港町の夜
――ガチャ。
事務所の扉が、乱暴に開いた。
酒と潮の匂いが、一気に流れ込む。
「おー、ノア」
「戻ったぞ」
太った男が、下っ端を二人引き連れて入ってきた。この事務所のボスだ。
顔は赤く、上機嫌。
港で一仕事終えたあとの、いつもの顔。
ノアの心臓が、嫌な音を立てる。
(……来た)
(最悪のタイミングだ…)
ボスの視線が、部屋の奥で止まる。
佇む少女――レイン。
背筋を伸ばし、
借り物の服をきちんと着こなしている。
場違いなほど、落ち着いている。
「……へえ」
値踏みするような目。
「なんだ、こりゃ」
「随分いいの拾ったじゃねえか、ノア」
ノアの喉が鳴る。
(見るな)
(何も言うな…)
(そのまま通り過ぎろ……!)
「い、いえ……」
「少し話をしてただけで……」
ノアは慌てて割り込む。
「今日はもう帰ってもらうところで」
「詳しい話は、また――」
「お姉ちゃん」
ボスが、レインに向かって声をかけた。
ノアの言葉は、完全に無視された。
「顔もいいし、愛想もいい」
「この感じならなぁ……」
ボスは指を折りながら、軽い調子で言う。
「月、三百ゴールドはいけるな」
「下手すりゃ、もっとだ」
下っ端が、ひゅうっと口笛を吹く。
ノアの背中を、冷たい汗が流れ落ちた。
(やめろ……)
(刺激するな……)
レインは、驚いた様子も見せず、
一歩下がり、
丁寧に頭を下げる。
「初めまして」
「レインと申します」
柔らかい声。
穏やかな表情。
何も知らない少女、そのもの。
ボスは、完全に油断した。
「礼儀もある」
「当たりだな」
ノアを肘で小突く。
「お前、運いいぞ」
下っ端たちが、下卑た笑いを浮かべる。
ノアの胃が、きしむ。
(運がいいんじゃない)
(終わってるんだ……)
「まあ、細けえ契約の話は明日だな」
ボスは、手をひらひら振る。
「今日は顔見せってことで」
「宿、取ってやれ」
ノアは、必死に頷いた。
「は、はい」
「すぐ手配します」
(頼む……)
(このまま、消えてくれ……)
ボスは、レインを見て笑う。
「明日、ちゃんと話そうぜ」
「いい仕事、用意してやるからよ」
レインは、にこりと微笑んだ。
「ありがとうございます」
「検討させていただきますね」
その一言でノアの背筋が凍りつく。
(……検討、って)
(この女また来る気だ……)
だがボスは気にも留めない。
「おう」
「じゃあな」
レインはもう一度だけ頭を下げ、静かに事務所を出ていった。
扉が閉まる。
静寂。
ノアは、力が抜けたように椅子に座り込んだ。
———
宿は、街の外れにあった。
二階建ての古い建物で、壁には潮風で剥げた跡が残っている。
だが――
扉が閉まった瞬間。
世界が、変わった。
外の喧騒が、途切れる。
怒号も、笑い声も、波の音も。
ただ、静かだった。
レインは、しばらくその場に立ち尽くしていた。
鍵のかかった扉。
割れていない窓。
揺れない床。
――安全だ。
その事実を身体が理解するまでに、少し時間がかかった。
⸻
部屋は狭い。
だが、清潔だった。
ベッド。
机。
椅子。
レインは、ゆっくりと腰を下ろす。
軋まない。
地面が冷たくない。
「……」
喉の奥が、詰まった。
地下では、
眠るという行為は「気絶」に近かった。
いつ外界種が来るか分からない。
真気を止めれば、死ぬ。
そんな場所で、
深く眠ることはなかった。
――一年ぶりだ。
安心して、目を閉じられる場所。
⸻
ほどなくして、食事が運ばれてきた。
湯気の立つスープ。
柔らかいパン。
油で焼いた魚。
特別な料理じゃない。
だが――
レインは、スプーンを持つ手を止めた。
匂いが、違う。
血の匂いでもない。
焦げた肉でもない。
ちゃんとした人間の食べ物だ。
「……温かい」
一口、口に運ぶ。
塩味。
油。
香草。
舌が、びくりと反応する。
思わず、もう一口。
咀嚼する。
飲み込む。
胃に、落ちていく。
その感覚があまりにも、懐かしかった。
胸の奥が、きゅっと締めつけられる。
「……美味しい」
小さく、呟いた。
誰に聞かせるでもなく。
⸻
食べ終える頃には、指先の震えが少しだけ収まっていた。
レインは、ベッドに腰掛ける。
武器は、布に包んだまま、壁際に立てかけてある。
視界に入る位置。
無意識だ。
安全な場所に来ても、完全に手放すことはできない。
