2 日常
「少し出てきます。明日には戻る予定ですので、ご心配なく」
シュンはそれだけ告げ、ドアを押しあけた。注がれた朝日が、束の間室内を黄金色に染め上げる。初対面の時とは違い、紺青のワイシャツに、卵色のズボンといった普通の服を身にまとい、身軽に敷居を越えていく。その背中を見送り、鉄二は赤く熱せられた鉄に玄翁を振り下ろした。
彼、シュンがこの鍛冶屋へ腰を落ち着けて今日で一カ月。一晩の約束が、そのまま三十の晩を過ぎた。しかし、鉄二に彼を追い出そうという気は起きていない。と言うよりも、引き留めている感がある。自身の食いぶちをしっかりと稼いでくる上、鉄二が鉄を打っている間に家事もこなすという働きぶりでは、そんな感情が起きるはずもない。この地域の特殊な環境で育ったとはいえ、些か出来過ぎている感がある。
約十一年前に起こった事故。冷戦中にこの地に建設された研究施設を中心に、その周囲四百mあまりの人間が、五歳以下の子供だけを残し、消えうせた。調査の甲斐なく、原因も、どのような現象であったかも、何も特定されなかった。
孤児となった生存者は、国の作った幾つかの施設に入れられた。しかし人口密集地であったためにその数は多く、施設の維持費は、不景気の政府がいつまでも許容できる金額ではなかった。施設の完成から七年後、「無駄」削減の名のもとに施設は民営化。元より国の支援で成り立っていた施設は多くが瞬く間に経営破たんの運命を辿った。何とか対策を講じた施設も貧窮は免れず、施設内の子供が働きに出ることで、何とか施設を維持できる有様だった。
結果、路上は行き場を失った子供たちであふれるはずだった。しかし、彼らは新たに家を見つけることに成功する。
事件発生後、実態不明の物質が付着しているとして、立ち入りを禁止されていた地域。つまり、今彼らがいるここ「零番街」と呼称されるこの地区に、彼らは舞い戻った。
つい最近、マウスを使った実験により危険性のない物質であると確認されたが、その謎の物質の存在は人々を怯えさせ、あえてその地に移り住もうという物好きな人々は、そうはいなかった。
そのため、後に残った家々は空き家となり、孤児たちにしてみればそれは天からの恵みに等しかった。国側は彼らを追い出そうとしたが、彼らも家を失うまいと必死で抵抗し、警察官が追い出そうとして返り討ちにあう始末。加えて追い出した数日後には戻ってくる、彼らの受け入れ先が他にはないなどの理由から、現在では放置されている。
最近では治安が落ち着いたとはいえ、このような場所に移住する物好きはまずいない。そう自分を皮肉りつつ、鍛冶屋は止まっていた手を再び動かし始めた。シュンの行き先に思いを馳せながらも、その手の動きが止むことはなかった。
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「おい、まだ生きてるか?」
シュンが投げかけた言葉に、横になった少年一人がゆっくりと寝返りをうった。シュンの問いかけに弱々しく腕を上げ、応える。
シュンが訪れた家の中、廊下を進んだ奥の和室にいるのは三人。二人は横になり、一人がその横に座っている。彼の記憶では五人が住んでいたはずだが、どこかに働きに行っているのだろうか。
「いやー、まさか二人同時にぶっ倒れるとは思わなかった」
少年が一人こちらに首をひねり、苦笑いしながら肩をすくめた。
「残りはどこいってんだ? さすがに、そいつらだけ残すわけにはいかねえだろ?」
そんな会話を交わしながらシュンは壊れたドアをくぐり、玄関に靴を脱ぐ。脱いだ後にきちんと靴を揃え、床を軋ませながら部屋へと向かう。
けばだった畳の上に腰を下ろすと、ポケットから紙袋を取り出した。
「ほれ、抗生物質。それと、一応腹こわした時のための整腸剤な」
「おお、すまん。保険証ないとクソみてえに高いからな」
「まあ、仕方ないさ。それより――」
「ああ、分かってるよ。今日の午後はシフトを空けといたから、じきに帰ってくると思う」
その言葉にシュンは入り口を見やるが、未だ人影は見えない。入り口には壊れたドアがぶら下がっているだけだ。
「そういや、なんでドアが壊れてる? 前来た時には何ともなかったろ?」
シュンの問いかけに、彼は溜息をついた。
三週間ほど前、強盗まがいの青年が三人押し入り、破壊してしまったらしい。
三人という言葉に、シュンの脳裏に一か月前の三人組が浮き上がった。まだいたのか、と溜息を吐きつつ、被害を尋ねる。
「ドアだけ。そいつらは三丁目の交番の前に放り出しておいた」
「ただいまー」
少年が笑顔で自慢げに報告を終えたのと同時に、残りの二人が帰宅した。両手にぶら下げた袋から、賞味期限の切れた弁当を取り出し、床に並べる。病人二人も寝床から起きだし、適当な弁当を選ぶとふたを開け、箸を手に取る。シュンのために少量のおかずを蓋へとりわけ、差し出すことも忘れない。
