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後編

性格や能力は親から子に遺伝するか。

21世紀半ばの著名な遺伝生物学者、マクドゥーガル教授はこう言った。


「私の息子二人は私にとてもそっくりな顔をしている。だが、ロンは共和党支持者でハリーは民主党支持者だ。ついでに言えば、私は熱烈なヤンキースファンだが二人の裏切り者は狂信的なオリオールズファンだ。二重螺旋(D.N.A)の空き容量は、こういった大切な情報の格納には向いていないらしい」


とは言え何事にも例外は存在する。

心理学者、秀一郎・ミュンヒハウゼンもまた、祖先から特別な天賦の才(ギフト)を受け継いだ一人だった。


 ○


「何とかなりそうでしょうか?」


応接室から出てきたアテネを、小島が呼び止めた。

疲れ切った表情のこの男はC.H.I.Ps(チップス)開発のプロジェクトリーダーを任されていて、不幸なことに今回の一件の直接の責任者だった。


教授(プロフェッサー)は、いつも最善を尽くして来ました。今回だけが例外となるとは思いません」

「……正直なところ、私は義父(ちち)、いえミュンヒハウゼン教授がどれほどのことが出来るのか、疑っているのです」


アテネの持つデータでは三〇代半ばのはずだったが、その顔に浮かぶ諦念は老年の物とさえ見える。


「土下座までされたのに?」

「濁流に呑まれそうな時、何かが投げられたら掴もうとするでしょう? たとえそれが藁であっても。電脳化も満足にしていない心理学者が、どうやって外務省の交渉屋(タフ・ネゴシエーター)と殴り合うっていうんですか」


確かに、一般的に考えれば全くその通りだ。

盗作の件も含めれば、民事的にも刑事的にも行政的にも、八菱フードサービスは外務省の餌食となり得る。

政府を越えて力を奮うこともある多国籍企業に対して帝國政府は持ちつ持たれつの対応をしながら、常にその牙を抜く機会を窺っていた。

小さな瑕疵(きず)であっても、見せるのは得策ではない。

その重大な局面に立ち向かうのが、老いた心理学者一人というのは如何にも心許ない。


「……どうして、義父なんでしょう?」

「え?」


それは、呟くような問いかけだった。


「八菱の社員情報を見れば、私がここにいたことは分かったはずです。義父が私に良い感情を抱いていないことも」


事実だ。

八菱の社員データベースは、本人の望むと望まざるとに関わらず、収集可能な情報のほとんど全てを収蔵している。

どこで誰が何を食べたかすら、把握可能だ。

ミュンヒハウゼンの娘、つまり小島の妻が海外で事故に巻き込まれたことも、その後の両者の確執も記録は残っている。


「はい、存じておりました」

「なら、どうして!」


義父(ちち)は、私の娘の美香にさえ会ってはくれないのに、と小島は声を()らす。



「当然、教授(プロフェッサー)にしか解決できないからです」


「……義父(ちち)は、ただの心理学者ではないのですか?」


アテネの口元が綻ぶ。



「はい。あの人は、ただの《ほら吹き》です」



 ○



愛知府中村新都心。

日本史上屈指の成り上がりを遂げた英傑の故地に、八菱の本社はある。

21世紀(クラシカル)な趣味の超高層ビルではなく、豪奢だが一階建ての社屋。

要塞と思わせるその建物の中央部に、八菱財閥会長の執務室は在った。


「会長、クルディスタンの件についてですが」


アテネと全く同型の秘書アンドロイドは報告用の紙挟みを机の上に置こうとする。


「途中経過は結構よ、アルテミス」


しかし、彼女の主はその紙挟みを受け取らなかった。

どうみても20代後半にしか見えないその女性こそ、国内三万の子会社を統括する八菱HD(ホールディングス)会長、菱崎寧々だ。


「左様ですか。かなり大きな案件ですが、よろしいのですか?」

「いいのよ、《ほら吹き》とは長い付き合いだもの。あの人が失敗するなら、誰がやっても駄目ね」

「なるほど。麗しき友情、ということですか」


「いいえ、信頼ね。信用はしていないけれど」


寧々は至尊の座とも揶揄される会長席に身を委ねる。

クローニングを繰り返した肌は瑞々しく、とてもそれが七〇代の人間のものとは思えない。


「私ね、あの人と賭けを一つしているの」

「賭け、ですか」

「そうよ。勝つのが私が当たり前の、とても馬鹿馬鹿しい賭け(ゲーム)


