連なり
数か月が過ぎた。
男との関係は、まだ続いていた。
毎日連絡を取るわけではない。
用があれば連絡する。
時折、食事をする。
ひと月近く、何もないこともある。
それでも女は気にしなかった。
細いままでいい。
強く引かなければ、糸は長く残る。
夜になれば、以前と変わらず男の配信を聞いた。
コメントはしない。
名前を呼ばれる必要もない。
ただ、聞いている。
昼間に連絡先を知っていることと、
夜、大勢いる視聴者の一人でいることは、
女の中では別のことだった。
男から連絡が来たのは、
そんなある日のことだった。
久しぶりに食事でもどうですか、と誘われた。
女は断る理由もなく、約束の店へ向かった。
男は相変わらずよく喋った。
仕事のこと。
最近あった出来事。
少し面倒な人間関係。
時には、答えを求めているわけではない話もした。
そういう時、女は答えを出そうとしなかった。
「それは大変でしたね」
「そうなんですか」
分からないことを、分かったようにも言わない。
男が話し終えるまで聞く。
自分にも似た経験があったとしても、すぐに自分の話へ持っていくこともしなかった。
いつからか。
それで会話が成立するようになっていた。
「そういえば」
食事の途中、男が言った。
「会社の方、どうなんです?」
「会社?」
「継ぐ話。前に言ってたでしょう」
「ああ」
女は箸を置いた。
「まだ勉強中です」
「継ぐのは決まってるんですか?」
女は少し考えた。
「たぶん」
「たぶん?」
男が笑う。
女も笑った。
「私が逃げなければ」
「逃げる気あるんですか?」
「今のところはないです」
「じゃあ継ぐんじゃないですか」
「そうなるんですかね」
男は少し呆れたように笑った。
女自身、まだ分からなかった。
会社を継ぐ。
言葉にすれば簡単だった。
けれど、実際に何を知っていなければならないのか。
人をどう見るのか。
何を残して、何を変えるのか。
どこまで自分で決めていいのか。
分からないことの方が多かった。
だから勉強している。
ただ、それだけだった。
「でも、あなたって変に知ったふうなこと言わないですよね」
男がふいに言った。
「そうですか?」
「こっちが話してても、途中で自分の話に持っていかないし」
「だって、分からないことは分からないですから」
「普通、そこを何か言いたくなるんですよ」
「何をです?」
「アドバイスとか」
女は少し考えた。
「求められてないのに?」
男が笑った。
「そういうところですよ」
女には、何が「そういうところ」なのかよく分からなかった。
少しして、男が思い出したように言った。
「そうだ。たぶん、話が合う人がいるんですよ」
「私とですか?」
「うん。会社を継ぐ側の相談にも乗ってる人で」
女は黙って続きを待った。
「いろんな会社をずっと見てきた人なんですけど、あんまり答えを教えるタイプじゃないんですよね」
「教えないんですか?」
「話を聞いて、質問して、本人に考えさせる感じ」
「怖そうですね」
「怖くはないです」
男は笑った。
「むしろ、あなたみたいな人の方が合うと思う」
「私?」
「変に答えを作らないでしょう」
女は少しだけ首を傾げた。
「今度会うんですけど、一緒に来ます?」
一瞬。
女の中で、何かが止まった。
それが何なのか、自分でも分からなかった。
「私なんかで、いいんですか?」
「いいと思いますよ」
男はあっさり答えた。
「こういう話、ずっと見てる人だし。会社を継ぐ側の相談にも乗ってるし」
「じゃあ……お願いします」
女はそう答えた。
自分が頼んだのではない。
男が誘った。
そんな形になる言葉を、
考えるより先に選んでいた。
けれど。
女自身は、そのことに気づかなかった。
数週間後。
女は男と一緒に、その人物に会った。
年齢は男よりずっと上だった。
いくつもの会社を見てきたという。
経営者。
後継者。
会社を譲った者。
継げなかった者。
その人の話には、名前のない誰かが何人も出てきた。
女は聞いた。
質問されたことには答えた。
自分の会社のこと。
今の仕事のこと。
これから継ぐ可能性があること。
「継ぎたいんですか?」
そう聞かれた時だけ、女は少し黙った。
「分かりません」
男が横を見る。
けれど、その人物は笑った。
「正直ですね」
女は困ったように笑う。
「すみません」
「謝ることじゃないですよ。継ぐことと、継ぎたいことは別ですから」
女は、その言葉を覚えておこうと思った。
話は続いた。
相手は自分の経験を話した。
成功した会社の話。
失敗した会社の話。
