16 悔恨
――俺がすれ違う人間のほとんど、いやおそらく全員が、空想の中で生きている。
髪を染め、肌を焼き、ピアスをつけ、魅力的な自分の幻影に酔い――。
友人と称して群れ、思い違いから恋仲になってどこかで勘違いに気付けば、互いに裏切り者と罵り合う。
そして自分は世界一不幸だと、詩人を気取って。
たまたま現実に触れれば、それは夢だと思い込む。
誰もかれも、まるで幼児が夢想するような悲運の英雄を気取り、あるいは狡猾な悪役を演じる。
自分がぬるま湯の中に浸かっているとは夢にも思わず、裏側を見ることなく、陽に晒された表側だけを世界の全てと思い違って、安穏と生きている。
そんな生き方を選べれば、どれだけ楽だったのか。
「見たくなかったぜ、こんな現実なんて」
目的のカフェの前で立ち止まり、小さく呟くと、レンは意識を『現実』へと引き戻した。
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五百mという距離が消費されるに従って、人だかり特有のざわめきがシュンの耳に届き始めた。
その統一性のないざわめきに向かって歩みを進め、ゆったりと角を曲がると、人の壁。
その壁の外側の一人が、シュンの接近に気づいた。光を映さない瞳をこちらに向け、その横で背伸びをして中を覗こうとしている若葉の袖を引く。
振り向いた若葉に手を上げて挨拶し、近づきながら中の様子を尋ねる。
「どうなってる?」
「人が多くて全然見えないんですよね。何を言ってるかは、鈴音に聞いて分かってるんですけど」
「鈴音、なんだって?」
「『こいつに怪我をさせたくなければ、ありったけ金を持ってこい』とか、そんなことを」
「強盗か。随分と舐められたもんだな、零番街も」
シュンは苦笑してあきれ交じりに首を振った。『危ない連中ばかり』という印象が拭われたと考えれば、ある意味喜ぶべきことだ。しかし、『ガキばかり』と舐められるのは不本意。バランスをとることはやはり簡単ではない、内心でため息をつき、複雑な心情のままシュンは手近な背中に手を伸ばした。
「悪い、ちょっと通してくれ」
シュンが触れた背中の持ち主――シュンと同年代の少女――はシュンを振り向き小さく頷くと、道を開けながら彼女の前の背中に触れた。その背中の持ち主も後ろを振り向き、シュンを発見すると脇によけながらその前の背中に触れ――。
その動きは波状に伝わっていき、人一人が通れるだけの道を作り上げた。
そこをゆっくりとした足取りでシュンが通り抜けると、出来たばかりの道は再び一つの分厚い壁と化した。
「……お前ら、本当に懲りないな」
この言葉を彼らに向けて言うのは二度目だったか。花束のように華やかな、それでいて低俗な髪の色。既に三度零番街に仇をなした、青年の三人組。しかし、そのシンボルとなっている髪も、染め直せないためか根元が黒い色に戻り始めていた。
彼らを見るのはこれで三度目。だが、今回はいつもとは少々彼らの装いが違った。
彼らはその手に小型のナイフを構えており、リーダーと思われる中央の一人は、零番街の中で最年少の少女の首筋にナイフを突き付け、人質にしている。
「で? 要求は何だ? まさか、強盗ごっこをしてるわけじゃないんだろ?」
「待ってたぜェ……俺らのことを散々コケにしやがって! もう俺たちも容赦しねえ! こいつに怪我させたくねえなら、とっととこの街にあるだけの金を持って来い!」
「…………」
興奮してまくし立てる青年とは対照的に、人質にされている少女は表情を変えることなく直立し、おびえた様子もない。
シュンは左手を腰に当て、困ったような表情を作る。ひとまず、穏便に身振りを交えながら説得することにする。
「一応言っとくが、ここの連中はそんなに金持ちじゃあないぜ。バイトをしてるとは言え、まだバイトが出来ない小、中学生連中の食費はこいつらが稼いでる。その日暮らし同然だ。だから――」
「へっ、知ってんだぜ。ここの連中が金を貯めこんでることを。金がない? 笑わせんなよ」
青年はシュンの言葉を遮り、嘲笑した。自身の持つ情報故か、その口は笑みを浮かべたまま、とどまることなく言葉を吐きだしていく。
「零番街は少し前までは治安の悪さで知られてた。女は水商売、男は恐喝や勝あげで金を稼いでたからな。警察は何度もこの街から連中を追いだそうとして、その度に失敗。それが、ある時を境に治安は回復、警察とも和解した」
青年の話す真実が人の壁に吸い込まれ、消えていく。沈黙した彼らを前に、青年はさらに言葉を続けた。
「しかも、それまでに稼いだ金は使わねえことにして! その金を持って来いって言ってんだよ!」
どこからその情報を仕入れたにせよ、この青年の言っていることは事実だ。シュンが『裏』から足を洗い、この街に戻った時。ここは完全に犯罪の街だった。
警察が動けばほとぼりが冷めるまで待ち、いつまでも人員を割いていられない警察が引き揚げた後、再び集まる。その繰り返し。
だから、シュンはこの街を変えた。他の生き方も、希望も知らない彼らを、力づくでまとめ、警察や政治家とも話をつけ、治安を安定させた。今のこの状態を壊し、彼らを再び底辺へと落とすわけにはいかない。
それを――。
「早くしろ! テメエらのバイト、零番街の人間だって知られたらどうなるんだろうな?」
評判が回復しているとはいえ、零番街のイメージは未だに悪い。街に存在する謎の物質のこともある。仕事を始める際に必要な住所も、他の住所を借りている状態だ。ここの住人であることが分かれば、彼らは職も生活も失われるだろう。
「早くしろっつってんだよ! テメエらが汚ぇことして稼いだ金を、テメエらが使えねえ金を俺らが有効活用してやるって言ってんだよ!
