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異物

息を吸うたび、胸の奥が痛んだ。

吐くたび、喉の奥が焼ける。


レインは、歩いていた。


正確には

――歩けていない。


壁に手をつき、膝を引きずり、身体を“運んで”いるだけだ。


血の匂いが、ずっと鼻に残っている。

自分のものか、あの外界種のものか。もう区別はつかない。


深層で受けた一撃は、重すぎた。

真気を回しても回しても、回復が追いつかない。


それでも動けるのは――


「……死んでないから」


呟いた声は、石の空間に吸われた。


振り返らない。

振り返ったところで、何も変わらない。


あそこには、あの“部屋”がある。

あの“圧”がある。

あの“通らない”理不尽がある。


今はただ、少しでも安全な場所を探す。


薄暗い通路を抜ける。

角を曲がる。

崩れた柱の陰に身を滑り込ませる。


そこでようやく、膝から崩れ落ちた。


肩で息をする。

視界が揺れる。


――ここなら、追ってこない。


そう思った瞬間、身体の奥から、別の気配がじわりと湧いてきた。


重い。

冷たい。

なのに、妙に馴染む。


「……まだ、残ってる」


あの一撃のとき、流れ込んできたもの。

身体の中に居座る異物。


魔気。


吐き気がこみ上げる……はずだった。

でも、こみ上げない。


代わりに、背骨のあたりがぞくりとする。

嫌悪ではない。恐怖でもない。


ただの、違和感だ。



真気を回す。


いつも通り。

呼吸に合わせ、身体の内側を整える。


すると――そこに、混ざる。


黒いものが、真気の流れに触れて、ゆっくりと形を変える。


水に落ちた墨みたいに、広がるのではなく。

線に沿って、じわじわと染み込む。


「……やめて」


反射的に抑え込もうとする。


真気を強く回し、押し出す。

排除しようとする。


次の瞬間、視界が白く弾けた。


胃がひっくり返りそうになる。

喉の奥が痙攣し、咳が止まらない。


呼吸が、できない。


真気が乱れる。

身体が一気に重くなる。


――違う。


押さえつけると、逆に壊れる。


レインは歯を食いしばり、壁に額を押し当てた。


「……じゃあ、どうすればいいの」


答えはない。


でも、“楽なやり方”だけは分かった。


拒否しない。


嫌だと思っても、押し戻さない。

受け入れる……というより、流れに乗せる。


真気の流れを細くする。

呼吸を深くする。

身体の中の熱と、冷たさを、同じ線に乗せる。


すると、咳が止まった。


吐き気も引いた。


身体が、少しだけ軽くなる。


「……こっちの方が、楽」


その事実が、気持ち悪かった。


でも。


生きるためには、選り好みできない。



どれくらい、そうしていただろう。


レインは、ゆっくり立ち上がった。

剣を拾う。


腕が震えた。

だが、握れる。


傷口を見下ろす。

深く抉られたはずの腹が、塞がり始めている。


塞がり方が、いつもと違う。


真気の回復は、熱を伴う。

内側から押し上げるように、整っていく。


今の回復は――冷たい。

壊れたまま“繋げている”感覚。


それでも、動ける。

歩ける。

戦える。


レインは、小さく息を吐いた。


そして、思い出してしまった。


あの日。

まだ、全部が壊れる前。


帰り道で、ユリスに言った言葉。


『私は普通に働いて、大きい犬と子供2人、そんな幸せな家庭を築くのが目標だから』


戦うのは、嫌いだった。

危ないことは、嫌いだった。


平穏が欲しかった。


なのに。


今の自分は、何をしている。


外界種を食べて。

血と泥にまみれて。

異物を身体に飼って。


戦うために、呼吸を整えている。


「……無駄だよ」


ぽつりと呟く。


 “あの日を変えられたか”なんて考えたところで、意味がない。


戻らない。

戻れない。


思い出すたびに、胸の奥が空洞になるだけだ。


レインは、視線を上げた。


進む。

進むしかない。


この洞が、どれだけ広くても。

この人生が、どれだけ変わってしまっても。



それからの時間は、さらに曖昧だった。


眠る。

起きる。

歩く。

斬る。

食べる。


繰り返しの中に、ひとつだけ変化があった。


魔気が、馴染んでいく。


最初は、混ざるたびに身体が拒否した。

次第に、拒否する方が苦しくなった。


真気を回す。

そこに、冷たい線を一本通す。


すると、周囲の空気が“返ってくる”。


自然エネルギーに繋がる感覚が、前より明確になった。


不思議だった。


真気だけのときより、

魔気が混ざった方が、世界が近い。


