水の都
列車は、内陸へ向かって走っていた。
窓の外には、まだ春の浅い景色が流れていく。
芽吹ききらない枝。薄い草の匂い。
風に混じる湿り気だけが、季節の移り変わりを先に告げていた。
レインはその景色を、黙って眺める。
ついさっきまで――
レインは西沿岸の大都市、エルディオにいた。
潮の匂い。
アウレリア共和国の玄関。
そして知の集積地。
港が国の“外”と繋がっている場所なら、
今向かっている先は――国の“内側”、中心だ。
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アウレリア共和国の都市は、海沿いではなく、川に沿って発展している。
国境である、北と南東に位置する二つの巨大な山脈から流れる大河が、中央に集まり、国土を横断するように西の海に流れている。
そこに街と街、物流と人の流れが縫い付けられている。
エルディオも、その例外ではない。
そして列車は、その大河の線をなぞるようにして、
西から中央へ――国の中心へ向かっていた。
⸻
窓の外に、徐々に変化が現れる。
道が整ってくる。
建物が増えて、る。
警備詰所が点在しはじめる。
馬車の列が長くなり、人の数が目に見えて増える。
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列車が大きく揺れ、速度を落としはじめた。
空気が変わる。
水の匂いがする。
首都セントリオ。
通称――水の都。
MEK総本部のある場所。
⸻
汽笛が鳴った。
長い旅路の終わりを告げる、あの低く伸びる音。
レインは窓の外から視線を戻し、座席の背に軽く指を置く。
微かな震動が床から伝わる。車輪がレールの継ぎ目を叩く規則的な振動が、次第にゆっくりと落ち着いていく。
――減速。
列車が、駅へ入る。
そして。
最後の大きな揺れのあと、ぴたりと止まった。
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扉が開き、風が流れ込む。
肌を撫でる空気はひんやりしていたが、不快ではない。
水を含んだ、清い冷たさ。
レインは荷物を手に立ち上がり、乗客の流れに混じってホームへ降りた。
その瞬間。
「……」
思わず、足が止まる。
ホームの広さが、エルディオとは比べ物にならない。
天井は高く、梁は鉄。
白い柱が等間隔に並び、床の石材は磨かれて艶がある。
人が――多い。
軍服。
官僚風のスーツ。
学園の制服に似た若者たち。
荷を抱えた商人。
そして、そのすべてが「慌ただしいのに整然」としていた。
声は多いのに、雑然としていない。
流れがある。
都市の心臓に血が巡っている――そんな印象だった。
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駅舎の外に出た途端、さらに視界が開ける。
「……すご」
小さく息が漏れた。
見上げると、石造りの建物が連なる。
建築は古いはずなのに、どれも新しい。
手入れされ、磨かれ、色褪せる暇も与えられていない。
通りの両脇には街路樹。
並木の下を、人々が往来する。
馬車が走り、荷車が並び、その隙間を――
車が走っていた。
エルディオでも見かけた。
アカデミーの実戦演出の際にも一度乗っている。
けれど、ここでは「珍しい乗り物」ではない。
普通に道路の流れに溶け込んでいる。
レインは一瞬だけ目を細めた。
(……ここは、違う)
「同じ国」のはずなのに、段違いだ。
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正面の大通り。
そこを横切るように、鈴の音と共に――路面電車が走った。
線路は石畳に埋め込まれ、車体は赤と金。
車掌がベルを鳴らし、乗客が乗り降りしていく。
その様子が妙に美しかった。
都市が、動いている。
計画されている。
それが、視覚から伝わってくる。
⸻
レインは人波の中を進む。
道路脇の標識。
交番のような詰所。
制服姿の巡回員。
掲示板には大きく、清潔な文字で「通行注意」「車両優先」「夜間灯火」の注意書き。
(……ちゃんとしてる)
それが率直な感想だった。
