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空に近い都市
10/16

婚約者と妹 02

「お、起きた」


 カタリナが目を覚ますと、毛布を片手に持ったヨハンが丁度こちらにやって来るところだった。


「あ……、ごめんなさい。私、寝ちゃってたみたいで………」


 今、会計を………。と言いながら、カタリナは鞄の中で財布を手探りする。


「会計って……あんた、まだ何も飲んでないぜ?」

「え?」


 ヨハンの言葉に、カタリナは首を傾げた。彼は参ったな…と言うように頬をぽり、とかいた。


「注文したやつ、作り出す前にカタリナが机に突っ伏して爆睡しちゃったからよお、置いておいても冷ましちまうと思って起きるの待ってたんだよ。」


 大きな犬のように機嫌良く笑いながら、ヨハンはカタリナの向かいに腰掛ける。

 夜遅かった為、もう喫茶店の中に客の気配は無い。そう言うとき、彼が特別気を許したように自分を扱ってくれるのが、カタリナには嬉しかった。


「そ、それなら……起こしてくれれば良かったのに……」


 けれど、彼女は自分の気持ちを素直に表現することに慣れていなかった。爆睡している様を見られた恥ずかしさも相まって、頬を染めながらぶつぶつと呟く。


「起こすのも忍びなくってな。毎日疲れてるな、ちゃんと食ってるか」

「そうやってまたお母さんみたいなこと言う……」


 しかしヨハンはカタリナのそういうところも大いに結構と言うように、気持ち良さそうに笑ってみせる。

 店内の壁に大きく描かれた空みたいに、晴れ晴れとした表情だ。


「……もう、今日は帰るか?遅いし。」

「いえ……。一杯だけ飲んでから……」


 分かった、とヨハンは頷いて立ち上がる。……喫茶店の椅子は大柄な彼には少し窮屈だったらしく、立ち上がったヨハンは解放された、とばかりに伸びをしていた。





 ここは、光が美しい街だ。別名、『空に一番近い都市』というのは本当のようで、その日も透明な光がステンドグラスを通して鮮やかな色となり、真っ直ぐに店の中に注がれていた。



「慣れてきたね」


 カウンター越しに珈琲を渡すと、受け取った老人が呟く。


「そうですか。」

「ああ。」


 それだけ言って、彼は再び新聞へと視線を戻した。


「菓子も前より美味くなったよ」


 老人は新聞を捲りながら気の無い声で言う。それに応えてカタリナは、「あの人はお菓子を作るのが本当に上手でしたからね……まだまだですよ。」と呟いた。


「妹はどうしてんだ。」


 小銭をカウンターの上に置きながら老人は言う。「カヌレですか」とカタリナが尋ねると、彼は指を二本立てた。カタリナは作り置いてあったカヌレを二個皿にのせ、横に生クリームを添えて彼の前に出してやった。


「相変わらず引きこもってますよ。……やっぱり、目が悪いから強い光が苦手で。昼は絶対に外に出たがりませんね。」

「ふうん、でも目を駄目にしちまう前からだろ、ヨゼファの引きこもりは。」

「まあ……。はい。」

「ほんとヨハンの妹とは思えねえくらいに生っ白くて頼りねえよな。暗室で育ったモヤシみたいだ」

「それは言えてます」


 カタリナは老人のあんまりなヨゼファへの評価に笑ってしまった。それを見て、彼も一緒に笑った。なんだか安心したように。


「でも……あんたは偉いな。死んだ旦那の店を継いでその妹の面倒まで見て。」

「いえ、ヨハンは私の旦那では無いんですよ。」


 老人は顔を上げてカタリナのことを見た。カタリナはそっと自らの左手の薬指に視線を落とす。仕事中の為、いつもはめている指輪は外されていた。


「その時は……、まだ。」


 彼女の静かな言葉に、老人は「そうか」と相槌を打つ。それからはずっと黙って、新聞紙に視線を落としていた。



 