汚いから使えねえ? テメエら屑が使う金なんざどれも同じなんだよ! オラ、とっとと――」
……止まった。
沈黙を守り、青年の言葉をただ聞くだけだった零番街の住人。核心を突かれて反論できない、そう考えた青年は自分の優位を疑わず、話し続けた。
そして――一線を越えた。
「……お前、どこかのボンボンか?」
凍りつき、周囲の時間からも切り離された、そんな沈黙の中で、シュンの言葉が異様に大きく響いた。
波打ち際に立っているかのような錯覚。何かが押し寄せ、足にまとわりつく。
青年たちを取り囲む、無数の目。その殺意に彩られた瞳の中で、ただ一つだけが穏やかに、笑いながら眺めていた。
「なかなか面白い話だった。確かに、俺も含めたここの連中全員が汚れている。だがな、それはお前らみたいな中途半端な汚れ方じゃあない」
口を開く。だが、喋れない。まるで、喉をなにかで塞がれているかのような感覚。隻眼の少年を前に、彼らは三つの壁となるよりほかはなかった。
「勝あげ、恐喝、水商売。その通り。表面上はな」
シュンが一歩を踏み出す。ゆっくりと、まるで僅かな時間すら楽しもうとするかの様な足取りで、青年に近づく。
「だがな、所詮それは表向き」
ゆったりと近づくシュンから、無意識のうちに後退する。しかし、その背中は数十センチで壁に押し付けられた。
自分たちが彼らを威圧しているつもりだった。だが、青年は無意識の驚愕と恐怖の中で、真実を知った。威圧され、いつの間にか壁際にまで追い詰められていた――逃げ場が、ない。
もう逃げ場のない彼らに向かって、シュンはゆっくりと歩みを進めながら、言葉の糸をつむぎ続ける。
「こいつらが標的にしていたのは、裏稼業の人間。端的に言えば、暴力団関係者だ。女はそいつらを安ホテルに誘い、男はそいつらに喧嘩を売って路地裏に連れ込むそして――」
額に浮かんだ脂汗が、玉となって転がり落ちた。
一度言葉を切ったシュンが柔らかく微笑む。
「暴力団同士の抗争に見せかけて殺すのさ。二つの小さな組織の連中を選んで襲い、その二つの組織をぶつけて、双方弱ったところを襲撃して皆殺し、金品を奪ってから火をつける。後はどっかの仲介屋が警察に話をつければ、見破られることはまずない。世間の目には暴力団同士の抗争としか映らない」
シュンは青年の一mほど手前で足を止め、中央の青年の胸倉をつかんで引き寄せる。
「そう、俺たちは人を殺してる。数え切れないほど。だが、そうさせたのは誰だろうな? 汚染されてるだの何だの、そんな曖昧な理由で職を制限され、他の生き方なんて選べなかった。人は殺したくない、だが仕事をしなければ年下のガキどもも自分も死ぬ。
お前は何不自由なく生きてきた、そうだろ? そういうツラをしている。そんな奴が……表だけを現実だと夢想して生きてきたお前たちが、俺たちを『屑』だと? 笑わせるな」
穏やかな微笑みは消え、その裏に潜んでいた本心が顔を出す。
それまでの穏やかさが幻覚だと気付かせる威圧感が、彼を押しつそうと膨らみ――。
「シュンさん」
リーダーの青年とシュンの間に、穏やかな少女の声が割り込んだ。シュンと青年の間に挟まれた、人質にされていた少女。彼女の一言が、再び世界を『表』へと反転させた。
シュンは首を傾げ、優しく少女に問いかける。
「うん? どうした?」
「それ以上やったらこの人壊れちゃうよ。ほら」
言葉と共に少女がひょいと下を向いた。その視線の先で徐々に広がる水たまり。
それを目にした次の瞬間、シュンはつかんでいた青年を突き飛ばしながら少女を引き寄せた。そのまま自分ごと一回転、彼女を背中側に運ぶ。
「バカ野郎、もっと早く言え、服が汚れんだろうが。大体、なに捕まってんだ。お前でも一人で逃げられただろ?」
「でも誰かが構ってあげないと、あの人たちが可哀そうでしょ?」
何かおかしいのか、とでも言いたげに首をかしげながら、少女はシュンの言葉に応えた。
そんな少女の落ち着き方にため息を吐きつつ、シュンは肩越しに青年達を振り向いた。
「帰れ。こいつらは自分から人を殺すような連中じゃない。お前らが背を向けようと、何もしやしない。そいつを連れて、とっととお前らの世界に、『表』に帰るんだ」
鋭く、しかし穏やかなシュンの言葉と共に、彼らを囲んでいた壁に亀裂が入った。
もとよりそこまで乗り気ではなかったのかもしれない――中央にいた青年を除く二人はどこかほっとしたような表情を浮かべ、魂の抜けたような状態のリーダーに肩を貸し、立ち上がらせるとゆっくりとその場に背を向けた。
彼らが人ごみを抜ける間も、零番街の住人達はただ無表情にそれまでと同じように見つめるだけ。
徐々に遠ざかっていく三つの背中を、数十の視線が無言で後押しする。そのどれもが、微かな嫉妬に似た感情に彩られていた。
遠ざかる背中が街角に消えるまで、彼らの視線が切れることはなかった。
なんだかスランプ気味だな~と考えながら書いていた今週。
流れ自体は非常に良く進んだんですが。そういうときは文章が気にいらないのがお約束。
とはいっても早く書き終えていたので多少はマシになったと思いますが。
最近寒いので、気をつけて。
では――。