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バルド・フォスター

夜のセントリオ。


宿舎区画から少し外れた、倉庫と倉庫の間を抜ける裏路地。


街灯はあるが、等間隔ではない。

光と影がまだらに地面へ落ちている。


レインは歩いていた。


ゆっくり。


足音はひとつ分しかない。


――けれど。


(……ついてきてる)


振り返らない。


足音のリズムが、半拍ずれている。


止まる。


レインも止まる。


一秒。


二秒。


背後の足音も止まった。


(やっぱり)


そのまま何事もなかったように、進路を変える。


人通りのある大通りではなく、

倉庫街の奥。


警備の巡回ルートから外れた細道。


さらに奥へ。


さらに暗い場所へ。


わざと。


逃げるようでもあり、

誘うようでもある。


やがて。


袋小路。


壁と壁に挟まれた、逃げ場のない空間。


レインは、そこで足を止めた。


ゆっくりと振り返る。


影の中から、男が出てくる。


大柄。


黒髪短髪。


無精髭。


昼間と同じ顔。


バルド・フォスター。


腕をぶら下げたまま、ニヤつく。


「……勘いいじゃねえか」


レインは、少しだけ目を丸くする。


演技。


「あの……」


困ったように眉を下げる。


「私に、何か用ですか?」


バルドは舌打ちした。


「昼の件だよ」


一歩、前へ。


「ナメてんだろ、お前」


レインは首を振る。


「そんなつもりは……」


「偶然で勝っただけで調子乗ってんじゃねえぞ」


さらに一歩。


距離が詰まる。


バルドの影が、レインを覆う。


「恥かかせやがって」


レインは小さく後ずさる。


壁に背中が触れる。


「す、すみません……」


バルドが笑う。


「謝って済むなら、苦労しねえんだよ」


拳を握る。


「女が調子乗るとどうなるか」


「体に教えてやる」


レインは、背中を壁につけたまま、小さく口を開いた。


「……MEKの隊員が」


声は震えているようで、ちゃんと届く。


「こんなことして……恥ずかしくないんですか?」


バルドが、ぴくりと眉を動かす。


次の瞬間。


「――は?」


低い声。


一歩、踏み出す。


「恥?」


鼻で笑う。


「強ければ何してもいい世界だろうが」


さらに距離を詰める。


「お前みたいな甘ちゃんが調子乗るから」


「こういう“教育”が必要なんだよ」


レインは唇を噛む。


視線を逸らす。


「……」


バルドの目が歪む。


「安心しろ」


「殺しはしねえ」


「お前が――」


顔を近づける。


「泣いて、許しを乞うくらい怖い目には合わせてやる」


にやりと笑う。


「チクるなんて気が起きねえくらいな」


沈黙。


数秒。


レインは、小さく息を吸った。


ゆっくりと顔を上げる。


「……後悔しますよ」


バルドが鼻で笑う。


「は?」


レインは、静かに続けた。


「バルド・フォスター」


一瞬。


バルドの眉がぴくりと跳ねた。


「……あ?」


名前を呼ばれたことに反応した、その刹那。


「調子乗んなよクソ女」


苛立ちを隠さず、声を荒げる。


踏み込み。


拳が振り抜かれる。


考えるより先。


バルドは殴りかかっていた。


バルドの拳がレインの顔面を捉えようとした、


――その瞬間。


バルドの頬に衝撃が走る。


「……っ?」


鈍く、重い。


ガン、と骨に直接響く感覚。


バルドの身体が宙を舞い、背中から地面に叩きつけられる。


「――がっ……!」


息が抜ける。


視界が白くなる。


何が起きたのか、理解できない。


殴ったのは自分のはずだった。


なのに。


(……今のは、打撃……?)


(いや……いつ……?)


バルドは転がるように距離を取る。


乱れる呼吸。

回り始める視界。


頬がじんじんと熱い。


口の中に、血の味。


「……チッ」


歯を食いしばる。


(偶然だ)


(たまたま当たっただけだ)


自分に言い聞かせる。


拳でいったのが悪かった。


なら――


再び大きく右手を上げて、殴りかかるバルド。


と見せかけて低い姿勢。


踏み込み。


今度は腕を伸ばす。


打撃じゃない。


タックル。


体重を乗せて、体格差と真気で組み潰す。


「オラァッ!!」


レインは、動かない。


バルドの腕が、レインの身体を捉え――


その瞬間。


膝。


短く、鋭く。


右脇腹へ。


「――――ッ!!?」


空気が、肺から一気に抜けた。


声にならない声。


痺れる様な痛みが全身を駆ける。


思考が止まる。


(な、に……)


