水泡
これですべてが終わる。僕は屋上のフェンスに足をかけて、ついに覚悟を決めた。はじめて見る景色だ、けれど何もかもがさかさまでよく見えない。
目を開けると、そこには純白に輝く世界があった。これは所謂「天国」というものではなかろうか。しかし、僕は今まで「天国」の存在を信じはしなかった。人は世を生きる中で必ずや悪行の一つや二つは犯してしまうものであり、誰も天国に逝くことはできない。そう思っていたからである。
ばかに綺麗な眼前の景色に見惚れていると、向こうから足音が聞こえてきた。
「よお、新入りか?」
先輩風を吹かすような話しぶりで、男はやってきた。僕以外にも、人はいるようだ。
「ここは天国なんでしょうか。」
そう訊いてみると、彼は
「どうだろうね。ここは天国か、なんてみんな知らないさ。俺だってわからない。まあ、考えるだけ無駄よ。」
と諦めたように云った。
それから僕はその男(これ以降は先輩と呼ぶことにする)とこの世界を探索することにした。あるとき、僕は何かが足に引っかかって転んでしまった。ふつうであれば膝から少々血が出るものだろう。子どものころはそういうことでよく泣いたものである。だが、全く痛くないのである。膝を見ると血は出てないし、傷もない。なぜでしょうか、と先輩に訊いてみると、彼は僕の頬を引っ張ってみせた。
「どうだ、痛くないだろう?」
先輩の云うとおりである。この世界では痛みを感じないらしい。まあ、前世で散々痛みを味わってきたから、ありがたい。
まわりには様々な建物があちこちにあった。それは家だったり、お店だったり、遊園地や映画館みたいな娯楽施設だったりした。だが、どれだけ捜しても飲食店の類は見つからなかった。そういえば、ここに来てから何も食べていない。もしかして、この世界では空腹になることがないのだろうか。一日に三回「食事」という時間を挟まなくてもいいのは、嬉しいような気もする。しかし、人間にとって食を楽しめないというのはたいへん苦しいことである。
僕は一日じゅうあたりを散歩して、この世界のルールをだいたい理解した。
「どうすれば、ここから出られるんですか。」
ずっとここで暮らすという選択があってもよかったが、やはり僕はこの世界から抜け出したかった。すると、先輩は
「ここを出るには善行を積んで、それを神様に認めてもらう、その外ないさ。だけど、俺含めたこの世界の住人たちは今の生活を満喫してるから、みんなそんなことする気はないんだけどね。」
と、呑気に答えた。それでも、僕はここを出たかった。あんな一生には懲りたからだ。
僕は三人兄弟の次男に生まれた。次男とは不遇な存在で、親は長男と三男だけを寵愛した。殊にこれといった趣味もなく、誇れる特技もなかった。学校ではちょっと変わった人として見られていた。みんなが好きなものが嫌いで、みんなが嫌うものが好きだった。そのせいか、僕は学校でいじめられるようになった。奴らと目が合うたびに罵倒されたり、きわめて不名誉なあだ名をつけられたりして、とても疲れた。奴らにいじめられるのはむろん辛かったが、それよりも辛かったのは、誰も僕を味方してくれなかったことだ。先生に相談しても碌に対応してくれないし、親も長男や三男と話すばかりで、僕には見向きもしないのだ。これにはついに我慢ならなくなってしまい、そして今に至るわけである。だから、僕はこの世界に来てからずっと、ここを出たいと思っていた。
それから僕は善行という善行を積んだ。まずは誰にでもできそうなものから始めた。ゴミ拾いである。空は真っ白でたいそう神々しかったが、地面には空き缶が転がっていた。次に、ボランティア活動である。実を言うと、僕はあまりボランティアというものがあまり好きではない。報酬が貰えないなら、やりたくない。それが僕の考えであった。元来、ボランティア活動というものは世のため人のためにするものであろうが、そのときばかりは「自分のため」になってしまっていた。自分のためであればどんな遠いところが活動場所であっても、僕はボランティア活動に参加したのであった。
ここにきてから、どれくらい経っただろうか。僕はあれから頻りに善行に打ち込んだ。今日、ついに僕は神様とご対面することにした。とは言っても、何処に神様はいるのだろうか。先輩に訊くと、それ曰く
神様はずっと同じところに座っているらしい。先輩は僕を神様のいる場所まで案内してくれた。
「先輩はどうしてここに来たんですか。」
その道中で、僕は訊いた。
「おお、それか。俺は生前、建設会社に勤務していたんだ。その会社、かなり厳しくてな。なかなか辞表を出せなかったのを覚えているよ。ある日、俺はマンションの工事をしていたんだ。壁の塗装工事だったかな。そのとき、バケツに入っていたペンキがこぼれたままになっていたのに気づかなかったんだ。うっかり、ペンキで濡れて滑りやすくなってたところを踏んでしまって、すってんころりん、てわけさ。ほんとうに、困っちゃうよな。そんときはどうなんのかと思ったけど、ここに来られて今は幸せだよ。」
目的地に着いた。そこには、僕らが蟻にみえてしまうぐらいに背丈の高い神様が、どっしりと座っていた。
「何のご用で。」
「ここを出て、新しい人生を歩みたいのです。」
僕は今までの善行の数々を語った。
「ほう。それはそれは。今までたくさんのご苦労があったことでしょう。ですがもう大丈夫です。今からあなたをここから出してあげますからね。」
ああ。これでやっと自由の身だ。と、胸を撫で下ろしたのも束の間であった。
「おっと、すみません。大事なことを言い忘れていましたね。あなたは今から、この世界を出ます。それは、あなたの二回目の人生が始まることを意味するのですが、ここで一つ注意していただきたいことがありまして…」
「それは何ですか。」
「それは…あなたの二回目の人生は絶対にいちから始まるわけではない、ということです。」
つい驚きを隠せなかった。神様の云うことには、ここを出ていくものは記憶と肉体がなくなり、残るのは魂だけらしい。じゃあ、その魂はどこへ行くのかって?それは…今現世に生きている人だ。魂は「生きている人」の肉体に憑依する。そして、記憶もその「生きている人」のものに塗り替えられる、というのだ。どうしようか。今日こそは、この世界との永訣の日になるかと思っていたのに。そう云われると悩んでしまう。
「本当に行っちゃうのか?」
先輩はこれまでにないくらい淋しそうな顔で云った。その顔を見ると、心が痛む。先輩には申し訳ないが、もう決めたことなんだ。行こう。僕はついに、この世界に別れを告げて、新しい道を歩むことにした。
「じゃあな。もう帰ってくるなよ…」
先輩は涙ぐんで、肩の関節の外れるぐらいに手を振って僕を見送ってくれた。そうして、僕の視界は真っ白になった。ああ、記憶が薄れていく…どうか、二回目の僕の人生に期待を…。
これですべてが終わる。僕は何処かの建物の屋上で、そこにあったフェンスに足をかけた。あっ。




