婚約者と妹 03
「あ、起きた。」
もぞりと、机に突っ伏していた状態から起き上がったカタリナは、毛布を持ってこちらを覗き込む長い影になんとはなしにデジャヴを感じる。
「疲れてるね、カタリナ。」
毎日お疲れ様、と言いながらヨゼファはカタリナの向かいに腰かけた。
「いえ……疲れてるという程じゃないわ。」
「そう?それなら良いんだけど。」
辺りはすっかり夜だった。店内の空気はやはり青く、その中でも青い壁画、伴ってステンドグラスが浮かび上がっている。
「ごめんなさい……。長く居座っちゃったわね。」
「全然大丈夫だよ、お店は私より、むしろカタリナのものって感じだし。」
それに明日はお店も休みだしね。とヨゼファは柔らかく笑った。
「明日の休みに合わせて壁画の補修を少ししようと思うんだけど、大丈夫かな?」
青い壁画の具合を気にしながらヨゼファは言う。カタリナはぼんやりとしながら「あんたの好きにすれば良いんじゃない……」と応えた。
「じゃあやらせてもらうね。お休み明けにカタリナが来たときにびっくりするようなの描いておくから…」
ヨゼファは楽しそうにしながら言う。色眼鏡の向こうの鳶色の瞳が、優しく細まっていく。カタリナはヨゼファに気付かれないように唇を噛んだ。こういう何気ないところがあまりにも彼に似ていることが、なんだか耐えきれなかったのだ。
「だから…カタリナ。」
ヨゼファは少し恥ずかしそうにしながら言葉を続ける。カタリナは机の上に視線を落として黙っていた。そこには緩やかに指を組んだヨゼファの手が置かれている。薄く青白い掌。大きくて頼りがいのあるヨハンのものとは、やはり違う。違うのに……
「明後日も、お店に…きてね。」
か細い声だった。カタリナが初めて聞いたヨゼファのものとまるで同じ。捨てられた犬みたいな、哀しい声だった。
カタリナはひとつ息を吐いた。それからなんでも無いように会話を進める。
「当たり前じゃないの。私が来ないで、あんた一人で店を開けられるの。」
ヨゼファは黙っていた。瞳だけは優しい形をしながらも、寂しそうな光をカタリナへと投げ掛ける。
「仕事を無断でサボるような駄目な大人じゃないの、私。あんたやヨハンとは違うのよ。」
わざと茶化すように、カタリナはヨハンの鼻を摘んだ。「んあ……」という間抜けな声が彼女の唇から漏れる。
「それじゃあ、私は帰るわよ。ちゃんと戸締まりしてね。」
「うん………。」
カタリナは一際声を明るくして言う。対して、ヨゼファの返事は未だに心もとない響きを伴っていた。
*
次の日は、雨だった。自室の部屋の窓から煙る乳白色の空を眺めながら、カタリナはぼんやりとしていた。
(今頃、ヨゼファは壁画を直してるのかしらね………)
時刻は昼近くを回っているのに、未だに寝間着姿のままでカタリナは顔にかかる髪をそっとかきあげた。
室内は静かである。じっとしていると、雨の気配が外から滲んでは侵入してきた。
………色が無い、とカタリナは思った。
(私の部屋には、色が無い。)
もう一度胸の内で同じ言葉を繰り返し、カタリナは再びベッドの上に横たわる。毛布は、自分の体温がすぐに伝染して生温くなっていった。
(あの店には、本当に沢山の色があるのに……私の部屋は、私には。)
勿論……辺りを見回して、家具に色は付いてはいる。茶色い本棚、それに収まったくすんだ緑色の本の表紙、青地に白い小さな花模様に入ったカーテン、赤い琺瑯製の鍋。……けれど、そのどれもが『色』という意味を無くしてしまっているような。無味無感動のフィルタが目の前に一枚出来てしまっているような、そんな物憂げな感覚に捕われるのだ。
灰色の毛布を被り直し、目を瞑れば瞼の裏に鈍い光が透けて来る。ひどく気怠げな気分だ。……休みの日はいつもこうなのだ………。
きっと、店の壁には今頃ヨゼファが青い空を描き足している。明日その場を訪れれば、より鮮明さを増した空の空、澄んだ青を望めるだろう。その中では相変わらず淡い色のステンドグラスが、黄金を透明にしたような太陽の光を受け取っているのだ。
(ヨゼファが描くものは、全部綺麗だから。)
カタリナは、段々と…ヨハンが妹のヨゼファの絵を褒めていたのは単なる兄馬鹿では無かったことに気が付き始めていた。あの子は、凄い。周りになにを言われようと向き合っていける自分の役目を持っている。彼女の絵は彼女そのものだ。色彩を感覚する瞳が壊れてしまっても、それでもずっと…あの事故の前よりも美しい。
『いろーんな役目が世の中にはあるんだよなあ。』
最近カタリナは、…ヨハンのこの言葉をよく思い出す。今まで当たり前過ぎて気が付かなかったことを、彼は本当に何気なく言うのだ。
『そんでもって、その役目は自分が自由に決めて良いんだよな。』
…………自分は今まで、自身の役目を好きに決めたことがあっただろうか。…一度だけあった。ヨハンと結婚しようと思ったとき。でもそれ以外は………。今だって、もう二度と会えない男の影に縛られてこうしているだけだ。
『だから俺はヨゼファに、好きなことやってりゃ良いよ、っていつも言ってるんだ。』
カタリナはヨゼファが羨ましかった。生まれたときからヨハンの傍で、彼の愛を受けることが出来た彼女が。外見は暗室で育ったもやしみたいなのに、彼女の心は太陽をいっぱい浴びて育った樹木のように伸び伸びとしている。
(本当は、あの子…私なんかいなくても、きっとやっていけるんだわ。)
もしカタリナが消えても、ヨゼファはあの屋根裏で絵を描き続けるのだろう。時々小さな展覧会を開いて、少し絵は売れるのだろう。そうやって、細々と暮らして行くのだろう。
(私には……なにも無い。珈琲を美味しく淹れたり、お菓子を焼いたり、絵を描いたり。そんなことすらも覚束ない。)
こういうときは、いつも思う。良い加減に、終らせてしまいたいと。こんなに哀しいのに、二度と会えないなら。会えないのに、その面影だけを毎日毎日、彼の妹を通して生殺しのように見せつけられるのなら。未練がましくあの店にかじりついている自分に嫌気がさすのなら。形だけ彼の真似をして、店を開き、ヨゼファの世話を焼いても決して彼にはなれないことが分かっているのなら。私が望んでいるのは彼になることじゃない、もう一度、一目でも会いたいだけだと分かっているのなら。……それが叶わないと知っているのなら………。
毛布の中で自分が嗚咽しているのを、カタリナはどこか冷めた気持ちで感覚していた。無意識に噛んでいた自分の指を開き、薬指で光っていた指輪を覚束ない動きで、抜いた。
(ほら、これだけのこと。……これだけで、私は自由になれるんだ。)
銀色の指輪を、サイドテーブルに置く。………そうだよ、たったこれだけの、形だけのことをやめるだけで………
外はずっと雨だった。灰色だった空はやがて黒ずみ、夜を連れてくる。…カタリナの部屋に少しずつ漂い始める暗闇に、やはり色は無かった。真実の黒い闇。その中で、カタリナは浅い眠りと覚醒を繰り返し繰り返し、夜を過ごしていった。