そのまま、レインは体を捻る。


バルドの体重を利用して、投げる。


「――ぐあっ!!」


背中から、叩きつけられる。


硬い。


冷たい。


次の瞬間。


視界いっぱいに、レインの顔。


いつの間にか。


マウントポジション。


完全に、上。


身体は動かない。


いや。


動かせない。


レインは、にこりと笑った。


柔らかい。


昼間と同じ笑顔。


「……ねえ」


首を傾げる。


「泣いて許しを乞う準備は、もうできた?」


バルドの背中に、冷たい汗が流れた。


(……なんだこの真気量は)


(昼間のも……偶然じゃない)


(最初から……狙って……)


理解した瞬間。


恐怖が、遅れてやってきた。


———


深夜の路地に、鈍い音が何度も響く。


――ドン。


拳が顔面に叩き込まれる。


バルドの頭が、地面に打ちつけられる。


――ドン。


鼻の奥で、何かが潰れた感触。


――ドン。


視界が白く弾ける。


腹の上に跨がれている。


逃げられない。


レインだった。


無表情。


息一つ乱れていない。


右拳が、一定のリズムで振り下ろされる。


――ドン。


「さっき言ったよね」


――ドン。


「チクる気が起きないくらい」


――ドン。


「怖い目に合わせるって」


――ドン。


バルドの視界が、滲む。


頭が揺れる。


天地が反転する。


何が上で、何が下か分からない。


(……し……ぬ)


(……こ……ろ……され……)


口を開こうとしても、舌が思うように動かない。


「や、やめで……っ」


唾液と血が混ざって飛ぶ。


「ごべん……なざい……」


レインの拳が、止まる。


一瞬の静寂。


バルドは、荒い呼吸でレインを見る。


片目は完全に塞がっている。


もう片方も、ほとんど開かない。


歯の抜けた口で、必死に声を絞る。


「……ゆる……して……くだざい……」


レインは、静かに言った。


「なんて?」


少しだけ、身を乗り出す。


「聞こえない」


バルドの喉が、ひくりと鳴る。


全身が震える。


「……たす……けて……」


「……」


レインは、ゆっくりと首を傾げた。


「さっき」


「泣いて許しを乞えって言ったよね?」


バルドの呼吸が乱れる。


肺がうまく膨らまない。


「……ゆる……して……くだ……さい……」


その瞬間。


――ドン。


容赦なく拳が落ちる。


「がっ――!!」


声にならない悲鳴。


レインは、また同じリズムに戻る。


――ドン。

――ドン。

――ドン。


感情はない。


怒りもない。


楽しさもない。


ただ、壊す。


ただ、恐怖を刻む。


(……ちがう……)


(……こいつ……)


(……人じゃない……)


殲滅本部の先輩。


荒くれ者。


喧嘩屋。


今まで会った強者とは、全部違う。


目の前にいるのは――


捕食者。


昼間の時点で、もう詰んでいたんだ。


(……ころさないで……)


(……しにたく……ない……)


(……だれか…たすけて…)


思考が、ぐちゃぐちゃになる。


拳の音が、遠くなる。


視界が、黒に侵食される。


最後に見えたのは。


無表情のまま、自分を見下ろすレインの顔。


そして――


――ドン。


音が途切れた。


闇が、落ちた。


———


冷たい感触。


固い床。


カビ臭い空気。


バルドは、うっすらと目を開けた。


「……っ……?」


頭が割れるように痛い。


体が、動かない。


手首。


足首。


縄で縛られている。


天井が高い。


コンクリートの壁。


錆びた鉄骨。


――倉庫。


「……は……」


声を出そうとして、喉が焼ける。


意識が、ゆっくり浮上する。


最初に戻ってきたのは――痛みだった。


全身。


骨が軋み、筋肉が裂け、内臓が裏返るような感覚。


「……ぁ……」


喉から漏れた声は、自分のものとは思えないほど掠れていた。


まぶたを開く。


錆びた鉄骨。

低い天井。

ぶら下がる裸電球。


(……どこだ……)


身体を動かそうとして、すぐに気づく。


動かない。


手首と足首が、縄で縛られている。


しかも――


裸だ。


冷たい空気が、無防備な肌を撫でる。


遅れて、記憶が蘇る。


路地。

殴打。

地面。

見下ろす少女の笑顔。


「……ひっ……」


小さく喉が鳴る。


視線を動かす。


目の前に、スーツ姿の男。


無表情。


その横に、壁にもたれるノア。


そして――


少し離れた位置に、フードに白い仮面を付けた人物。


バルドの呼吸が、一気に早まる。


(……い、いる……)


