新人
特務本部・第二部第二課。
レインは、静かな執務室で机に向かっていた。
今日もデスクワーク。
レナから、特務の基本業務。
報告書の書き方。
端末の操作方法。
案件番号の管理。
情報区分の扱い。
本来なら、今日には班のメンバーも任務から戻ってくる予定だったらしい。
だが、現場でトラブルが発生し、帰還が遅れている。
そのため、当面はデスクワーク中心。
レインは淡々と頷き、言われたことをそのまま吸収していく。
⸻
「はい、これ」
レナは机の横から、薄めのファイルを一つ取って差し出す。
レインが受け取ると、中には複数枚の記録紙と、音声媒体が挟まっている。
「通信ログの文字起こし」
レインが首を傾げる。
「……文字起こし、ですか?」
「そ。録音された無線を聞いて、文章に起こして、時系列でまとめるだけ」
「細かい判断とかいらないから、ザ・新人向けって感じ」
軽い口調。
「終わったら、報告書の体裁チェックも頼むかも」
「ま、本格的に現場出るのは、みんな帰ってきてからだし」
「それまではのんびりやろ」
レナは軽く伸びをする。
「そういえば、ここの食堂は美味しいって評判なんだよ」
「この時間ならまだ混んでないはず」
「……ま、私は弁当なんだけどね」
言いながら、小さな布包みを取り出す。
「自炊派?」
「いえ」
「じゃ、食堂行ってみなよ」
「初日は迷子になるのも仕事だからさ」
「休憩がてら、色々ぶらついておいで〜」
冗談めかして笑う。
「分かりました」
レインは立ち上がり、軽く頭を下げた。
廊下に出る。
行き交う職員は多いが、騒がしさはない。
足音と紙の擦れる音。
低い会話。
レインは案内標識を確認しながら、食堂へ向かった。
———
食事を終えて食堂を出ると、昼休み特有のざわめきがあった。
食器を返却する音。
談笑する声。
制服やスーツ、軍服に作業服が入り混じる光景。
MEK隊員は制服だが、ここには国防省の人間や、軍部の人間も出入りしている。
レインは手に持ったトレイを返却口に置き、軽く一礼してから通路へ出る。
(……午後は文字起こしか)
地味だが、悪くない。
こういう仕事の積み重ねで、内部の流れが見えてくる。
そう思いながら歩いていると――
「おーっ、レイン!」
聞き覚えのある声。
レインは顔を上げた。
「……ガイ?」
角を曲がった先にいたのは、見慣れた体格の男。
短く刈った髪。
ポケットに手を突っ込んだ姿勢。
間違いなく、ガイだった。
「久しぶりだな!」
ガイがにっと笑う。
「ガイこそ!」
レインも自然と笑みを返す。
「殲滅本部だから、もう地方に移動したのかと思ってた」
「あー、それな」
ガイは肩をすくめる。
「最初の一ヶ月は本部で基礎訓練だってさ」
「武器の扱い直しから、部隊行動まで、徹底的に叩き込まれる」
「……殲滅らしいね」
「お前の方は?」
「まだ二日目だから、なんとも言えないかな」
「今はデスクワーク」
「特務って聞くともっと派手なの想像してたけどな」
ガイは苦笑する。
「はは、現実はそんなもんか」
そこで、レインはガイの顔をじっと見る。
どこか覇気がない。
肩も少し落ちている。
「……なんか元気ないね?」
レインがそう言うと、ガイは分かりやすく肩を落とした。
「今からさ……バルドさんの訓練なんだ」
少しだけ顔をしかめる。
「あ、お前はバルドさんって言っても分かんねえか」
「……誰?」
「同じ部の先輩」
ガイは小さく息を吐いた。
「昼休みも訓練でさ……」
「ちょっとブラックだわ」
冗談めかして言っているが、声に元気がない。
その瞬間。
(……バルド)
レインの思考が、ぴたりと止まる。
――天龍会の金貸し業者が困っていた相手。
――借金を踏み倒している、手練れのクズ。
――MEK関係者。
同じ名前。
偶然の可能性はある。
「……ふーん」
表情には出さず、レインは軽く相槌を打つ。
数秒、考える。
そして、何気ない調子で言った。
「殲滅本部の訓練、ちょっと興味あるかも」
ガイが目を瞬かせる。
「え?」
「ほら、うちの上司もさ」
「いろんな部署の動き、見ておいでって言ってたし」
半分本当。
半分、方便。
「見学くらいならいいでしょ?」
ガイは少し迷ったあと、肩をすくめた。
「まあ……端で見てるだけなら大丈夫だと思う」
「行くか?」
レインは小さく頷いた。
「うん」
胸の奥で、違和感が静かに形を持ち始める。
バルド。
(……確認しない理由はない)
レインは、そう結論づけた。
———
殲滅本部の訓練場は、特務の区画よりも明らかに広かった。
天井は高く、床は厚い石板。
壁のあちこちに、刃痕や打撃痕が残っている。
金属と汗の匂い。
怒号。
打撃音。