後継者が会社を変えた話。
その中には、女の知らない世界がいくつもあった。
この人の周りには、人がいる。
それだけは分かった。
けれど女は、
ほかには、どんな会社を見ているのか。
誰と付き合いがあるのか。
その先に、誰がいるのか。
聞かなかった。
聞こうとも思わなかった。
今、目の前にいる人の話を聞く。
それで十分だった。
話が終わる頃。
その人物が言った。
「今度、後継者を何人か集めるんですよ」
「そうなんですか」
「小さな集まりですけどね」
女は頷いた。
「よかったら来ます?」
また。
女は、ほんの一瞬だけ黙った。
「私なんかで、いいんですか?」
言ってから。
ほんの一瞬だけ、女は黙った。
まただ。
けれど、その違和感が何なのかまでは分からなかった。
「もちろん」
相手は笑った。
「むしろ、そういう人に来てほしいんですよ」
女も笑った。
「では、ぜひ」
一本だったものに。
もう一本が触れた。
帰り道。
男が何気ない調子で尋ねた。
「今度の集まりも行くんです?」
「はい。誘っていただいたので」
「そっか。いいんじゃないですか」
男は笑った。
最初に会った頃。
女は会社を継ぐことについて、まだどこか頼りなかった。
分からないことも多い。
何を学べばいいのかさえ、よく分かっていないように見えた。
だから、知っていることを話した。
自分より詳しい人間がいれば、つないだ。
少しずつでいい。
そうやって覚えていけばいいのだと思っていた。
けれど今では。
自分が紹介した人間から、さらに別の場所へ誘われている。
その先には、自分の知らない人間もいる。
――そのうち、俺がいなくても
平気になるんだろうな。――
ふと、そんなことを思った。
巣立っていく子を見るのは、こんな感じなのかもしれない。
「……何笑ってるんですか?」
女が不思議そうに男を見る。
「いや。なんでもないです」
男は自分でも可笑しくなった。
そもそも、自分が育てたわけでもない。
たまたま知り合って。
少し話を聞いて。
知っている人間を一人、紹介した。
それだけだ。
少し、世話を焼きすぎたのかもしれない。
そう思って、その感覚を片づけた。
「でも」
女が言った。
「また分からないことがあったら、聞いてもいいですか?」
「もちろん」
男はすぐに答えた。
さっき浮かんだ妙な感覚は、それで消えた。
まだ、しばらくは。
自分にできることもあるのだろう。
男はそう思った。
その夜。
女はベッドに入り、いつものように男の配信を聞いていた。
何も書き込まない。
名前を呼ばれることもない。
ただ、聞いている。
男との関係は何も変わっていなかった。
少なくとも。
女は、そう思っていた。
やがて。
紹介された人物とは、その後も時折連絡を取るようになった。
そして、あの日話していた集まりにも顔を出した。
そこには、また別の人間がいた。
会社を継いだ者。
これから継ぐ者。
すでに会社を譲った者。
その周囲には、さらに別の人間がいた。
一本だったものに、もう一本が触れた。
そこから、また別の一本へ。
女は追わなかった。
誰とつながっているのか。
その先に誰がいるのか。
聞かなかった。
ただ話を聞いた。
求められれば、自分のことも話した。
分からないことは、分からないと言った。
それだけだった。
それなのに。
気づけば、一本ではなかった。
何本あるのかも、分からない。
女はまだ知らない。
人は、自分の話を聞いてくれる相手に、もう少し話したくなることを。
何も求めてこない相手には、こちらから何かを渡したくなることを。
閉じた場所へ入ろうとしない人間ほど、こちらから扉を開けてもいいような気がしてしまうことを。
女自身もまた、自分がそれを繰り返していることに気づいていなかった。
自分は、運がいいのだと思っていた。
偶然、人に恵まれているだけ。
それだけだと。
一本だった糸は、もう一本ではなかった。
男から伸びた糸。
その先から伸びた糸。
さらに、その先へ続く糸。
どれが最初だったのかは、まだ分かる。
一番古い糸は、今もそこにある。
夜になれば、その声を聞く。
分からないことがあれば、尋ねる。
男もまだ、女に教えることがあると思っている。
女もまだ、男から教わることがあると思っている。
だから、その糸は残っている。
細いまま。
切れずに。
けれど。
いつか、それすら分からなくなるほど糸が増えたなら。
そのとき、一番古い糸がどうなるのか。
女は、そんなことを考えなかった。
今はまだ。
ただ。
巣は、少し広がった。