 そっと、後ろから手が添えられる。頭上の棚から取り出そうとしていた箱に。カタリナの後ろから覆い被さるようにしてヨゼファはそれを安々と取り上げ、「はい」と笑ってカタリナに渡した。


「高いところにあるものは、私が取るよ。」


 そっと目を細めながら、ヨゼファは言う。カタリナはそんな彼女を少しの間眺めたが、やがて「そこをどいてくれないと…動けないわ」とだけ言って、彼女から距離を置いた。


 …………朝、老人が言っていたように、ヨゼファとヨハンは似ても似つかない。とても妹とは思えないほどである。がっしりとした彼に比べてその身体はあまりに薄いし、ヨハンの特徴である太陽のような爽やかな笑顔とはまったく別の、薄闇の中の月みたいな儚い笑い方をする。


 けれど、時々どうしても。その気配や気遣いに、カタリナはヨハンを感じてしまった。先程、後ろから添えられた手も、朝に抱き締められた時も。ヨハンが戻ってきたのかと、一瞬ではあるが勘違いをしてしまうのだ。


(私はまだ………そんな夢見がちなことを。)


 夕方の喫茶店は、朝や昼ほどは混雑しない。けれど客数が少ない、今から夜の時間がカタリナは好きだった。


(この時間に、私はヨハンにここで出会ったから………)


 気泡の入ったステンドグラスの淡い色調を通して、店内の空気は様々な色に変化していた。

 壁画に描かれた空に浮かぶステンドグラス。青い空はヨハンそのものだとカタリナは思っていた。そしてそこに包まれるようにひとつ孤独に浮かぶガラスの窓は………



「空の絵も色褪せてきたねえ。」


 皿洗いを終えて、濡れた掌を拭きながらヨゼファがカタリナの隣に来た。………高い身長だけは、ヨハンに似ている。カタリナは彼ら兄妹の傍にいると時々、自分が子どもになったような錯覚に陥った。


「そろそろ描き直そうか。」

「…………。そっか、あの絵も…あんたが描いた絵だったよね。」

「そうだよ、兄さんが店の中に自由に描いて良いって言うからさ。」


 そう言ってヨゼファはまた、儚い月光みたいな笑い方をした。





「へえ………。妹さんが描いたの、これ。」


 カタリナはココアに乗せられた生クリームを慎重に茶色い液体に溶かしながら、壁画を眺めた。


「おう。俺の妹は昔っから絵が好きでさ。」


 ヨハンはカウンターの中からそれに応えるが、やがてそこから出て、再びカタリナの正面に窮屈そうに座る。


「へえ……。ヨハンの妹って…今はカレッジくらいの年?」

「いや、前も言ったけどうちは年が離れてるんだ。まだハイスクールの年だな。」

「ふうん……。どこのハイスクールに通ってるの。」

「いや、あいつはミドルスクールまでしか出てねえんだよ。」


 かくいう俺も金が無かったからハイスクールまでしか出てねえがな、とヨハンは肩を竦めた。

 カタリナはそう、とだけ呟いた。……少し驚いたのは事実だが。名門のカレッジを出て、それなりに大きなところに勤めている彼女の周りではあまり聞かない話だったから。


「じゃあ今は………」

「ずっと家の屋根裏で絵描いてるよ。」

「………それで、良いの?」

「良いんじゃねえか?楽しそうにやってるし。」

「そういうことじゃなくて………」


 カタリナは言いながら、自分の悪い癖が出た、と思った。こうやってまた、遂々お節介なことを言ってしまっている、と。


「奨学金とか…そういう制度だって、あるわよ。まだ十代なのに勉学を諦めてしまうときっと苦労するし………」


 ヨハンはカタリナの言葉をうんうん、と聞いた後に椅子に寄りかかって腕を組んだ。それから真っ青な空の絵を見た後、天井を見上げる。そこでは太い梁に吊るされたランプが弱々しい光をぼんやりと灯していた。


