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前編

女は、アンドロイドだった。

半地下のあまり品の良くないバーには不似合いなスーツを見事に着こなし、ゆっくりと階段を降りてくる。

電子煙草の出す紛い物の紫煙と喧騒に包まれていた場が、水を打ったように静まり返った。

美し過ぎるのだ。

青い瞳。ボブに切り揃えたブロンド。純白の肌。

見る人が見れば、それがどれほど(クレジット)の掛かった躯体か分かるだろう。

少なくとも、電子ドラッグと違法薬物と自由な恋愛が売り物の低俗な夜の街ではあまり見かけないタイプだ。

卑猥な冗談を掛けてくる傷痍軍人や薬物中毒者(ジャンキー)を掻き分け、女は店内をゆっくり歩く。

その所作はおよそ大阪ミナミの夜には不釣り合いだ。

女が腰を下ろしたのは、カウンターでマティーニを啜っていた老人の隣だった。


教授(プロフェッサー)ミュンヒハウゼン、こんな処に隠れていたんですか」

「隠れていたと云うのは語弊がある。余暇をどのように使おうが、それは私の勝手だ」


教授と呼ばれたのは上背のある紳士然とした男で、銀の髪を丁寧に撫でつけていた。

如何にも伊達者風の小ぶりな金縁眼鏡を掛けている。

抗老化処理を施していないのか、表情は年齢以上に疲れて見えた。


「教授、それこそ誤りです。八菱(財閥)との契約には“就労時以外にも常に連絡が付くように心がけるべし”という条項が含まれています」

「ふむ。休暇中にどこで何をしてもいい、というのは日本帝國憲法で保障された“頽廃(たいはい)した個人の自由”の権利の中に含まれていると思うんだがね、アテネくん」


そう反論しながら、ミュンヒハウゼンはアテネにマンハッタンを頼んでやろうとする。

だが、アテネはそれを視線で制した。


「憲法はそんな胡散臭いものを保証してはくれません。ああ、そんなことより仕事です」

「仕事、ね。……ところで私の爛れきった自堕落な休暇計画はどうなるのかね?」


アテネは嫣然と微笑んだ。


「そんなものは電気豚にでもくれてやって下さい」


 ○


社用車扱いになっているポルシェ(911GT3RS)に乗り込み、ミュンヒハウゼンはバックミラーで髪を弄りながら相棒に説明を求める。


「それで、今回の仕事というのは?」

八菱(財閥)の系列子会社がキャンペーンに使用する新しいフレーバーのC.H.I.Ps(チップス)に関する問題です」

C.H.I.Ps(チップス)というと、耳で食べるアレのことか?」

「はい、アレのことです」


 ○


押し寄せる電脳化の波に対して五感で最後まで抵抗を続けていたのは味覚だった。

電子データとしての変換は嗅覚よりも容易であったにも(かかわ)らず、完全な“味”を再現することは永く不可能だとされてきたのだ。


原因は、人間が“味”と捉えていたものがあまりにも多くの感覚の複合情報(クオリア)だった為である。

味蕾への刺激、食感、香り、見た目、食べている時の音、雰囲気。

これだけの要素を電子データとして統合して扱うことが出来るようになったのは、つい最近のことだ。

今や北京ダックでもシシカバブーでもシュールストレミングでさえ、簡単に味わうことが出来る。

C.H.I.Ps(チップス)と呼ばれる情報媒体を耳の後ろのジャックに放り込みさえすればいい。


「ザウアークラフト味、シナモン味、魚肉ソーセージ味か…… よくもまぁこれだけの種類のC.H.I.Ps(チップス)を作ったもんだな。こっちのは…… ミルクワーム味?」

「カブトムシの幼虫に似た虫のことですね。南方ではご馳走だそうです。こっちには電気豚の叉焼(チャーシュー)味もあります」


ミュンヒハウゼンとアテネの二人は八菱系列の食品会社、八菱フードサービスの本社に来ていた。

来客用に(しつら)えられた展示室にはこの会社がこれまでに発売した様々なC.H.I.Ps(チップス)を体験できるようになっている。

回廊状の展示室は壁面と中央にガラスケースが配してあり、そこに元となった食品の模型が並べられており、その手前に体験用のC.H.I.Ps(チップス)が小皿に盛られている。


「子どもの頃には耳でアイスクリーム食べる時代が来るとは思わなかったがな」

「古代ローマ人は美食をより味わう為に食べた物を端から吐いていたそうです。それに比べれば随分と健全なことだと思いますよ」

「パンもサーカスもデータ配信が可能になりました、か。ユウェナリスもびっくりだ」

「人間の欲望には際限がありませんから」

「結構なことじゃないか。禁欲的な生活を否定するつもりはないが、適度な欲望の発露は文化文明の進化を促す」

「そう仰る割には、サイボーグ化には否定的なようですね」


その通りだった。

アテネの言う通り、ミュンヒハウゼンは身体のサイボーグ化を極端に(いと)っている。

耳の後ろにジャックは付けているが、それとて必要最低限と言えた。


「しかし何だ。行く川のながれは絶えずして、ではないが。世界はどんどん変わっていくな」

「……お答え頂けないのですね」

「答える必要はないだろう。八菱との契約には“個人の思想信条の自由について(つまび)らかにすべし”という項目はなかったはずだ」

「それはそうですが」


アテネがさらに続けようとしたところで、展示室の扉が開いた。

入って来たのは作業服に身を包んだ男たちと黒いスーツの男が一人。

作業服姿の中から、恰幅のいい壮年が一歩前に出る。


「お待たせして申し訳ございません、私が社長の安藤です」

「どうも。八菱(財閥)本社渉外担当のアテネです。こちらは……」


ミュンヒハウゼンを紹介しようとしたアテネは、彼の方を見て思わず息を呑んだ。

普段はどんなことも茶化してしまう老人が、まるで悪鬼のような形相で何かを睨んでいる。

視線の先にいるのは、スーツの男だった。


「……と、義父(とう)さんがどうして?」


先に口を開いたのは、スーツの男だ。

だが、ミュンヒハウゼンはそれに応えなかった。

傲然と鼻を鳴らすと、(きびす)を返す。


「アテネ、帰るぞ」

「い、いえ、そう言うわけには」

八菱(財閥)との契約の中には、私が気に入らない仕事は断っても良いという条項があったはずだな?」

「いえ、それは違います。断った場合には莫大なペナルティが課せられるという……」


老人は中指で金縁眼鏡を押し上げ、口元を歪ませる。


「それはつまり、ペナルティさえ支払えば仕事は断ることが出来るということだ。なに、心配しなくとも(クレジット)だけなら腐るほど持っている。……娘の遺産がな」

教授(プロフェッサー)!!」


その瞬間、スーツの男が動いた。

土下座だ。

パンツの裾が汚れるのも構わず、男は地に頭を擦りつけていた。


「お義父(とう)さん、この通りです。せめて、話だけでも。話だけでも聞いて下さい」


ミュンヒハウゼンは何か言いたげに男の土下座を見ていたが、小さく溜め息を吐く。


「良いだろう。但し、聞くだけだ。それと……」

「それと?」


アテネの表情が曇る。この老人はどんな無理難題を吹っ掛けるのだろう?


「それと金輪際、私のことはお義父(とう)さんとは呼ぶな」

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