「……戻れない、か」
ぽつりと、零す。
ダリア。
地下。
屍の山。
そこで生き延びた自分と、今、こうしてパンを食べている自分。
同じはずなのに、どこか噛み合わない。
人間らしい生活が遠すぎる。
⸻
考える。
これからのことを。
まず――
戸籍。
金。
共和国に戻るための手段。
MEKに近づくための足場。
今日出会った男たち。
ノア。
事務所のボス。
(……使えそうだ)
感情は、動かない。
好意も、嫌悪もない。
ただ、効率だけを見る。
生きるため。
進むため。
それだけ。
⸻
それでも。
布団に横になると、身体が勝手に力を抜いた。
目を閉じる。
暗闇が、怖くない。
魔気もない。
外界種もいない。
安全だ。
本当に、安全だ。
「……少しだけ」
一晩だけ。
考えるのは、明日でいい。
レインは、久しぶりに「眠る」という行為に身を委ねた。
その頃。
港町のどこかで、
酒の匂いが、濃くなり始めていた。
———
事務所の奥。
古いテーブルの上に、酒瓶が転がっている。
中身は、もうほとんど残っていない。
「っかぁ……!」
ボスが、杯を叩きつけるように置いた。
「今日は出来すぎだな」
「商談もまとまったし、ツキが回ってきてる」
下っ端が、へらへらと笑う。
「親分の日頃の行いっすよ」
「港の連中も、頭上がらないでしょうね」
「当たり前だ」
ボスは鼻で笑った。
顔は赤い。
声も、少し大きい。
――酔っている。
⸻
別の下っ端が、思い出したように言う。
「そういや、さっきの子」
「宿まで手配してやったんすよね?」
ノアの肩が、びくりと跳ねた。
だが、下っ端は続ける。
「いいんすか?」
「あんな上玉、外に出しちゃって」
ボスは、杯を傾けたまま、口元を歪める。
「ああ?」
一瞬だけ、睨む。
だが、すぐに笑った。
「いいんだよ」
椅子にもたれ、だらしなく足を組む。
「逃げねえさ」
「逃げ場がねえ女の顔してた」
下卑た笑いが、広がる。
「それに――」
ボスは、にやりとする。
「売る前に、ちょっと味見くらいはしねえとな」
ノアの心臓が、跳ねた。
「……っ!」
ボスは、続ける。
「軽く脅してよ」
「怖い思いさせてやりゃ、分かる」
「その場で契約書にサインさせちまえばいいんだ」
下っ端たちが、どっと笑う。
「さすが親分」
「手慣れてますね」
年上のチンピラ――
古参の男が、酒を煽りながら言った。
「今日のところは、
ね、何もしないでおきましょうよ…」
ノアは青ざめた顔で言う。
「ノア、何ビビってんだ」
「女なんて、最初が肝心だろ」
ノアは、立ち上がった。
声が、震える。
「……違うんです」
必死だった。
「あの女、普通じゃないんです」
全員の視線が、ノアに集まる。
「……は?」
ボスが、眉をひそめる。
「何がだよ」
「傷です」
「背中、傷だらけでした」
「それに、持ってた杖……」
「中身、見ましたか?」
一瞬、静かになる。
だが――
「ははっ!」
先に笑ったのは、古参のチンピラだった。
「なんだそれ」
「可哀想な過去でもあったんだろ」
「そうそう」
下っ端も続く。
「こういう街じゃ、珍しくもないっすよ」
ボスは、鼻で笑った。
「ノア」
「お前、商売向いてねえな」
立ち上がり、ノアの肩を叩く。
「女一人で何ができる」
「こっちはスラム育ちの男4人だぞ?」
(俺を頭数にいれるな……)
「それとも何だ?」
「女に殺されるとでも思ったか?」
また、笑い。
ノアは、唇を噛む。
(……違う)
(そうじゃない……)
「……今日は、やめましょう」
最後の抵抗だった。
「明日、改めて話せば……」
「うるせえ」
ボスが、上着を掴む。
「ちょっと顔出すだけだ」
「“商品”の躾だよ」
下っ端たちも、ぞろぞろと立ち上がる。
「行きましょう、親分」
「俺も行きます」
ノアの頭が、真っ白になる。
(……ああ)
(止められなかった)
⸻
夜風が、酒臭さを運ぶ。
宿の前。
灯りは、まだ消えていない。
「起きてるな」
ボスが、にやりと笑う。
拳を、扉に叩きつける。
「おーい」
「開けろ」
返事は、ない。
「……寝てんのか?」
ボスは、肩を回す。
「まあ、いい」
そして――
ドン。
威勢よく、扉を開けた。
ノアは、目を閉じた。
その先にあるのが、
“女の悲鳴”ではないことを――
どこかで、もう分かっていた。




