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真実の愛に気付いた王太子に告げられた婚約破棄を受け入れた公爵令嬢の話

真実の愛に気付いた王太子に告げられた婚約破棄を受け入れた公爵令嬢の少しだけ昔の話

作者: 曲尾 仁庵
掲載日:2026/06/03

 雨が降っていた。土砂降りの雨。黒雲が陽光を遮り、雨粒が地を穿つ。雨は山肌を滑り落ちて集まり、山道を小川へと変えつつあった。

 雨を吸って重くなる一方の外套が強風にあおられる。フードが外れぬよう手で押さえながら、スカーレットは後ろを振り返った。そこには三十人ほどの村人が、雨風の中を必死に歩いている。赤子を抱え、老親を背負い――そして、犬猫を籠に入れて運ぶ者たち。それは『家族』を諦めることを拒んだ者たちの群れた。


「もう少しです! 頑張って!」


 雨音に負けぬようスカーレットは声を張り上げる。山が細かく振動し、不穏な音を立てた。




 東にザーランド王国と国境を接するバゥム公爵領は険峻な山々に守られた天然の要害である。攻めるに難く守るに易いその地形は幾度となくザーランドからの侵攻を食い止めたが、一方でこの地はたびたび水害に苦しめられてきた。西から届く湿った空気が山脈にぶつかって雲を為し、豪雨をもたらす。ひとたびそれが起これば山岳に点在する村々は交通が遮断されて孤立し、最悪の場合は土砂に飲まれる。公爵令嬢スカーレット・バゥムはそんな村の一つを訪れ、村人たちの避難誘導を行っていた。




 ぬかるんだ山道は村人たちの歩みを鈍らせ、スカーレットの顔に焦燥が滲む。この付近の地盤は弱く、雨になればしばしば崩落を起こしている。足裏から伝わる振動はいつ山の斜面が崩れてもおかしくないことを教えていた。早くここを抜けなければ――しかし冷たい雨に晒され続けている村人たちの体力を思えば、急かすことも難しい。


――ドーンッ!!


 雨音をかき消すほどの轟音が頭上から降り、スカーレットは顔を上げた。雨が途切れ、影がスカーレットを覆った。村人たちが足を止め、呆然とつぶやく。


「……落、石――?」


 山肌で跳ねた、村人たち全員を圧し潰すほどの大きな岩が、そこにあった。雨音が遠く、村人たちが為す術なく、わずか、時間が止まる――


「イィアァァァァーーーーーッ!!」


 運命を否定する絶叫と共にスカーレットが跳躍し、中空で後方に回転する勢いのまま、落石につま先を叩きつける。つま先は岩に突き刺さり、そこから無数の亀裂を生んで、落石は瞬時に砕け散った。パラパラと降る細かな石片を顔に受けながら、村人たちは奇跡を見たかのように呆然と立ち尽くす。スカーレットは優雅に地面に降り立ち、真剣な声で言った。


「バゥム公爵家は皆さまを必ずお守りいたします。避難場所まではもうすぐです。どうか、私を信じて」


 濃く疲労を宿した村人たちの表情に生気が戻る。うなずき、再び足を踏み出した村人たちの様子に、スカーレットは微笑みを浮かべた。




 雨は激しさを増し、村人たちの体力を確実に削っていく。どこかで起きたであろう地滑りの振動が皆を精神的に追い詰める。スカーレットは必死に村人たちを励まし、時に歩けぬと泣く子らを背負い、不安げに鳴く仔猫を懐に抱いて山道を進む。遠く木々がなぎ倒される音が響き、村人たちが肩を震わせた。スカーレットはあえて明るい声を作る。


「大丈夫です! もう少し、ここを越えれば避難所が見えて――」


――バリバリバリバリバリバリッ!!


 スカーレットを嘲笑うように、落雷と紛うような轟音が声を遮る。砕け、崩れ、跳ね落ちる無数の音が世界を染め上げていく。スカーレットのいるわずか数歩先を、土砂と倒木を引き連れた濁流が遮っていた。


「……上で雨水をせき止めていた土砂が、決壊したのか――」


 村人の一人がぽつりとつぶやく。濁流はすさまじい勢いで流れ下り、その猛威がすぐに止むことはない。この地で暮らしている村人たちはそれを知っているようだった。皆の表情から急速に希望が、生きる意志が、消えていく。


「大丈夫です! 大丈夫! きっと、何か、方法が――!」


 スカーレットは濁流に負けぬ大声で叫ぶ。しかしそれが虚勢であることは明らかだった。スカーレット自身が、叫びながら具体的な手段を探している。そして具体的な手段などありはしないのだ。


「大丈夫、大丈夫です!」


 焦燥を露わにしてスカーレットは叫び続ける。諦めてはいけない。諦めない! その想いだけが空回りする。村の長がスカーレットの前に進み出て、首を横に振った。


「……もう、充分です、お嬢様」


 大きな雨粒がスカーレットを打つ。引きつった笑顔でスカーレットは答えた。


「何を、おっしゃっているの?」


「公爵家のお嬢様が、我らのような村人を気にかけてくださった。それだけで充分です。お嬢様おひとりなら生き延びることも叶いましょう。どうか、我らは捨て置いてお逃げください」


