初任務
数日が過ぎた。
セントリオでの生活にも、レインは少しずつ慣れつつあった。
とはいえ、特別な変化があったわけじゃない。
朝、起きる。
任務のない日は本部へ行き、簡単な事務作業や資料整理。
夜になれば宿舎に戻る。
それだけ。
表向きは、何の変哲もない新人隊員の生活だった。
⸻
ひとつだけ。
小さな“変化”があるとすれば――
バルドの訓練が、最近行われていないという噂だった。
殲滅本部の訓練場で、あれほど頻繁に新人をしごいていた男の姿が、ほとんど見られなくなったらしい。
理由は、誰も知らない。
ただ、
たまに廊下や構内でバルドとすれ違うと――
彼は必ず、露骨に視線を逸らす。
目が合いそうになると、顔を引きつらせるようにして、横を向く。
まるで、見てはいけないものを見たかのように。
レインは、その様子を特に気に留める素振りも見せず、普通に歩き続ける。
何事もなかったかのように。
⸻
裏では。
バルドからの報告が、毎日届いていた。
内容は、断片的だが、少しずつ積み重なっている。
殲滅本部の内部構造。
部隊の配置。
指揮系統。
レインは、それらを静かに整理していた。
⸻
殲滅本部は、MEK最大の戦闘部門。
総人員は七万人以上。
巨大な組織だ。
その頂点に立つのが、《巨獣》ガロア・ロッソ。
五十代。
そしてMEKランキング七位。
圧倒的な戦闘力に加え、豊富な実戦経験と統率力でその座にいる人物。
部下の信頼は厚いらしい。
⸻
殲滅本部の内部では、日常的に小さなトラブルは起きている。
訓練中の事故。
現場判断の行き違い。
上官への不満。
どれも、大組織なら珍しくない範囲のものだ。
バルドの報告にも、そういった話はいくつも含まれていた。
だが――
ダリアの殲滅に直結しそうな情報は、今のところ出てきていない。
街が丸ごと消された。
住民ごと抹消された。
そういった規模の“異常”は、確認されていなかった。
⸻
レインは、机の上で情報を並べながら思う。
(……やっぱり、簡単には尻尾を出さないか)
(でも)
(白だとも思っていない)
あの日。
ダリアにいたのは、MEK隊員だった。
殲滅本部の人間が関与していても、何もおかしくない。
だから――
調べる。
ただ、それだけだ。
———-
レインが二部の部屋に入ると、
レナのデスクの周りに三人の男がいた。
一人目は、壁際に寄りかかっている長身の男。
三十代前半。
黒に近い濃紺の短髪をきっちり整え、顎にはうっすらと無精髭。
腕を組み、半眼でこちらを眺めている。
二人目は、その隣。
背筋を伸ばして立つ若い男。
二十代前半だろうか。
少し大きめの制服がまだ体に馴染みきっていない。
視線が忙しなく動くが、姿勢だけは妙に真面目だ。
三人目は、部屋の一番奥。
机に腰掛け、微動だにしない男。
四十代。
がっしりした体格に、短く刈った灰色混じりの髪。
目が合っているのかどうかも分からないほど、表情が動かない。
一目で分かる。
現場叩き上げのベテラン。
壁に寄りかかっている男が、レインを上から下まで一通り見て、口を開いた。
「……おお」
「これはこれは」
口元が、にやりと歪む。
「レナ班にも、ついに春が来たか」
「なあ、カイ」
親しげに肘でつつく。
「どう思う?」
カイと呼ばれた男が一瞬きょとんとしてから、慌てて背筋を伸ばす。
「え、えっ?」
「い、いや……その……」
視線がレインに行き、すぐ逸れる。
「……綺麗な人だと思います」
ジークが吹き出す。
「真面目かよ」
「もっと素直に言えって」
「なんたってエルディオのミスコンだぞ?」
その瞬間、レナが即座に口を挟んだ。
「はいストップ」
ぴしっと。
「そういうの今の時代、普通にアウトだからね?」
ジークは両手を上げる。
「冗談冗談」
「褒め言葉だって」
レナは冷ややかに言う。
「冗談でも言わないの」
「職場」
「仕事」
ジークは肩をすくめた。
「はいはい、班長様」