歩くとき、足裏が地面を“掴む”。

踏み込みが沈み、跳ね返りが鋭くなる。


剣を振るとき、空気の抵抗が薄れる。

刃が、狙った線を正確に通る。


外界種の動きも、より“見える”。


予備動作。

重心。

癖。


当て勘ではない。

経験でもない。


ただ、相手の“流れ”が分かる。


外界種の死骸を前にしても、

もう、足は止まらなかった。


躊躇もない。

嫌悪もない。


剣で肉を削ぎ、

淡々と口に運ぶ。


味は、相変わらず分からない。

だが、吐き気もしなかった。


それが“異常”だということは理解している。

かつての自分なら確実に拒絶していた。

泣いて、震えて、触れることすらできなかったはずだ。


でも今は――


「……栄養だ」


そう認識するだけだった。


生きるための手段。

それ以上でも、それ以下でもない。



魔気を使うようになってから、

変わったことがある。


感情が、湧きにくい。


恐怖はある。

痛みも分かる。


だが、怒りや悲しみが遠い。


誰かを殺した夜の記憶も、

両親の顔も、

ユリスの声も。


思い出そうとすれば思い出せる。

だが、胸が締め付けられない。


まるで――

ガラス越しに見ているようだった。


「……人間性が、削れてる」


そう理解しても、

焦りはなかった。


戻そうとも思わない。


失ったのではない。

捨てている。


生きるために。

進むために。あの日の真実へ繋がる道を。



それでも。


ひとつだけ、

完全には消えないものがあった。


復讐。


激情ではない。

燃え上がる憎悪でもない。


ただ、静かな確認だ。


あの夜、

街を壊した者たち。


命を奪うことを、

仕事として選んだ者たち。


彼らがこの世界で息をしているという事実。


「……忘れてない」


声に出しても胸は高鳴らない。

それでも消えない。


魔気が馴染んでも、

真気が巡っても、

この感情だけは、底に沈んだまま残っている。


それが、自分に残された“人間らしさ”なのか。

それとも、最後に燃え残った不純物なのか。


レインには、もう区別がつかなかった。



さらに数ヶ月の月日が流れた。


多分。


レインは洞の“行ける範囲”を、ほとんど踏破した。


外に繋がる風を感じた区画は、相変わらず塞がれたままだった。

あの壁は、人の手で閉ざされている。


通れない。


なら――残る道は、ひとつ。


深層。


あの“部屋”。


あの“通らない”理不尽。


そこへ至る道を前にすると、身体が自然と反応する。


以前は、息を吸うだけで肺が焼けた。

立っているだけで膝が笑った。


今は違う。


魔気の濃度が上がっても、

真気と合わせた流れが、身体を保つ。


そして、もうひとつ。


身体の内側に、奇妙な違和感があった。


まるで――

自分の中に中心が、ふたつある。


胸の奥に、真気による“熱”。

腹の底に、もうひとつの魔気による“冷たい核”。


二つがぶつからない。

絡まらない。


別々に回りながら、同じ身体を動かしている。

レインは無自覚ながら、すでに絶頂の境地を遥かに超えていた。

外界種と戦い、喰らう日々を繰り返す中で。

 



深層へ降りる。


空気が刺す。

だが、呼吸は乱れない。


通路の曲がり角。

床の模様。

壁の削れ。


全部、覚えている。


ここを“逃げた”。


あのときは、背中に死が貼り付いていた。

今は、違う。


背中ではなく、目の前を見ている。


区画に近づくほど、圧が増す。

空間が、押してくる。


――いる。


レインは足を止め、剣を握り直した。


指先が冷たい。

だが、震えてはいない。


胸の奥が静かだ。

鼓動すら、整っている。


勝てる。

そう言い切る気はない。


でも。


今なら届く気がした。


あのとき、意味を失った刃が。

今なら、意味を持つ気がした。


理由は簡単だ。


逃げ道は、もうない。


行ける場所を、全部歩いた。


出口があるとしたら、

あの向こうしか残っていない。


復讐ではない。

誇りでもない。


ただの、通過。

今の私にはそれができる。


レインは扉

――いや、裂けた岩壁の奥に広がる闇を見つめた。


深層の空気が、髪を揺らす。

冷たい風ではない。


重い、濃い、黒い流れ。


そこで一度だけ、目を閉じる。


息を吸う。

吐く。


真気が巡る。

魔気が寄り添う。


身体の中の二つの核が、同時に回り始める。


そして、目を開けた。


――ここから先は、戻れない。


レインは、闇へ踏み出した。


挿絵(By みてみん)

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