(あの女だ……)


ノアが、軽い口調で言う。


「とりあえず無力化して拘束しといた」


スーツの男が頷く。


「さすが港龍会の紹介だな」


「仕事が早い」


ノアは肩をすくめる。


「腕は確かだよ」


スーツの男が、バルドを見る。


「バルド・フォスター」


バルドの肩が跳ねる。


「……は、はい……」


声が震える。


「お前、うちから借りた金」


「踏み倒してるよな?」


「……っ……」


「元金、利息、延滞分」


「全部でそこそこの額だ」


バルドは必死に首を振る。


「も、申し訳ありません……!」


「お、俺……もう金が……」


スーツの男は淡々と。


「知らねーよ」


「身分証から住所は割れてる」


「家族構成もな」


バルドの顔色が一気に失われる。


「……っ……!」


「明日までに金を用意しろ」


一拍。


「や、やめてください……!」


「家族だけは……!」


床に額がつきそうなほど、頭を下げる。


「お願いします……!」


スーツの男は無感情に言う。


「嫌なら逃げてみろ」


「逃げた瞬間、家族は終わりだ」


スーツの男はノアを見る。


「回収は明日」


ノアは手をひらひらさせる。


「了解」


スーツの男は踵を返す。


「じゃあな」


足音が遠ざかり、扉が閉まる。


倉庫に残るのは、荒い呼吸だけ。


バルドは、震える視線で白い仮面を見る。


「……あ、あの……」


声が裏返る。


白い仮面の人物がゆっくり近づき、バルドの前にしゃがむ。


そして、仮面を外す。


昼間、訓練場で見た顔。

そして意識を失う直前にも見た顔。


「……うっうっ……」


声が震える。


レインは静かに言う。


「自己紹介し直すね」


「私は、あなたの貸し主になる人」


「……は、はい……?」


レインは淡々と続ける。


「天龍会への借金」


「私が肩代わりする」


バルドの目に、一瞬だけ希望が灯る。


「ほ、本当ですか……?」


すぐに、怯えに変わる。


「……な、何をすれば……?」


レインは微笑む。


「あなたは、私の言うことを聞く」


「一生」


バルドは即座に頷く。


「は、はい……!」


「何でもします……!」


「命だけは……どうか……」


レインは床に写真を落とす。


ばさっ。


全裸で。


顔面が腫れ上がり。


涙と鼻水で崩れた自分。


バルドは息を呑む。


「……っ……」


レインは言う。


「これ、全部保存してある」


「外に出したらどうなるか、分かるよね?」


「……はい……」


声が掠れる。


レインは続ける。


「あと」


「娘さん」


「アリスちゃん」


「六歳だっけ」


バルドの目から、涙が溢れる。


「……お、お願いします……」


「娘だけは……」


レインは首を傾げる。


「裏切らなければ」


「何も起きない」


「裏切ったら」


「あなたは全部失う事になる」


バルドは、床に額を擦りつける。


「……裏切りません……!」


「絶対に……!」


「どうか……お使いください……!」


レインは静かに言う。


「いい子」


「じゃあ最初の仕事」


バルドは顔を上げる。


恐怖に満ちた目で。


「……な、何でしょうか……?」


レインの声は、穏やかだった。


「明日から殲滅本部の内部」


「全部、報告して」


———


倉庫を出たあと。


夜風が冷たい。


ノアが横を歩きながら言う。


「殲滅からいくんだな」


「まだ黒って決まったわけじゃねえのに」


レインは前を見たまま答える。


「ダリアは“殲滅された街”」


「あの日いたのはMEK隊員」


「殲滅本部の人間がいてもおかしくない」


ノアは小さく息を吐く。


「なるほどな」


少しだけ沈黙。


レインが続ける。


「私は、まず“事実”が欲しい」


「だからバルドを使う」


一拍。


「ダリアに関わった人間には、全員対価を支払ってもらう」


ノアはニヤリと笑う。


「相変わらず容赦ねえな」


レインは答えない。


夜の街に溶けるように歩きながら、心の中でだけ呟く。


(ひとつずつ)


(壊していく)


遠くで、街の明かりが瞬いている。


誰も知らないところで――

断罪の歯車が、静かに回り始めていた。


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