いた。本当に……何故、余計なときに限って泣きたくなるのだろう。


「大丈夫…?どっか痛いのかな……」


 ヨゼファはおろおろとしながら、そんなことを呟く。「別にどこも痛くない……」とのカタリナの返事に、彼女は更に困ったような表情になる。


「どこも痛くないから……。黙って、傍にいなさい。」


 カタリナは一際強くそう言った後に、ついに小さく声を上げて泣き出した。ヨゼファは理由の分からない友人の涙にひどく狼狽していたが、やがてカタリナを恐る恐る抱き締めて、あやすようにその背中を擦った。


「よし、よし。」と、自分より随分年下の人間に慰められながら、カタリナ昨晩毛布の中でしたように嗚咽した。でも、今朝の涙と昨晩の涙は違うものだ。昨日のけわしさが、今朝の涙ですっかり溶け去ってしまうような気持ちがした。



(ヨハン………。)


 ヨゼファの腕の中で、カタリナは愛しい人に呼びかける。彼女の兄の名を、繰り返し呼んだ。



(一度でも、貴方を忘れようと思ってしまってごめんなさい。)


(貴方の妹を、見捨ててしまおうと思ってごめんなさい。)



 ヨハンはきっとこの声を聞いて、いいよ、いいよ。気にすんな。といつものように朗らかに笑ってくれている。それがカタリナには分かった。怒ることをしない人だから。どんな時にも人を否定せずに、一緒に悩んで苦しんでくれる、優しい人だったから。



(私を愛してくれてありがとう。)


 あんただって、俺のことを愛してくれたろ。すっごい嬉しかったよ。


(ヨゼファを優しい子に育ててくれてありがとう。)


 俺は何もしてねえよ。ヨゼファはただ、お前のことが好きなだけだよ。


(私、貴方が好きだから……忘れなくて、良いよね。)


 良いよ。俺もカタリナを忘れないからさ。


(私のこと、待っててね。)


 待ってるよ。だからなるべく、ゆっくり来いよな。


(ありがとう。)


 うん。


(ありがとう………。)


 ………………うん。



 窓の向こうで、緑の樹々が風に煽られて優しく揺れている。空はいつもと変わらず美しく、透き通っていた。カタリナは、やはり寂しかった。ヨハンがいなことが堪らなく哀しかった。けれど、それで良いと思った。この胸の痛みが、きっと自分のこれからに光を与えてくれると。ヨゼファのことを強く抱き返しながら、そう思った。





「………私も、ここに住もうかしら。」


 開店の準備に勤しみながら、カタリナがぽつりと言う。床掃除がなってないと彼女から叱られてしょんぼりと床を磨いていたヨゼファが、それに反応して顔を上げた。


「元からここは二人で住む為の家でしょ。私も職場と家の往復が無くなって楽になるし……」


 カタリナはヨゼファの方は見ずに料理の下ごしらえをしていた。パンの焼ける香ばしい匂いが店内には漂っている。


「それに、私がここに住めば…あんたの不安も解消するし?」


 ちょっと悪戯っぽく言いながらようやく顔を上げれば、ヨゼファは驚いたように瞳はぱちぱちと瞬きさせている。


「なによ、迷惑なら遠慮なくそう言いなさいよ。」

「いっ、いや……そう言う訳じゃ無くて………」


 雑巾をぎゅっと握りしめて、ヨゼファは吃りながら言う。こころなしかその頬は紅潮していた。


「むしろ、逆……?すっごい嬉しいっていうか…良いのっていうか………」


 あたふたとしながらそう零すヨゼファに、カタリナは「手が止まってるわよ、このままじゃ開店に間に合わないわ」と間髪入れずに言った。


「別にあんたの為じゃないの。毎日寝不足で幽霊みたいな顔色した人に店に立たれたら営業妨害も良いところだわ。店と、私の為。分かってる?」

「あ…うん。はい。」


 ヨゼファは若干項垂れながら作業に戻る。カタリナは呆れたように溜め息してから…ちょっと、笑った。



(そう……これは、きっと私のため。)


 野菜を刻みながら、カタリナは考える。自分の未来を。これからも、ヨゼファの、ヨハンの傍にいる自分を。


(ヨハン…。私のこと、見ててね。)


 それで、いつか会えたときに、もう一度私に優しくして。


 ね………ヨハン。





「今日は開店が遅かったなあ。」


 パイプをくわえて、老人は新聞に目を落としながら言った。


「ええ。すみませんね。」


 カタリナは珈琲を給してやりながら、申し訳無さそうに謝る。


「まあ良いんだけどな。ただ俺たちの仕事は朝早いからよ、この時間に開けててくれるここは重宝してんだ。ようやく珈琲も飲める味になったしな。」

「………、……。最近、工房はどうですか。」

「あー、ようやくトリイが使えるようになってきてな。あいつに仕事全部おっ被せて、俺も早いとこ隠居してえよ。」

「またそんなこと……。隠居なんか退屈でやってられないクチでしょ、キリアキさんは。」

「まあ…それはそうなんだが。」


 老人は顔を上げ、確認するようにステンドグラスを眺めた。

 そうして「……一枚ヒビが入ってるな。近いうちにトリイを直しに寄越すよ」と呟いた後、煙草の紫煙を長く吐いた。


「………お、壁画が修繕されてるな。」


 キリアキの言葉に、カタリナは嬉しそうに微笑む。


「ええ、ヨゼファが昨日直してくれて。」

「ふうん…ヨゼファは相変わらず引きこもってんのか。」

「そうですね。今は寝てますよ。」

「……へえ、芸術家は生き方が自由で良いよねえ。」

「キリアキさんだって芸術家でしょ……。ここの都市じゃキリアキさんの見事なステンドグラスを色んなところで見ますよ。」

「俺は芸術家じゃねえよ、職人だ。」

「はあ………。」


 芸術家と職人の違いがカタリナにはよく分からなかったが、それ以上は何も尋ねずに口を噤んだ。

 キリアキはステンドグラスを通る光をじっと眺める。それから「良い窓だ」と呟いた。


「あら、自画自賛」とカタリナがおかしそうにすれば、キリアキも悪戯っぽく笑った。


「良いじゃねえか。良い窓がある店は良い店なんだから。」


 その言葉に、カタリナはそっと頷く。しばらく、二人は壁画と窓を眺めた。窓の中も、外も空だった。無限にどこまでも続くような、鮮やかな青色をした。


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