寧々は天井に描かれた天女を眺めながら、小さく吐息を漏らす。


「あの人が、私の出す難題に一つでも失敗したら……」

「失敗したら?」

「……若返り手術をして、私の愛を受け入れて貰うの」


「それはまた」

随分と主人に有利な賭けだ、と言おうとしてアルテミスは口籠った。


「ちなみに、その賭けはいつから続いているのでしょう?」

「もう、三〇年になるかしら」


アルテミスは、絶句した。

この気儘で無理ばかりを押しつける女帝の難問を、三〇年にもわたって解決し続けているのか。


「だから、私は何も心配はしていないのよ。成功しても、失敗しても、利益は私にあるの」


そう言って微笑む寧々の表情は、まるで少女のようだった。


「でも、解決しちゃうでしょうね。あの秀一郎(朴念仁)は」



 ○



アテネ、安藤、小島の三人が会議室に入った時、ミュンヒハウゼンは呑気に煙草を燻らせていた。

電子煙草のものではない本物の紫煙が部屋に漂う。

安藤と小島が眉を(ひそ)めるのを、アテネはしっかりと見ていた。


「さて諸君、そろそろ蹴りを着けよう」

と言いながら、ミュンヒハウゼンはポケット灰皿で煙草を揉み消す。


「アテネ、いつものものを、此処へ」

「はい、教授(プロフェッサー)


アテネが取りだしたのは、博物館に収められていそうな時代物の黒電話だった。


「私はこれがお気入りでね。直接会って交渉する必要がない時は、これを使うことにしているんだ」


そう言って、ミュンヒハウゼンは自分でゆっくりとダイヤルを回す。

紫煙の薄れかけた会議室に、ジーコ、ジーコという音が満ちる。

数回のダイヤルの後、電話は繋がったようだった。



「お忙しい時間に恐れ入ります。こちらは創作和菓子の泡雪堂さんでお間違いないですか。私は八菱のミュンヒハウゼンという者ですが、ご主人はいらっしゃいますか?」


安藤と小島が顔を見合す。

どういうことだ、外務省に電話したんじゃないのか。


「ああ、ご主人。お忙しいところに恐れ入ります。実は半年ほど前にご参加頂いた創作C.H.I.Ps(チップス)コンクールの件でお電話差し上げたのです」


そこまで聞いて小島が何かに思い当ったように、あっと声を上げる。


「ご主人に出品頂いた作品は惜しくも選を漏れましたが、社内で非常に評判が良かったのです。そこで来月に迫った日本とクルディスタンの修好記念式典で配る菓子の中にご主人の作品を加えてはどうか、という声がありましてね」


自殺した研究員の遺書には、盗作元も明記されていた。

元々が出来レースだった創作C.H.I.Ps(チップス)コンクールで見つけた、和菓子ベースのC.H.I.Ps(チップス)をそのまま流用した、と書いてある。


「これは泡雪堂さんにとって、名声を得る絶好の機会かと思いますが…… 如何でしょう? ああ、もちろん宣伝費用として若干の負担はそちらにお願いすることになりますが、今回の件では比較的お安くすることが出来ると思いますよ」


 ○


「三千新円しか払えないそうだ。これでOKしたが、問題はないかね?」


ミュンヒハウゼンは安藤と小島に煙草を勧めながら確認する。


「……あ、ああ、はい」

「三億新円の支出が、三千新円の収入に……」


二人とも、何かに化かされたかのようにぶつぶつと言っている。


「まぁ、零細の和菓子店ではこれが限度だろうな。いい宣伝にはなるだろうから、潰れることはないだろうが」

「流石は《ほら吹き教授》、いつもながら見事なお手前でした」


黒電話を鞄に仕舞い込んだアテネが、よく冷えたミネラルウォーターのペットボトルを手渡す。

一仕事終えたミュンヒハウゼンは旨そうにそれを飲むと、帰り支度を始めた。


まだ茫然としている小島に、アテネがそっと囁きかける。


「もし教授(プロフェッサー)に感謝されるのでしたら、美香ちゃんを連れて一度会いに行ってあげて下さい」

「でも、義父(ちち)はずっと美香にも会いたくないと……」



アテネは嫣然と微笑んだ。


「あの人は、いつでも《ほら吹き》なんです」

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