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雪の街
1/16

母と夫 01

雪が降る街だった。


 僕が生まれた街は、育った街は一年中雪が降る寒い街だった。

 足と掌の指先の感覚も無くて、吐いた息も真っ白に凍る。……都会に居る間にぼんやりと忘れていたその冴えた冷たさも、こうして再び同じ場所に立てば、あっという間に。ストンと腑に落ちて――――愛する人の輪郭と共に、思い出す。




雪の街 ‥ 母と夫




「………んあー…」


 僕の姿を認めた先生は、気の抜けた声を出して迎えてくれた。ぼんやりと机に頬杖をついたままそこから動こうとはしない。でもきっと、歓迎の呻きだろう。


「久しぶり、久しぶり。えーっと、サカナイ君」

「トリイですよ。良い加減覚えて下さい。」

「そっかそっか、トリイ君……」

「先生、お元気そうで何よりです。」

「うーん。元気なのかねえ。」


 なんともハッキリしない応答をしながら、くわえていた煙草をしきりに吸った。先程より短くなったそれを皺だらけの指先で弄んでから、ぽぽぽ…と煙を吐いた。小さな輪っかが崩れてあたりの冷たい空気に溶けていく。


「コート、脱いだら…良いんじゃないかな。」


 先生は未だ机の向こう側から動こうとはせず、促す。


「寒い?……暖房を強くしようか………」


 僕がじっとしているとようやく気遣わしげにしながら動いて、赤い灯を蓄えて唸っているストーヴの方へと向かう。


 いや、そういうわけじゃ。腰の重い先生を自分の為に動かしてしまった罰の悪さから、ちょっと焦って声をあげる。

 先生はまた呻いて、こちらを見る。首だけ動かして。



「いや…。なんだか、こうやって教室にいると、ここで勉強してた時期に戻った気がして…」


 つい、ボーッと。


 照れ臭くて笑いながらそう言えば、先生もゆっくりと笑った。

 そうして昏紺とした空の下、固く凍てついてる雪と同じように白い髪をかきあげて、もっと笑った。それと一緒に顔の皺も動く。



「先生、皺増えましたね。」


 懐かしい表情に目を細めながらそっと言えば、先生は「それは増えるよ。もうおばあちゃんなんだもの。」と優しい声で言った。





 先生は、街の片隅で雪に埋もれ続けるこの学校に昔からいる。………僕が居た頃よりももっとずっと生徒の数は少なくなり、今では20人にも満たない筈だ。

 それでもここで、子供たちを大事にしてくれているらしいが………


 先生らしくない先生だった気がする。頼りなくてのんびりした人だったと思う。

 決まりや規則が嫌いで、あと職員室も嫌い。空いている教室を見つけては一人で、ぼーっと過ごしていることが多かったような。


 ……鶴のように痩せた身体を屈めて、先生はランプの灯を強くしていた。更にもうひとつに明かりを入れる。室内がオレンジ色の空気に満たされていく。青い夜の中でただひとつ、この教室だけが温かい色を保っているような気持ちがして、僕は少し安心した。



 ここで学ぶ子供たち用の小さな机を向かい合わせに並べて、窮屈そうに二人で腰を下ろす。先生はよっこいしょと小さく言ったあと、続けてもっと小さな声で「いつも……こっちに来させてしまって、悪いね。」と呟いた。


「いえ…そんなの。」


 それに応えた僕の声もまた小さい。………窓の外ではしきりに雪が降っている。深々と。そればかりが薄明かりの室内の中、よく聞こえた。



「やっぱり、もう…小さいですね。この机や椅子は。」

「そうだね……。」


 まあ、当たり前だよね。


 そう囁き合っては、揃っておかしそうにくつくつとする。


 ……………且つては…ここから二つ向こう側の部屋…先生の自室で、それこそちゃんと大人用の机と椅子がある場所で、毎年会っていた。

 けれども、やがてここに落ち着いてしまった。この場所…教室。リンコと僕が一緒に過ごして…その様子を先生が見守っていた、僕たちのこの教室に。



「もう何年になる」


 持って来た箱をゆっくり取り出した僕の掌をそろそろと見下ろして、先生は呟く。


「…………八年ですね。」


 ところどころ草臥れてはいるが…白。白い箱が現れる。先生は煙草を傍にあった灰皿でもみ消した。

 ………リンコは煙草が苦手な性質だったから。そして、リンコの父親…先生の旦那さんも。皮肉なことだが二人がいなくなってようやく先生は、好物の煙草を思う存分味わえるようになったのだろう。



「八年………。イヌイ君にとって、長かったかな。」

「トリイですよ。」

「うん……。」

「短かったと思いますよ。……あっという間…」

「そうかあ。……私には長かったよ。本当に…ずっと。」



 箱の中から机の上に、いつかリンコの一部だったものが移される。背骨の二番目。安らかな形をしたそれを挟んで、二人でしばらく黙った。雪はずっと降り続いている。ストーヴが低く唸っている。静かな夜だった。



「………リンコは、綺麗な人でしたね。」


 曖昧に笑った僕の言葉に、先生は「母親似だからね」と冗談を返す。けれども言葉の端には弱々しい響きが潜んでいた。


「僕は…ずっと後悔しているんですよ。最後の時に、一緒にいれなかったことに。」

「仕方無いよ… 。リンコだって、君が仕事を大切にしていることを知っていたもの。」

「この雪の街から…慣れない賑やかな場所に連れて来てしまった。……たった一人の家族の貴方からも離して…」

「…………。君だって、リンコの家族じゃないか。……もう。」

「たった……三年だけ、でしたけれど。」



 先生はそっと左右に首を振る。そうして僕は一回だけ頷いた。

 分かっている。月日は問題じゃないんだ。



 リンコがいなくなってしまったのは、僕が生きてきた中で一番寒い夜だった。思い出すように、毎年もっと寒いこの場所に来て、先生と一緒にリンコの背骨を挟んでぽっつりと話すようになった。

 いつだってこの日は雪だ。そうしてリンコの骨は雪よりもずっと白くて、冷たかった。

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