港町の匂い
海の匂いが、強かった。
潮と、油と、鉄。
それに、人の汗と怒号が混じる。
レインは、港町の外れに立っていた。
足元は石畳ではなく、固められただけの土。
大型の貨物船が並ぶ埠頭の向こうでは、荷下ろしが続いている。
木箱。
麻袋。
金属製のコンテナ。
行き交う人間は多いが、動きに統一感はない。
軍の統制も、共和国のような秩序も感じられなかった。
――ここは、アウレリアじゃない。
⸻
この国の名は、レグノス連邦国。
人口が多く、物資に恵まれた国だ。
海と山を抱え、鉱石と農作物、そして海産物が安定して供給される。
港には常に船が出入りし、
荷と人と情報が絶えず流れ込む。
軍事力も、決して弱くはない。
だが、アウレリア共和国と肩を並べるほどではない。
だからこの国は、
武力ではなく、外交と経済を選んだ。
物を売り、
人を繋ぎ、
金で国を動かす。
外界種の発生も少なく、
専門の討伐機関を必要とするほどではない。
そう――
教科書の上では、この国は“豊か”だった。
だからこそ、
国全体が発展途上でも、物はある。
――金は、偏っているが。
⸻
少し前——
岩肌の斜面を下り、レインは陸地へ足を踏み入れた。
海風が、容赦なく身体を叩く。
地下とは違う冷たさ。
湿り気を含んだ、現実の空気。
足元は、覚束ない。
岩場で削れた靴は、すでに限界だった。
身につけているのは、
地下に潜る前から着ていた服の残骸。
破れ、擦り切れ、色も判別できない。
血と泥と、外界種の体液が染み込んでいる。
そして――
手には、一本の杖。
少なくとも、そう見える。
布が何重にも巻かれ、
両端の形は分からない。
だが中身は、杖ではない。
外界種の爪と骨、硬化殻を繋ぎ合わせ、
戦うたびに補強を繰り返してきた歪な武器。
柄の両端に刃を持つ、
剣でも槍でもない長柄武器。
振れば切れ、
引けば裂ける。
今のレインにとって、
それは武器というより――
身体の延長だった。
だが、街に入るなら隠す必要がある。
レインは布の巻きを確かめ、
静かに息を吐いた。
「……問題ない」
そう判断し、歩き出す。
この町ではボロボロの少女が杖を持って歩いていても、誰も気に留めなかった。
———
露天が並ぶ一角で、足を止める。
魚。
干し肉。
野菜。
共和国よりも雑だが、量は多い。
「姉ちゃん、安いよ」
声をかけてきたのは、
日焼けした男だった。
桶に入った魚を指さす。
「今朝揚がったばっかだ」
レインは、しばらく魚を見る。
鮮度は悪くない。
だが、金はない。
「……見るだけ」
「そうかい」
男は、興味を失ったように視線を戻す。
ここではそれ以上踏み込まれない。
余裕がない街だ。
⸻
歩きながら、ふと記憶が掘り起こされる。
――そういえば。
学園の授業でこの国のことを習った。
『レグノス連邦国は、資源輸出を主軸とした国家です』
『一次産業が盛んで、鉱業・漁業・林業が経済を支えています』
『そのため、食料自給率は高く、極端な飢餓は起きにくい』
教官は、黒板の前でそう説明していた。
続けて、こうも言った。
『ただし――
富の分配には問題があります』
そのときは、ただの教科書的な知識だった。
今、目の前にある光景は、その“問題”の具体例だった。
物はある。
人もいる。
だが、余裕がない。
港が潤っても、その熱はここまで届かない。
「……なるほど」
レインは、独りごちる。
授業は、嘘を教えていなかった。
ただ――
現実は、もっと雑で、もっと近い場所にあっただけ
⸻
港から少し離れると、街の様子が変わった。
建物は低くなり、道は細く、影が濃くなる。
スラムだ。
視線を感じる。
値踏みする目。
だが、誰も近づいてこない。
⸻
進むにつれて潮の匂いが薄れ、代わりに、油と鉄と、人の汗の匂いが濃くなる。
石畳は割れ、建物は背を寄せ合うように傾いていた。
――これがスラム。
だが、人の気配は絶えない。
荷を担ぐ者、露店を広げる者、
値切り合い、怒鳴り合い、笑い合う声。
生きている街だった。
レインは、布で包んだ“杖”を突きながら歩く。
視線は伏せがち。
だが、周囲はよく見ている。
ここでは弱く見える者ほど狙われる。
だから、わざと足取りを重くした。
――その時だった。
「ねえ、そこのお姉さん」
軽い声。
距離は、近すぎない。
逃げ道も、塞いでいない。
振り向くと、少し年上に見える男が立っていた。
痩せた体格。
派手すぎない服。
目だけが、妙に忙しなく動いている。
「……なに?」
レインは、感情を殺した声で返す。
男は、にこっと笑った。
「いやさ、道端で倒れそうな人を見ると、放っておけなくてさ」
視線が、一瞬だけ逸れる。
汚れた服。
擦り切れた靴。
布に包まれた杖。
――見られている。
「仕事、探してる?」
探り。
「衣食住、全部面倒見る話があるんだけど」
レインは、男を見つめた。
敵意はない。
だが、善意でもない。
この街でよくある顔。
俗にいうスカウトマン。
「……どんな仕事ですか?」
あえて、弱い声で聞く。
男は、少しだけ身を乗り出した。
「安心して。無理なことはさせないよ」
言葉と裏腹に、その目は値踏みしている。
――なるほど。
(服が欲しかっただけなんだけど)
レインは、内心でそう思った。
だが。
この男は、使える。
「……着替えとかありますか?」
男の顔が、ぱっと明るくなる。
「あるある。綺麗なのもね!」
そして、手を差し出した。
「俺、ノア!よろしく」
レインは、一拍置いてから、その手を取った。
「……レイン」
名前だけは、本物を使った。
どうせ、ここでは意味を持たない。
ノアは気づかない。
今、自分が声をかけた相手が――
この街の“力の序列”を、これから書き換える存在だということに。
レインは、杖を突きながら歩き出す。
獲物の顔で。
哀れな少女の皮を被ったまま。




