小説とは何か?
小説とは何か。この問いに対する決定的な答えは、おそらく存在しない。小説はあまりにも自由であり、あまりにも多様だからである。恋愛を書いても小説になるし、犯罪を書いても、神話を書いても、退屈な午後を書いても小説になる。しかし、それでもなお、小説には共通する骨格のようなものがある。私にはそれが、「幻想形成」「言語生成」「起承転結」という三つの運動によって成り立っているように思える。
まず、小説とは幻想形成の技術である。読者は、文字を読むことで頭の中に世界を出現させる。例えば「雨だった」と書かれているだけで、空気の湿り気や、灰色の空や、濡れた道路までを勝手に想像してしまう。実際には紙の上に黒い記号が並んでいるだけなのに、読者の内部には街が立ち上がり、人間が歩き始める。この現象は、冷静に考えるとかなり異様である。小説とは、言葉によって読者の脳内へ幻覚を発生させる装置なのだ。
しかも、その幻想は人によって異なる。映画のように完成した映像が提示されるわけではない。同じ小説を読んでも、読者ごとに異なる顔や風景が存在している。つまり小説とは、作者が一方的に世界を与える芸術ではなく、読者の想像力へ寄生することで成立する形式なのである。
次に、小説には言語生成という側面がある。一般には、小説とは頭の中にある物語を文章へ変換する作業だと思われている。しかし実際には、書く前から全てが完成しているわけではない。むしろ、多くの場合、言葉そのものが次の言葉を呼び込み、作者自身も予測していなかった展開を生み出してゆく。ある一文を書く。その一文が空気を決定し、次の文章を要求する。すると人物が勝手に動き始める。小説家が「登場人物が自律した」と語るのは、単なる比喩ではない。
言語とは、情報を伝えるだけの道具ではなく、それ自体が増殖する生き物に近い。書いているうちに、作者の意図を越えて、別の感情や思想や風景が立ち上がってくる。だから小説を書くという行為には、常に少し危険なところがある。言葉は時として、作者自身の制御を離れるからだ。
そして第三に、小説には起承転結が存在する。これは単なる古典的作法ではない。人間の意識そのものが、出来事を流れとして把握する性質を持っているからである。何かが始まり、展開し、揺らぎ、終わる。その構造を人間は本能的に求める。たとえ前衛小説であっても、完全に時間や変化から逃れることはできない。
起承転結とは、単に物語の技術ではなく、世界を理解するための形式なのだろう。人は偶然の連続に耐えられない。だから出来事へ意味を与え、流れを作り、終わりを求める。小説とは、その意味形成の欲望を最も純粋な形で引き受けた芸術なのかもしれない。
結局、小説とは、言葉によって幻想を形成し、その言葉がさらに新たな言葉を生成しながら、起承転結という時間の流れの中で読者を運んでゆく装置なのである。そして作者も読者も、その流れを完全には支配できない。ただ、その奇妙な生成の瞬間に立ち会っているだけなのだ。
追記
なお、第三要件の起承転結の物語構成があるのを、エンタメ文学。それが、なくなったのを純文学と定義する。
カフカは断然後者である。絶望の世界という幻想形成をして、無限の言語生成を行なっている。