軍やMEKが強い国――というだけではない。
この都市は、国家機能そのものが「ちゃんとしている」。
街が、国を支えている。
そしてこの街こそが――その中心だ。
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しばらく歩いたところで。
視界の先が急に明るくなった。
建物の隙間が途切れ、風が抜ける。
次の瞬間。
レインは、言葉を失った。
⸻
――巨大な湖。
まるで海のように広い水面が、都市の縁に広がっていた。
空の光を映してきらめき、遠くの対岸が霞んでいる。
水鳥が飛び、帆船が小さく浮かび、港湾には荷揚げのクレーン。
湖畔には石造りの遊歩道が整備され、ベンチが並び、街灯が規則的に配置されている。
湖から伸びる水路が、街の中へ入り込んでいた。
水路沿いには歩道橋。
水面を渡る風。
そこを進む小舟。
――水の都。
通称が誇張ではないことが、ひと目で分かった。
セントリオ。
この国の中心。
国家の血流が集まる場所。
⸻
湖畔から見上げる街は、さらに壮観だった。
白亜の高い庁舎。
金属の尖塔を持つ通信塔。
堂々たる石段の先に、重厚な門。
そして、それらの上空を横切るように――架橋が走る。
水路の上を車が渡り、路面電車が横切り、人々が行き交う。
全てがひとつの大きな機械みたいに連動している。
都市が生きている。
都市そのものが、国家の象徴だ。
⸻
(……ここが)
(アウレリアの中心)
レインは、胸の奥に静かな熱を感じた。
湧き上がるのは恐怖ではない。
焦りでもない。
ただ、圧倒される感覚。
――ここに来たのだ。
アカデミーの次の舞台。
MEKの本拠地に近い場所。
この都市で、レインはMEKの一員としての人生を始める。
⸻
湖面の光が、レインの髪の端をきらりと照らした。
彼女は一度だけ息を吸って、ゆっくり吐く。
そして、歩き出した。
セントリオの中心へ。
大国の心臓へ。
まだ何も知らない誰もが、前を向いて生きている街へ。
———
レインは、案内の札を頼りに歩いた。
目的地はーー
「中央式典場」。
駅前の賑わいから外れ、行政区画へ入るにつれて、人の流れが変わっていく。
商人の声が消え、代わりに制服の足音が増える。
軍服。
官僚服。
そして、レインたちと同じ――新兵の制服。
街が、一段階だけ引き締まったような空気だった。
⸻
式典場は、湖畔の高台にあった。
巨大な石造りの広場。
左右に並ぶ旗。
真正面にそびえる、白亜の建物。
ここが、MEK総本部。
軍施設のようでいて、どこか行政庁舎にも似ていた。
つまり――戦う組織でありながら、国家の中枢でもある。
そういう場所。
⸻
広場には、すでに何千人もの若者が整列していた。
ざっと四千。
今年度の新人。
多すぎて、ひとりひとりの顔は判別できない。
けれど不思議なことに、騒がしくはない。
⸻
列が整うと、隊員が歩きながら淡々と指示を飛ばした。
「背筋を伸ばせ」
「視線は前へ」
「真気は抑えろ。式典だ」
あくまで事務的。
だがその事務的さが逆に、ここが現場だと感じさせた。
⸻
やがて、広場の前方――壇上に視線が集まる。
白い幕。
風に揺れる旗。
陽射しは穏やかで、空は春の色をしている。
そのくせ、ここだけは冷たい。
「国の場」だった。
⸻
司会が、短く告げる。
「アウレリア共和国、首相――エドガー・ハインデル閣下」
壇上に立ったのは、首相だった。
年齢は六十代半ば。
礼服。柔らかい笑顔。
声も滑らかで、波風を立てない。
「諸君。アウレリアの未来を担う若者たちよ――」
国家の安寧。
外界種の脅威。
MEKの誇り。
どれも正しい言葉だった。
そして、それ以上でも以下でもない。
最後は儀礼のように締めくくられる。
「今日という日を、皆さんの門出として祝福します」
拍手が起きた。
ちょうどいい熱量の拍手。
⸻
続いて、国防長官――ルシウス・グラナート。
MEKは国防省の機関の一つで、軍と横並びの組織である。国のトップの次は、国防のトップという訳だ。
だが――
(……同じような挨拶だな)
レインは、そう思った。
首相と似た文言。
国を守れ。誇りを持て。未来のために。