「ううーん……。まあ、俺もそうだったけど、どうもヨゼファは勉強とか、ハイスクールに通うことに興味無いっていうか……合って無いみたいでなあ。」


 天井を見ているヨハンの、晒された太い首の中心でのど仏が上下している。店の中の空気は、今夜は青かった。深い青色の中、カタリナが手にした白いカップがぼんやりと浮かび上がっている。


「………まあ、世の中には、カタリナみたいに良いカレッジ出て、皆に貢献する立派な人物がいる傍ら、俺らみたいなはみ出しものもいる訳で………」


 ヨハンはカタリナに話かけるというよりは独り言のように呟く。白いカップの中で生クリームが崩れて、ココアは不透明な白色に変化していく。


「いろーんな役目が世の中にはあるんだよなあ。俺はそれが菓子を作って珈琲を淹れることだったし、あいつは絵を描くことだった。そんでもって、その役目は自分が自由に決めて良いんだよな。だから俺はヨゼファに、好きなことやってりゃ良いよ、っていつも言ってるんだ。」


 ヨハンは天井からカタリナへと視線を戻す。相変わらず、晴れの日みたいな爽やかな笑顔をしている。

 カタリナは、そんな彼を羨ましく思った。………自分が、こんな笑い方をしたのはいつが最後だろうか。


「……………別に私は立派じゃないわ。」


 カタリナの言葉に、ヨハンは「そうか?」と首を傾げた。


「今の仕事だって……。別に好きでやってるわけじゃないもの。」

「おっそうかそうか。やめちまえよそんなとこ。」

「…………簡単に言ってくれるわ。私にだって生活があるのよ……」


 なんだか苛立たしくなって、カタリナは音を立ててココアを啜った。

 生クリームが熱いココアを冷ましてくれて、丁度良い温度になっている。


「ううん………。でも、そんな毎日遅くまで仕事して、けど好きじゃないなら辛いだろ。」

「皆そうよ。そうやって好きじゃないことだって割り切ってやってくのが大人でしょ。」

「でもなあ………、俺はカタリナが好きなことして笑っててくれる方が……良い、と思うんだけど。」


 ……………こういうことを言うときのヨハンは、分かりやすいもので耳まで赤くなってしまう。暗い青色が漂う店内でそれはよく目立つ。……そうして、それはカタリナも同じだった。


「じゃあ……どうすれば、良いのよ。」


 カタリナの小さな呟きの後、静かだった店内はよりしんとした。

 光だけが、青い闇の合間を縫って鮮やかな色を窓から運んで来る。店の奥では水道の蛇口からシンクに水が垂れる音が規則的にしていた。ぽつ、ぽつ、ぽつ、と。


「えっと…………。」


 ようやく、ヨハンが口を開いた。顔を掌で覆って、その指の間からカタリナを覗き見ている。でかい図体に似合わず女々しい仕草に、カタリナは笑いそうになった。


「お、俺と……一緒にこの店、するとか………」


 そう呟いてから、彼は顔から掌を離し、今一度カタリナにきちんと向き直る。その顔は赤面したままだったが。


「平たく言えば……その。俺と、結婚するとか…………」


 呆けたカタリナが何も反応しないので、ヨハンはひとつ咳払いをしてから、ごくごく小さな声で言った。


「カタリナ、俺と……結婚してくれ…るよな?してくれ、ます…よな?」


 なんだか我慢の限界がきて、遂にカタリナは吹き出してしまった。それを暫時眺めていたヨハンだったが、緊張の糸が切れたのか「なんだよ…笑うなって……」とひどく情けない声を上げる。


 本当に久しぶりにお腹の底から笑えて、カタリナはとても気分が良かった。笑い過ぎたのかなんなのか、彼女は瞳に涙が滲んで来るのを感じる。


 もしも、毎日。こういう風に……彼みたいに笑うことが出来るなら、それはとても素敵な生活なんだと思う。カタリナは笑ったような、泣いたような表情のまましっかりと頷く。「良いよ」と言った。


 気が付けばヨハンも笑っていた。真夜中に差し掛かる時間だと言うのに、店の中は壁画の空のような晴れやかな空気が漂っていた。

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