中編
「まずは、こちらを」
会議室で出されたのは虹の意匠が施された菓子箱だった。
部屋にはミュンヒハウゼンとアテネ、社長の安藤、そしてミュンヒハウゼンの義理の息子である小島しかいない。
箱は、ミュンヒハウゼンとアテネの前だけに置かれた。
日本の国旗である日の丸と、どこかの国のそれが並んで刻印されている。
大人の手の平ほどの大きさの箱を開けると和やかな音楽が流れ、中に嵌め込まれた七つのC.H.I.Psがそれぞれの色に輝く。
ただの菓子箱にしては随分と凝った造りの代物だ。
「これは?」
尋ねるミュンヒハウゼンに、八菱フードサービス社長の安藤が重々しく頷いた。
「来月の初めに開催されます、我が国とクルディスタンの修好十周年記念式典で配られるお菓子です。外務省主催のコンペティションで採用されました」
クルディスタンは世界で最も新しい国連加盟国の一つだ。
中央アジアに広く分布するクルド人たちが民族自決を掲げた長い長い闘争の末に勝ち得た民族国家でもある。
日本帝國は人道的な観点から彼らの活動に最大限の理解と配慮を示したことで、この新たな中央アジアの雄から深い友誼を示される特別な地位を享受していた。
「日本とクルディスタンの架け橋になるように、という願いが込められております」
「一つ頂いても?」
「どうぞ」
試しに橙色のC.H.I.Psを耳の後ろのジャックに放り込んだミュンヒハウゼンは、何かを味わうように黙り込んだ。
一頻り考え込んだ後で、降参したかのように両手を小さく挙げて見せる。
「今までに食べたことのない味だ。あちらさんの特産品ですか?」
「いえ、そうではありません。これらは全て、架空の食味です」
C.H.I.Ps用のデータとして、既存の食べ物を再現するのではなく、全く新しい食味を追及する試みは広く行われていた。
バラの香りの餃子、食べると“緑色”の味がするポップコーンなど商品化されているものも少なくはない。
但し、そのほとんどが電気豚の餌だ。
ミュンヒハウゼン自身もいくつか試したことはあったが、もう一度食べたいと思ったのは紅茶味のリンゴくらいのものだった。
だが、今食べたC.H.I.Psは、違う。
これまでに味わったことのない玄妙な味わい。香りと食感と食味の完全な調和。
紛い物とは思えない、本物の味だ。
「なかなか大したものです。これならば先方も喜ぶのではないのですか」
ミュンヒハウゼンの言葉に、安藤と小島は揃って大きく溜め息を吐いた。
まるでこの世の不幸が一遍に襲いかかって来たような顔色だ。
「先方は喜ぶかもしれません。ですが、我が社はこれを出荷することが出来ないのです」
○
ことの発端は、一昨日にまで遡る。
八菱フードサービスでC.H.I.Psの新味開発に携わっていた一人の研究員が、自殺した。
クルディスタンでの式典用の七色の菓子を中心となって携わった研究員の当然の死に、社員は皆嘆き悲しんだ。
問題は、彼の遺書だった。
「七色の菓子の内、一つのフレーバーは盗作である」
社内はVXでも撒かれたような騒ぎになった。
菓子は既に製造も終わり、梱包も済んでクルディスタンへの空輸を待つばかりである。
今更、差し替えは効かない。
緘口令は敷いたものの、いずれはこの情報も外部に漏れるだろう。
そうなれば如何に超巨大複合企業として名を知られる八菱の子会社とは言え、無事では済まない。
出荷は、取り止めるより仕方ない。
外務省に支払わなければならない莫大な違約金が、最大の問題だった。
「三億新円」
金額を告げる安藤の声は、掠れていた。
「三億。そいつは豪儀だな」
ミュンヒハウゼンとアテネは顔を見合わせた。
一般的な企業に勤めるサラリーマンの生涯年収が二〇〇〇万新円と言われている。
私企業に課せられる違約金としては少し額が大き過ぎる。
「八菱が請け負ったのは、記念式典全てなのです。契約では、その中で企画書と大きく食い違う部分があれば違約金の発生義務が生じるとあります」
そういうと小島は中空に指を滑らせる。
次々と展開する文章ファイルの全てが企画書なのだろう。
グループ各社がこれだけの条項を守って来たのに、たった一社の責任でこれだけの損害を出すことは天下の八菱に名を連ねるものとして、この上ない屈辱に違いない。
「本社渉外部からお越し頂いたのは、外務省と交渉して少しでも違約金の支払額を小さくして頂きたいのです」
安藤と小島が立ち上がり、深々と頭を下げた。
○
ミュンヒハウゼンは安藤と小島を下がらせ、アテネと二人きりで向かい合った。
話を聞くだけと言っていた割には、いつの間にかこの老人は大いに乗り気だ。
危機的状況に身を置くことが本質的に好きなのかもしれない。
アテネは今回に限って言えばそれだけが仕事を受ける原因ではないとみていたが。
「さて、まずは勝利条件の確認だ。うちの馬鹿婿はああ言っていたが、親愛なる私の雇用主はどう言っていたね?」
「はい、会長はいつも通りただ一言、『解決しなさい』とだけ」
アテネの回答にミュンヒハウゼンは満足げに頷く。
「なるほど、実にあの女性らしい。であれば、取り得る戦術の幅も広がるわけだ。大いに結構」
いつの間にか老人にとってこの仕事を受けることは既定事項になっているようだ。
「さぁ、アテネ。調べて貰わなければならないことが山のようにある。没入だ」