空気が荒い。
「……うわ」
ガイが小さく声を漏らす。
視線の先。
一つの円形訓練スペースで、二人が戦闘していた。
――いや。
正確には、一方的だった。
大柄な男が、新人と思しき若い隊員の腹に拳を叩き込む。
鈍い音。
新人が前のめりに折れる。
その頭を掴み、無理やり引き起こす。
「お前こんなんじゃ、すぐ死ぬぞ!!」
ドン、と膝蹴り。
「雑魚が!!」
さらに顔面へ拳。
「アカデミーで何学んできたんだ!!」
新人は反撃すらできない。
ガードも崩れ、ただ殴られているだけ。
周囲には、数人の新人たちが列を作って待っている。
誰も口を出さない。
出せない。
レインは、男の姿を静かに観察する。
黒の短髪。
無精髭。
太い首。
がっしりした肩幅。
三十代半ばくらい。
殲滅本部の実戦部隊員。
――ストレス発散。
それが、はっきり分かる殴り方だった。
(訓練じゃない)
(八つ当たりだ)
レインは横にいるガイを見る。
ガイは視線を逸らしていた。
理由が、分かる。
「あの人が……」
レインは、わざと名前を出す。
「バルド・フォスター?」
ガイは何も疑わず頷いた。
「そうだ」
「殲滅本部じゃ、結構有名な人だぞ」
「強いけど……まあ……」
言葉を濁す。
レインの中で、確信に変わる。
(……ターゲット)
その瞬間。
バルドが、新人の髪を掴んだまま言った。
「ほら、立てや」
新人の足が震える。
バルドは、その腹にもう一発蹴りを入れた。
ドゴッ。
そして――
新人の胸を思い切り蹴り飛ばす。
体が宙を舞い、訓練エリアの外へ転がる。
バルドは唾を吐く。
「次!!」
顔を上げた瞬間。
ガイと目が合う。
バルドの口元が歪む。
「……おい、ガイ」
ゆっくり歩いてくる。
「お前、何一丁前に女連れてんだ?」
ガイが肩を強張らせる。
「こいつはアカデミーの同期で、今日は見学って――」
バルドは、レインを値踏みするように見る。
上から下まで。
靴先から、指先、首筋、目元。
ゆっくりと舐めるように。
「……見ねえ顔だな」
顎をしゃくる。
「お前も殲滅か?」
レインは軽く首を振る。
「いえ。特務です」
一瞬。
バルドの眉が、わずかに動く。
次の瞬間、鼻で笑った。
「……はは」
「特務ねぇ」
肩を回す。
「現場に出ねえで、ぬるま湯に浸かってる連中だろ」
周囲の新人たちが、息を詰める。
バルドはニヤついたまま続ける。
「いい機会だ」
「特務の可愛い子ちゃんに、現実ってやつを教えてやる」
親指で、自分の胸を指す。
「俺が相手してやるよ」
空気が、ざわつく。
ガイが慌てて前に出る。
「ま、待ってください!」
「こいつ、特務で…そんなに戦闘が得意ってタイプじゃ――」
バルドが、ガイを見る。
口角が上がる。
「あ?」
「お前、この女のこと好きなのか?」
ガイが固まる。
「は、はぁ!?」
「保護者気取りか?」
「それとも惚れてんのか?」
周囲から、くすくすと笑い声。
ガイの顔が赤くなる。
「ち、違います!!」
バルドは、わざとらしく肩をすくめた。
「じゃあ黙ってろ」
視線をレインに戻す。
「どうする? やめとくか?」
レインは、少し困ったように笑う。
「いえ」
一歩、前へ。
「お願いします」
ガイが小声で言う。
「レイン……やめとけ……」
レインは振り返らず、静かに答える。
「大丈夫だから」
その声は、柔らかい。
いつもの“いい子”の声。
バルドは満足そうに笑った。
「よし」
手を叩く。
「模擬戦だ!」
「可愛がってやる」
バルドが訓練エリアの中央に立つ。
レインも向かい合う。
周囲が、自然と距離を取る。
円ができる。
ガイは、嫌な予感しかしなかった。
(レイン……そんな強くないぞ……)
バルドは、指を一本立てる。
「言っとくが」
「俺は手加減しねえ」
「現実を教えてやる」
レインは、軽く頷く。
「はい」
———
バルドは、武器置き場から訓練用の直剣を抜く。
鈍い金属音。
重めの訓練剣。
レインも、静かに直剣を抜く。
軽い音。
構えは、ごく基本。
観衆がざわつく。
「てかあの子、可愛くね?」
「エルディオのアカデミーでミスコン取ったって噂だぞ」
「まじかよ」
「バルドー! 手加減してやれよー!」
「他の本部のやつなんだから、やりすぎんなよー!」
軽いノリ。
完全に“見世物”。
バルドは剣を肩に担いだまま、ニヤつく。
「聞いたか?」
「人気者だな、お前」
レインは、小さく会釈する。
「ありがとうございます」
余計に笑いが起きる。
「よし」
バルドが剣を構える。
「行くぞ」
踏み込んだ。
重い。
循環歩。
床が鳴る。
正剣式一の型。
真正面からの斬り下ろし。
レインは、半歩下がって受ける。
キン――!