「厳しいねえ」
カイが小声で言う。
「……ジークさん、またレナさんに殴られますよ」
「分かってる分かってる」
ジークはレインに向き直る。
「悪いな」
「ジークだ」
軽い調子だが、目はちゃんと見ている。
カイが一歩前に出た。
「俺、カイ」
「五年目」
口調は自然なタメ口。
「今まで一番下っ端だったからさ」
「正直、仲間増えて助かるよ」
少しだけ照れたように笑う。
「分からないことあったら、なんでも聞いてくれ」
「ここ、慣れるまで地味にキツいから」
最後に、奥の男が低く言った。
「……ジョンだ」
それだけ。
レナが軽く手を叩く。
「はい」
「改めて、うちの班ね」
「右から、ジーク、カイ、ジョン」
「で――」
レインの方を見る。
「新人ちゃん」
「レイン」
レインは小さく会釈した。
「……よろしくお願いします」
ジークが口角を上げる。
「いやあ」
「それにしても」
「こんな子が来るとは思わなかったな」
「特務も変わったもんだ」
レナは呆れたように言う。
「変わったのは採用基準じゃなくて」
「見る側の目でしょ」
一拍。
「……で」
「帰ってきて早速で悪いんだけど」
レナはあっさり言った。
「明日から出張」
空気が止まる。
ジークが天井を見る。
「はいはい出ました」
「特務名物、帰還即出張」
カイが苦笑する。
「まあ……新人の洗礼ですね」
レインの方を見る。
「大丈夫か?」
レインは静かに頷いた。
「はい!問題ありません」
レナが満足そうに笑う。
「よし」
「じゃあ今日は顔合わせだけ」
「資料読んで、早めに休んで」
「明日から現地だよ」
レナはあっさり。
「うん」
「新人ちゃんには初任務だね」
レインはファイルを受け取りながら、静かに思った。
(……始まる)
表の仕事も。
裏の断罪も。
同時に。
———
宿舎の自室。
扉を閉めると、外の音が一気に遠ざかった。
レインはコートを脱ぎ、椅子に掛ける。
窓の外には、セントリオの夜景が広がっていた。
湖面に反射する街灯の光が、ゆっくりと揺れている。
昼間の喧騒が嘘みたいに静かだ。
机の上に、数枚の書類を広げる。
——任務概要。
地方都市ルーメル。
セントリオから北西、およそ百キロ。
中規模都市。人口、約三万。
外界種発生件数、増加傾向。
過去半年で、平年比一・八倍。
上級個体の出現率、上昇。
特級外界種発生の前兆を否定できず。
特務本部による現地調査を要請。
レインは、紙面をなぞるように視線を動かす。
(異常現象は確認されていない)
(住民の被害も、今のところ軽微)
——だからこそ、厄介だ。
明確な「事件」は起きていない。
騒ぎになる前段階。
数字と傾向だけが、静かに危険を示している。
(特務の仕事だ)
殲滅ではない。
討伐でもない。
判断。
ここが、どこまで深いのか。
踏み込んでいい場所なのか。
それとも、まだ様子を見るべきなのか。
レインは、もう一枚の資料に目を落とす。
班編成。
レナ・フェルゼン
ジョン・ドゥー
ジーク・ヴァイス
カイ・リンド
そして
レイン・カーネス
今日、顔を合わせたばかりの名前。
それぞれの顔が、短く脳裏をよぎる。
(……悪くない)
むしろ、よすぎるくらいだ。
新人が最初に放り込まれるには。
椅子に深く腰を下ろし、背もたれに体を預ける。
息を吐く。
バルドのことが、頭をよぎる。
殲滅本部。
内部事情。
だが、決定的なものはまだない。
(焦る必要はない)
(事実は、逃げない)
それよりも今は——
机の端に置かれた、特務の徽章に視線を落とす。
明日から、初任務。
ただの調査。
ただの地方都市。
……そのはずだ。
レインは、書類を揃え、引き出しにしまった。
灯りを落とす。
暗闇の中で、湖の向こうに瞬く光だけが残る。
その中心で、彼女は静かに思った。
(まずは、一つ)
(仕事をしよう)
そうして、夜は何事もなかったかのように流れていった。
——嵐の前だとも知らずに。