政治家の演説に必要な単語を、並べ替えただけの声音。
レインは拍手もせず、静かに瞬きをした。
⸻
そして。
最後の名前が呼ばれた瞬間、空気が変わった。
「対外界危機管理機構、総長――オズワルド・クロイツェル閣下」
アウレリア共和国で、彼の名を知らない者はいない。
MEK総長にしてランキング3位。
その年齢は七十に近いにも関わらず、だ。
半世紀近くランキングに君臨している怪物の中の怪物。
それがオズワルド・クロイツェルである。
どよめきが一瞬で消える。
拍手すら起きない。
壇上に立った男は、背筋がまっすぐで、余計な動きがない。
七十に近いはずなのに、老いは見えない。
ただ――重い。
その存在そのものが、剣のようだった。
———
「今日から諸君らはMEKの一員だ」
「選ばれたのではない。残ったのだ」
「途中で折れた者」
「自分を誤魔化した者」
「力に溺れた者」
「そういう者は、ここにはいない」
⸻
ここで、ざわめきが消える。
⸻
「この国――アウレリアは、豊かでない」
「国土は狭く…」
「資源も乏しい」
「そして大国に挟まれ、常に喉元に刃を突きつけられている」
「それでも、この国が生き残っている理由は一つ」
「――武力だ」
⸻
「軍が矛なら、MEKは何だと思う?」
一拍置き、淡々と続ける。
⸻
「MEKは――刃だ」
「外界種への対処だけが役目ではない」
「この国が“強い国であり続ける”ための」
「目に見えない抑止力であり」
「他国が、我らが領土に踏み込むことが出来ない理由そのものだ」
⸻
「軍とは違う。だが同じだ」
「軍が戦場で国境を守るなら」
「MEKは、国そのものを守る」
「外界種から」
「大国から」
⸻
この一言だけ、重かった。
⸻
「諸君」
「ここから先は“学び”ではない」
「綺麗事を言えば、守れないものがある」
「守ると誓えば、汚れることもある」
「だが、迷うな」
「迷いは死ぬ」
「迷いは奪われる」
⸻
「強くなれ」
「勝つためではない」
「誇るためでもない」
「――国をさらに強靭にするために」
⸻
最後に、ようやく視線が新兵たちを貫く。
⸻
「高みを目指せ」
「国に尽くせ」
「己の名ではなく――」
「アウレリアの名に違って」
「以上」
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式典の締めとして、全員が右拳を胸に当て、宣誓を唱える。
「我々は外界種を断つ刃となる」
「我々は民を守る盾となる」
声が揃い、広場に反響した。
その音が、都市の湖面へ溶けていく。
⸻
入隊式が終わると、人の流れは一斉に解けた。
整列していた新人たちがそれぞれの所属へ散っていく。
誰もが少し背筋を伸ばしながら、けれど顔には緊張が残っていた。
――MEKに入った。
その事実だけが、重い。
⸻
レインは配給された資料を抱え、宿舎へ向かう。
総本部の敷地は広い。
歩くだけで息が切れそうになるほど建物が並び、道が整備され、どこを見ても規律が染みついていた。
すれ違う隊員は、皆きちんと制服を着ている。
真気の気配が、そこかしこにある。
(……アカデミーとは、別世界だ)
同じ“鍛える場所”のはずなのに、空気が違う。
ここは教育じゃない。
ここは最初から――実戦だ。
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宿舎は、想像以上にあっさりしていた。
余計な装飾もなく、必要最低限。
ベッドと机、収納、そして小さな窓。
荷物を置き、制服の襟元を整え直す。
深く息を吐くと、ようやく身体の奥の緊張が落ちた。
(……ここからだ)
レインは鏡に映る自分の顔を見る。
いつも通り、優等生の顔。
――誰も疑わない顔。
⸻
翌日。
指定された時間に、レインは総本部に向かって歩いていた。
高い塀の向こうに、静かな建物群が見えてくる。
派手な紋章もない。
看板も小さい。
それが逆に不気味だった。
守られているというより、隠されている。
レインは門の前で立ち止まり、入構証を提示する。
門が開く。
冷たい空気が流れ込んだ。
――ここからが、新しい章だ。
レインは一歩踏み出した。
断罪の炎を、胸に燃やして。