しばらく全員が黙々と箸を動かす。
ふと、一人が顔を上げ、シュンの方へ視線をよこす。
「そういや、お前まだホームレスなのか?」
「やかましい。家はあるんだよ」
「あれは家じゃねえだろ」
現在、シュンの住んでいる家は一月前のような雨の際にはスプリンクラーが作動することになる。住みよい家は既に全て居住者がいるため、必要に応じて非難することで凌いでいる。
「だから俺たちと住めば――」
「バーカ支援するほうがされてどうすんだよ。大体、今はちゃんとした家があるしな。条件付きだが。御馳走様、っと」
「だからって何も俺らから返せねえじゃんかよ」
「別にお前らを特別扱いしてるわけじゃねえよ。大体――」
シュンは食事の残骸をゴミ袋に放り込み、よっこらしょ、とばかりに立ち上がる。さらに少年達にも立ち上がるよう促し、伸びを一つ。
「俺もこれで儲けてるしな。ほら、行こうぜ。高給バイトに」
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電車に揺られながら幾つかの駅を過ぎ、たどり着いた場所は銀座。立ち並ぶビルの森を進み、一軒のビルから地下へ続く階段に足をつける。
軽やかな足取りと共にたどり着いた場所はバーと思しき扉の前。シュンは横に見えるインターホンに指を伸ばし、軽く押し込む。マイク越しに会話を交わしていると、唐突に声が途切れた。もう一度シュンが手を伸ばした直後、何の前触れもなしにすさまじい勢いで扉が外側に開かれ、鈍い音が響く。
「もう、遅い! 来ないかと思ったじゃない。あら、どうしたの?」
一人の女性が顔を見せ、言いたいことを早口にまくしたてる。目の前のシュンに気づいた。
風を切って開けられた扉にしたたか殴られた額を押え、シュン何か言いたげに目元をひくつかせたが、結局何も言わずに二人の小年を引き連れ店内に足を踏み入れた。
店内は小さいながらも落ち着いた、雰囲気の良い装飾を施してある。やや抑えられた照明が控えめに店内を照らし、周囲の景色に落ち着いた調和を生み出していた。正面には舞台らしきものも窺えるが、現在はカーテンで覆われている。
それまでシュンを先導していた女性が店の奥に消え、それとほぼ入れ替わるタイミングで、右目に泣き黒子のあるハンサムな男性が顔を見せた。
「開店まで時間がない。用意はできているかい? それと、その二人が連絡にあった君の知り合いでいいんだね?」
「ええ、バイト要員です」
やや早口ながらも、シュンから二人の紹介を受けて微笑み、男性は二人に向き直り、改めてあいさつを交わした。
「ようこそ。マジック・バー『オリーブ』へ」
*
「大丈夫か?」
シュンの問いかけに答える気力すらなく、重い足を引きずりながら何とか家の中までたどり着いた様子は、さながらゾンビと言ったところか。
現在午前二時。バイトと称した強制労働に、彼らの足は棒と化し、腕も鉛を流し込みでもしたように重量を増していた。
奥の部屋まで体を引きずり、そのまま敷かれていた布団に倒れ込む。布団の下から悲鳴が上がり、病人が体を引きずりだした。
「んだよ、畜生!」
「勘弁してやれ。ほとんどぶっ続けで働いてたんだ」
悪態をついた少年に、その二人に比べ余裕のあるシュンが代わって弁解する。
約十時間。トイレ以外は常に注文を取り、運び、食器を回収する。これらの作業を続け、さらに最終電車を過ぎたために徒歩での帰宅を余儀なくされれば、この疲労も納得がいく。
倒れている二人をしり目に、シュンは懐から茶封筒を取り出した。それなりの厚さを持ったそれの口を開け、中身を取り出す。慣れた手つきで枚数を数えながら三等分し、内二山を前に押しやる。
「ほれ、お前らの取り分だ。六万ある。つか、なんで全部五千円札なんだよ……」
文句を言いつつ自分の取り分を懐へしまい、立ち上がったシュンを、今まで倒れていた少年が引きとめた。
「その配分、おかしいだろ。絶対七割以上はお前の稼ぎだって」
上体を起こし、シュンに向き直る。その視線をシュンが受け止めた。
彼らが仕事をしている間、シュンは舞台の上でマジックを披露し、終始客を湧かせていた。彼の稼ぎ分が多いことは火を見るよりも明らかだった。そんな馬鹿正直な証言に、シュンは肩をすくめる。
「俺の目的はお前らの支援だ。俺よりもそっちのが大所帯だしな。それに、同じ封筒に全部まとめて入れてあるんだ。分け前は同じってことだろ」
彼が要請した支払い方法であることは棚上げにし、外の空気を吸ってくると、部屋を後にする。
ひんやりとした夜気が体を包み、心地よく肌を撫でる。しかし、そんな心地よさとは裏腹に、シュンの周囲の温度は鳥肌が立つほどに低下していた。
「何の用だ?」