 村人たちが皆スカーレットを見る。諦念に彩られた優しい笑みに、スカーレットは激しく首を振った。


「バカなことを言わないで! 諦めてはなりません! 諦めなければ、きっと――」

「もう、無理なんだ!」


 村の長がスカーレットの言葉を遮り、スカーレットはビクリと肩を震わせる。村の長はそっとスカーレットの手を取った。


「……ここに留まっていても命を無駄にするだけ。どうか、行ってください。生き延びる力がある者には生き延びる義務がある。命を、大切になさい」


 冷え切ったスカーレットの手が震える。駄々をこねるように硬く目を閉じ、スカーレットは叫ぶ。


「嫌です! バゥムの血に連なる者は何も諦めはしない! 私はバゥム公爵家の娘です!」


 スカーレットは村の長の手を振り払い、濁流を振り向く。自然は誰の想いも一顧だにせず、荒ぶるままに轟音を響かせていた。スカーレットは灼き尽くさんばかりの怒りで濁流をにらみつけた。


「控えよ下郎! 控えよ!! 何者も、我が道を阻むことは許さぬ!!」


 咆哮が山に響く。響き、散る。何も変わらない。何もできない。血が滲むほど唇を噛むスカーレットの目に光るものが浮かんだ。




「泣くのか、スカーレット」


 静かな低音が耳に届き、スカーレットは弾かれたように振り返った。村の長が驚きに目を瞬かせる。いつの間にかそこには、四十に届くかどうかの年齢の偉丈夫が立っていた。


「その涙はバゥムの涙ではない。己を襲う悲劇に酔う涙だ。誰かのためでなく己を救うための涙だ。その涙は、バゥムに必要のない涙だ」


 傅こうとする村人たちを手で制し、偉丈夫は冷酷なほどに落ち着いた声音でスカーレットに語り掛ける。スカーレットは慌てたように手で涙を拭った。


「お父、様――」

「泣く以外に何もできぬか。思考を尽くし道を求めたか。動く手足は役に立たぬか」


 偉丈夫――バゥム公爵はまっすぐにスカーレットを見る。スカーレットは公爵を見つめ返し、口惜しそうに目を伏せ拳を握った。


「私には、できませぬ――」


 スカーレットの肩が屈辱に震える。公爵は表情を緩め、スカーレットの歩み寄って肩に手を乗せた。


「己の弱さを知ったのなら、それでよい。明日のお前は今日よりずっと強くなっていようから」


 公爵はスカーレットに下がるよう促し、濁流を正面に見据える。


「ならば父が道を示そう。見ておくがいい、スカーレット。バゥムの血に連なる者のあるべき姿を。お前がやがて辿り着く頂を」


 スカーレットが公爵を見る。その、大きな背中を。公爵は大きく息を吸うと、雷鳴もかくやという大音声を上げた。


()ねぇぇぇぇぇーーーーーーーいっ!!!!」


 咆哮が大気を、大地を、天を震わせる。地鳴りのような音が地の底から上り、裂けるように地面が割れた。雨脚は急速に弱まり、ぽっかりと開いた底の見えぬ大きな穴が濁流を飲み込む。それはまるで濁流が穴に自ら飛び込んでいくようだった。


「……濁流が、逃げた――?」


 村の長が呆然と濁流を飲み込む穴を見つめる。バゥム公ハンニバル――この男の一喝は自然をすら怯えさせ、退けるのだ。公爵はスカーレットを振り返った。


「犬を飼いたいと言ったそうだな」

「……はい」


 スカーレットは神妙な顔で答える。厳しい表情で公爵は言葉を続ける。


「ならばお前は武の頂を目指さねばならぬ」

「武の、頂……」


 意味を噛み締めるようにスカーレットは言葉を繰り返した。公爵は重々しくうなずく。


「お前はあらゆる苦難から犬を守らねばならぬ。病然り。怪我然り。空腹、衛生、老い、あるいは災害、戦争――脅かす全てを打ち払い、犬を幸福にせねばならぬ」


 スカーレットは小さく息を飲む。公爵は淡々と真実を語る。


「己が最強たらねば、最強が敵となったとき犬を守れぬ。ゆえにお前は頂に立つのだ。人が阻むなら人を討ち、自然が阻むなら自然を砕き、神が阻むなら神を殺す。その力を得て初めて、お前は資格を得るのだ」


 公爵は鋭くスカーレットの目を射抜いた。


「それが犬を飼うということだ、スカーレット」


 スカーレットは目を閉じ、胸に手を当てて、深く呼吸すると、確固たる意志を宿した瞳で公爵を見つめ返した。


「この魂に刻みます」


 満足そうにうなずき、公爵は村人たちを振り返る。


「この先に避難所がある。温かい食事も用意しておるゆえ、しっかりと身体を休めよ」


 雨雲が風に流れ、雲間から光が差す。村人たちは「おお」と声を上げ、はらはらと涙をこぼした。村人たちに囲まれる偉大な父の姿を、スカーレットはじっと見つめていた。



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