衝撃。
(……一流程度か)
レインは瞬時に判断する。
(でも――)
(今私が出せるのは、三流まで)
剣を滑らせ、受け流す。
次の瞬間、横薙ぎ。
レインは剣で受ける。
キィン。
腕が軽く痺れる。
観衆の声。
「お、意外とやるじゃん」
「でも押されてるな」
バルドは連続で斬り込む。
繰り出される正剣式の型。
レインは後退する。
一歩。
二歩。
三歩。
直撃はもらわない。
だが、余裕も見せない。
わざと、ギリギリで防ぐ。
剣を弾かれる。
「っ……!」
レインの剣が大きく横に流される。
バルドの口角が上がる。
「ほらな」
さらに踏み込む。
圧をかける。
レインは下がる。
場外ラインが、視界の端に映る。
(……この程度に、負けるはずがない)
(例え真気の量を制限していたとしても)
レインの思考は冷静だった。
(戦いは、真気だけじゃない)
剣がぶつかる。
金属音。
(精度は力に勝り)
(タイミングはスピードを凌駕する)
昔。
ユリスが言っていた。
異国のファイターの言葉だと、笑いながら。
バルドが、強撃がレインを襲う。
レインは受ける。
ガンッ。
レインの剣を持つ腕ごと、大きく弾かれる。
「終わりだ」
バルドが、踏み込む。
体重が、前脚に乗る。
(――きた)
レインは、ほんの少しだけ足を前に出す。
偶然を装って。
引っ掛ける。
バルドの前脚に。
「……っ!?」
体勢が崩れる。
重心が前へ。
踏ん張れない。
そのまま――
ドサァッ!!
派手な音。
バルドの巨躯が、場外へ転がった。
一瞬。
訓練場が静まり返る。
誰も、すぐに声を出せない。
転がっているバルド。
場内に立っているレイン。
次の瞬間。
「……え?」
レインが、目を見開いた。
「あ、あっ……」
慌てて駆け寄る。
「ご、ごめんなさい!!」
ぺこぺこ。
「あの、その……足が、引っかかっちゃって……」
側から見れば、完全にあわてる素人。
一瞬の沈黙のあと――
「ぶはっ!!」
誰かが吹き出した。
「なにそれ!!」
「場外って!!」
「バルドwww」
笑いが連鎖する。
ドッ。
ドッ。
ドッ。
腹を抱える者。
膝をつく者。
さっきまで殴られていた新人たちも、顔を伏せて肩を震わせている。
必死で笑いを堪えているのが丸わかりだった。
バルドの顔が、みるみる赤くなる。
「……てめぇ」
立ち上がる。
拳が震えている。
「ふざけんな!!」
ズカズカと歩み寄る。
「今のは事故だ!!」
「もっかいやれ!!」
剣を掴み直す。
完全にブチギレ。
レインは、申し訳なさそうな顔をする。
「でも、もう昼休み終わっちゃうんで…」
時計を見る仕草。
「私、戻らないと上司に怒られちゃうので……」
さらに一言。
「あ、あの、一応場外だから私の勝ち、でいいですよね?」
周囲が、また吹き出す。
「正論www」
「バルド可愛い子ちゃんに負けてんじゃんww」
「偶然でも勝ちは勝ちだな!!」
バルドのこめかみに血管が浮き出る。
「クソ女……!!」
踏み出しかけた、そのとき。
「おい、バルド」
少し離れた場所から、低い声。
年上の隊員。
「昼休み終わるぞ」
「次の訓練準備しろ」
バルドは歯を食いしばる。
「……チッ」
レインは、小さく頭を下げる。
「お疲れ様でした」
何も知らない新人みたいな態度で、くるりと踵を返す。
ガイはまだ状況が飲み込めていない。
「……レイン」
「お前……今の……」
「ナイス…!」
レインは小声で。
「たまたまね」
にこ。
その背中を見送りながら。
バルドの目だけが、憎悪で歪んでいた。