壊れたドアを抜け、数歩。足をとめたシュンはともなく問いかける。それまでののんびりとした声音はどこへ消し飛んだものか。シュンが発した声には、剃刀の刃を上回る鋭利さが感じ取れる。その刃を鈍らせるような、やんわりとした口調が、その言葉を受け止めた。
「そんなに怒らないで下さいよ。私は何も――」
「何の用だ? 俺はあんたとは手を切ったはずだが」
シュンの視線が右に向けられ、その瞳に一人の男が映った。全身を黒いスーツで包み、同色の帽子を目深にかぶり顔を隠すそのたたずまいは、夜の闇に溶けているかのような錯覚を覚えさせた。
何の飾り気もなしに、再度投げかけられた拒絶に、相手は大げさに溜息をつく。
「あれ、そうでしたっけ?」
飄々とした口調で発せられた言葉に、シュンの眉根がほとんど分からぬほどわずかにひそめられる。
「俺はもう裏方を演じる気はない。それはあんたも知っているはずだ」
シュンは一方的にそれだけ告げ、踵を返す。しかし、その背中に投げかけられた言葉が、彼の一歩を妨げた。
「ええ。でも、今回はあなたも進んで受けてくれると思いますよ。零番街に関するものですからね」
男がそう言った直後、紙を捲る音が聞こえ、音が止むと同時に再び声が響き始める。
「零番街を標的に定めたグループが確認されました」
一気に吐き出された彼の言葉が、シュンの眉間に皺をよせ、依頼の仲介者の話に意識を向けさせる。最近、見かけない連中を目にした、という話を各グループから耳にしているだけに、まんざら嘘と断定することも出来ない。きな臭い空気が漂い始めた。
「しかも、プロの集団のようです。当然あなたと同業のね」
さらに続けられたその言葉に、シュンは眉間の皺を一層深くし、顎に手を添える。
『プロ』の集団。この言葉を聞くことになるとはさすがの彼も予想していなかった。一口にプロといっても、実は二種類ある。一つはいわゆるプロ。それを生業としている者のことを指す。もう一つはセミプロで兼業として、小遣い稼ぎなどを目的とした擬似プロ。しかし、集団となれば、まず間違いなく前者である。目的を確定できずとも、思い浮かぶことがらはマイナスのものしかない。
自分がやればその組織の戦力を削ることも可能だ。後は知り合いに任せて処分すればいい。しかし、そうなれば再び人を殺すことになる。それは、妥協できるものではなかった。
シュンの考えを見透かしたかのように、男はやや間をおいて話を続ける。
「まあ、依頼と言っても今回は標的一人の無力化、なんですがね。相手もなかなか慎重なようで、組織に脅しをかけるだけで、相手を殺す必要はありませんよ」
集団の一人を倒せば相手方に喧嘩を仕掛けることになる。しかし、慎重な相手ならばその慎重さ故に、出鼻を挫くことで作戦の開始を遅らせられる、うまくいけば白紙に戻す可能性もある。
その言葉にも迷いを見せるシュンに対し、男は畳みかけるように言葉をつづけた。
「断るなら、それもいいでしょう。頼める人はほかにもいますから。代わりはいます」
それまでの迷いが嘘であったかのように、シュンが鋭く右の闇を睨みつける。シュンの視線の先からからかうような悲鳴が上がり、声が続く。
「そんなに睨まないで下さいよ。別に嫌がらせではないんですから。それに、あなたが受けるのならば、あとはサポートに二人ほどですかね。」
「……」
シュンが零番街での支援を行っているのは、ひとえにこの男からの依頼を不要にするため。零番街は現在自立に向かっており、この男の必要性は低下している。しかし、今回のように、働き手が減った場合の対処はまだ甘いところがある。再度この男が付け入れる状況を作ってしまえば、この男を頼る連中が現れてもおかしくはない。それだけは避けたかった。自分以外の誰かが参加することは避けたいが、詳細な情報がない以上、その程度の加勢は必要だろう。
目を閉じ、思案していたシュンがゆっくりと目を開けた。暗闇に向けて、手のひらを上にして右手を差し出す。その上に、軽い音を立てて五枚ほどの紙が置かれた。
「では、お願いしますね。こちらの掴んでいる情報はすべて載せてあります。ではまた」
気配が消え、闇が再び静寂を取り戻す。手のひらに乗った書類に目を向け、それを懐に押し込むと、シュンは再び光の中へ足を踏み入れた。
「病人もいるんだ、そろそろ寝よう。俺も今日は泊ってくわ」
「オッケー、じゃあ、布団敷こうぜ」
部屋の床に布団を敷きつめ、各々適当な位置に身を横たえる。シュンが立ち上がり、天井からぶら下がっている紐に手をかける。
鉄二のような物好きのおかげで、かろうじて通っている電気を消し、再度体を横たえる。頼める人は他にもいますから――夜の中から届いたその言葉が脳裏をよぎり、眠りに落ちかけているシュンの脳裏に、微かにさざ波を立てた。
一応、一週間に一度の更新を目指しています。ある程度の書きためはあるので、五話目くらいまでは予定通り更新できると思います。
……始まったばかりだとあとがきに書くことがないな。